第24話「魂の境界」
王宮の魔法術式専門家との調整が終わったのは、秋の終わりだった。
魂分離術式の発動日が決まった。場所はエルフィア領の屋敷——魂繋ぎが発動した場所だ。
その日の朝、大地は一人で馬車に乗っていた。
◇
(今日で終わるのか)
今度は止まらなかった。
全部終わる。バルトゥス。ヴィクトル。禁忌魔法の解除。そして——
(俺が消える)
恐怖ではない。後悔でもない。
ただ——少しだけ。
(少しだけ、惜しいな)
珍しい感情だった。大地自身が驚くほど、珍しかった。
何が惜しいのか。
(この場所か。それとも——)
答えを出す前に、やめた。
◇
白猫が膝の上にいた。
今日も連れてきた。どうせ最後だと思って、預けなかった。
(お前はどうなるんだろうな)
白猫が大地を見た。金色の目で。
(まあ——お前のことは、レオンに頼んでおいた)
昨夜、レオンに頼んだ。「白猫の面倒を見てくれ」と。
レオンは最初、何も言えなかった。それから「わかった」と言った。声が少し揺れていたが、大地は気づかないふりをした。
◇
馬車の窓から、エルフィア領が見えてきた。
秋の終わりの空。枯れ葉が舞っている。
(この領地も、変わったな)
10近く前、この身体に気づいた時とは——違う景色になっている。
流通が整い、人が動き、子供が走っている。
(これは続く。俺がいなくなっても、続く)
それで十分だ、と思った。
本当にそう思えた。
◇
屋敷の前で、全員が待っていた。
アドリアン。アメリア。レオン。王宮から来た術式専門家。
ルミナは気になる事があると言い、どこかへ行って戻ってきていなかった。
(ルミナは相変わらずだな)
大地が馬車を降りると、アメリアが前に出た。
「おかえり」
「ただいま」
いつもの言葉だった。
アメリアが大地の目を「視た」。一瞬だけ。それから、何も言わなかった。
(何が見えた)
大地は聞かなかった。
アドリアンが大地の肩に手を置いた。何も言わなかった。それだけだった。
レオンが大地を見た。
「……準備はいいか」
「ああ」
大地は屋敷に向かって歩き始めた。
白猫が肩に乗ったまま、大人しくしていた。
◇
部屋は、静かだった。
オパリアが生まれた部屋——今は使われていない子供部屋だ。窓から秋の光が差し込んでいる。
術式専門家が準備を整えた。床に術式の紋様が描かれている。大地はその中心に立った。
レオン、アドリアン、アメリアが壁際に立っている。ルミナも、少し離れた場所にいた。
白猫はアメリアの腕の中にいた。
◇
「始めます」
術式専門家が言った。
大地は頷いた。
術式が発動し始めた。
床の紋様が光り始める。白い光だ。足元から、何かが流れてくる感覚がある。
(これが——魂繋ぎの改変術式か)
痛みはなかった。ただ——何かが、引かれていく感覚があった。
(これが、引き離されるということか)
◇
光が強くなった。
その時。
後ろから——何かが抱きついた。
大地は振り返れなかった。術式の最中だ。動けない。
しかし——感じた。
細く白い腕が、大地の背中から回されていた。
細い。女性の腕だ。
(……)
ゆっくりと、頭が大地の背中に預けられた。
声が聞こえた。
「……行かないで」
小さな声だった。
「ずっと、側にいて」
◇
大地は動けなかった。
光の中で、ただ立っていた。
(オパリア)
振り返れない。見られない。
しかし——わかった。
ずっとそこにいた。最初から。罪悪感が見せる幻だと思っていた影が、本物だったことも。笑っていたことも。白猫を撫でていたことも。
(この十年、見ていたのか。全部)
大地の中で、何かが——ほんの少しだけ、揺れた。
(わかっていれば、もう少し。いや、変わらんな)
感情の名前は、やはりわからなかった。しかし。
「……やはり似ているな」
大地は言った。
小さな声だった。
「虹に」
背中の腕が、少し強くなった。
泣いているのかもしれなかった。
◇
光がさらに強くなった。
腕の感触が、薄れていく。
(待っていてくれ)
大地は思った。声には出なかった。
(お前の身体を——返す。それが筋だ)
腕が、消えた。
光だけが残った。
◇
光が、消えた。
部屋に——少女が立っていた。
白銀の髪。金の瞳。
オパリア・カスタ・ヴァルテールが、そこにいた。
涙が、頬を伝っていた。
誰も、何も言えなかった。
オパリアは泣いていた。声を上げずに、静かに。ただ、涙が止まらなかった。
アドリアンが一歩前に出た。それから——膝をついた。
「……オパリア」
掠れた声だった。
オパリアがアドリアンを見た。
何も言わなかった。ただ、頷いた。
◇
その頃。
大地は——暗闇の中にいた。
どこでもない場所だ。光もない。音もない。ただ、暗い。
(消えた、か)
そう思いかけた時。
前から、誰かが来た。
女性だった。年のころ、三十代か。穏やかな顔立ち。アドリアンに似た金の髪——目元がオパリアに似ていた。
大地は動けなかった。
(……ずっと待っていたのか)
女性が立ち止まった。大地を見た。
その目が——大地には見覚えがあった。
馬車で見た女性。魂繋ぎを発動し大地を呼び寄せた女性。
(オパリアの——母親か)
◇
「全て終わったのね」
母親が言った。
柔らかい声だった。
「……ああ」
大地は答えた。
「約束は守ったぞ」
母親が少し目を細めた。
「ありがとう」
それだけだった。
大地は少し間を置いた。
「お前が改変した術式は——完璧だったぞ。どこで学んだ」
母親が少し笑った。
「ヴァルテール家に嫁いで、随分勉強したの。貴族の義務というものよ——結果的に、役に立ったわね」
「そうか」
沈黙。
「……オパリアは」
「大丈夫よ。ちゃんと戻ったわ」
「そうか、ならいい」
◇
「一つ聞きたい」
「何かしら、わかる範囲で答えるわ」
「なぜ、俺だったんだ?」
「私にもわからない。でもあの日、何か繋がりを感じたの」
「やはりあの時、手を伸ばしたのは厄介事だったな」
大地は少しだけ笑った。
母親の輪郭が、薄れ始めた。
「もう行くのか」
「ええ、随分と待たせてしまっているから」
大地は何も言わなかった。
言うべきことは——もうない。
「一つだけ」
母親が言った。
「あなたの名前を、教えてもらえる?」
大地は少し間を置いた。
「田中大地だ」
「大地」
母親が繰り返した。
「いい名前ね」
輪郭がさらに薄れた。
消える直前、母親が何かを唱えた。
古い言葉だった。大地には意味がわからなかった。しかし——温かかった。
◇
光が来た。
暗闇の向こうから、白い光が広がってきた。
大地は光を見た。
(そうか。これで——)
白猫のことを思った。レオンのことを思った。アドリアンのことを思った。アメリアのことを思った。
オパリアは、泣かせてしまったな。
(まあ——悪くなかったな)
光が、大地を包んだ。
ランプの火が揺れるように——静かに、消えていった。
【第25話へ続く】




