第1話「目覚め」
最後に見たのは、天井だった。
ひびが走り、崩れ落ちてくる灰色のコンクリート。粉塵。誰かの叫び声。それから——何もなくなった。
痛みすら感じる間がなかった。
田中大地、享年三十四。死因、建物崩壊による圧死。
まあそんなところだろう、と思った。思えた、ということは、まだ意識があるらしい。おかしな話だ。
(死んだのに)
真っ暗だった。音もない。何もない。ただ、自分が「自分」であるという感覚だけが、妙にはっきりと残っていた。
それがどれくらい続いたのか、わからない。
ふいに、何かが届いた。
(子供の声?)
泣いているように聞こえる。声の方向へ意識を向ける。
真っ暗な中——そこだけ色が着いているかのように、うずくまる子供がいた。白銀の髪。年は五歳頃だろうか。誰かを呼んでいる。
(面倒事だな……)
大地は無視しようと視線を逸らした。
少女の悲鳴。
目を向けると、足元から崩れるように光の中へ消えていく少女の姿。怯えきった表情。少女は周りを見渡しながら泣き叫んでいた。
目が合った。
(チッ……)
大地は思わず手を伸ばし、少女の腕を掴んだ。
光に包まれ、意識が闇の中へ途切れた。
◇
揺れていた。
規則的な、ゆっくりとした揺れ。
(……また地震か)
違う、と気づくのに数秒かかった。これは揺れではなく、揺られているのだ。車輪の音がする。蹄の音がする。馬車だ。
次に気づいたのは、匂いだった。
鉄の匂い。濃く、重く、密室に充満している。
目を開けた。
視界が、ぼやけていた。低い天井。木の壁。小さな窓から差し込む光が、橙色に揺れている——夕暮れだ。
そして、血だった。
床に広がる暗い染み。座席の端まで届いている。自分の身体にも、べったりと。
(何だ、ここは)
身体を起こそうとして、止まった。
腕が短い。細い。まるで子供の——
(……子供?)
自分の手を見た。小さな、白い手。関節もなく、皺もなく、ただただ幼い。
三十四年間使い続けた自分の手ではなかった。
「――――」
声がした。
顔を上げた。
女性がいた。
座席にもたれるようにして、こちらを見ていた。年のころ三十前後だろうか。淡い金色の髪が乱れ、白いドレスは赤く染まっていた。深い傷を負っているのが一目でわかった。それでも、その目は真っ直ぐにこちらを見ていた。
(さっきの子供に似ている)
何かを言っている。唇が動いている。しかし言葉が、わからない。
音としては聞こえる。だが意味が、まるでわからなかった。
(言語が違う……?)
女性の声が、少し大きくなった。懸命に、何かを伝えようとしている。
その手が、ゆっくりと伸びてきた。
冷たかった。それでも確かな力で、頬に触れる。
「――――、――――」
わからない。何を言っているのか、何一つわからない。
ただ。
その顔が、ゆっくりと緩んだ。
泣いているような、笑っているような。どちらでもあるような、どちらでもないような。ただ静かに、深く、安堵したような——そんな顔で、女性は微笑んだ。
頬に当てられた手から、力が抜けていく。
「――――」
最後の一言。
それが何を意味するのか、大地にはわからなかった。
女性の目が、静かに閉じた。
手が、落ちた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
馬車は走り続けていた。車輪の音だけが響いている。
座席の隅に、もう一人いた。若い女性——使用人だろうか。腕を押さえ、顔を青ざめさせながら、こちらをじっと見ていた。その目に浮かんでいるのは悲しみか、恐怖か、あるいはその両方か。
(何かの事故?襲撃か?)
大地は自分の手をまた見た。
(落ち着け)
深呼吸をしようとして、肺の小ささに気づいた。身体が小さい。声を出せば、きっと幼い声が出る。
(整理しろ。俺は死んだ。それは確かだ。だが今ここにいる。それも確かだ)
床の血溜まりを見た。女性の顔を見た。自分の手を見た。
(この身体は——誰だ?)
頬にまだ、温かさの残滓があった。
たった今消えた命の、最後の温もり。
(あの子は……どこへ行った)
答えは、ない。
馬車は走り続ける。使用人の女性が、震える声で何かを言った。やはり、わからない。
大地は静かに、窓の外を見た。
見たことのない空だった。夕暮れの橙色の中に、月が二つ、並んでいた。
(——異世界か)
妙に冷静だった。パニックになる余裕すらなかったのかもしれない。あるいは、三十四年間で身についた何かが、こういう時に働くのかもしれない。
大地は一つ、息を吐いた。
(まず、言葉を覚えなければならない)
それだけ考えた。
瞼が重くなっていく。
女性の手が落ちた場所を、もう一度だけ見た。
——わからないままに、なってしまった。
【第2話へ続く】




