第17話「最大の駄作」
原作主人公の少女。ルミナとの遭遇から数ヶ月
ルミナが屋敷に来るのは、もはや珍しいことではなくなっていた。
事前に連絡を寄越すという条件をつけたことで、少なくとも大地が心構えをできる形にはなっている。今日もアドリアンから「友達が来るぞ」という報告を受けていた。
(友達、ではないんだが。まぁいいか)
書庫に三人が集まっていた。
大地、レオン、そしてルミナ。
ルミナは今日も嬉しそうだった。レオンの隣に座り、話が弾んでいる。レオンは——慣れてきたのか、以前ほど固くはなっていない。それでも時々、複雑な顔をしていた。
◇
「他の作品も読んでいるんだな」
大地が言った。
「はい!全部読んでいます」
ルミナが目を輝かせた。
「他の作品では——モデルになった人物等はいるのか?」
レオンが少し硬くなった。大地は気づいたが、視線をルミナに向けたまま動かさなかった。
「ええと——いくつかの作品には、実在の人物をモデルにしたと言われているものがあります」
「多いのか?」
「『硝子の庭師』とか、『夜明けの手紙』とか——主人公や登場人物にモデルがいるって、読者の間では公然の秘密として有名で」
ルミナが楽しそうに語った。雫の作品への愛が、言葉の端々に滲んでいる。
大地は聞きながら、観察していた。
レオンの呼吸が、少し変わった。
◇
「この作品——原作にも、モデルになった人物がいるんですよね。確か――」
ルミナがふと言った。
何気ない問いかけのような口調だった。しかし——
「待って、それは――」
レオンが声を出して止める。ルミナの目が、レオンを見ていた。
探るような目ではなかった。純粋な、好奇心の目だった。
しかし大地には、ルミナが何かに気づき始めていることがわかった。
(気付いたか)
大地が何かを言う前に、ルミナの目が変わった。
見開かれた。
「——あの」
ルミナの声が、わずかに震えた。
「レオン様って……もしかして」
レオンが動けないでいた。
「雫先生……ですか?」
◇
沈黙が落ちた。
書庫の中に、ランプの火の音だけが聞こえた。
ルミナがレオンを見ていた。答えを待っている。
レオンは——何も言えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ルミナの目に、みるみる光が宿った。涙ではない。興奮だった。
「やっぱり……!突然行方不明になったと聞いてて。でも、レオン様の話し方とか、作品を語る時の目とか——雫先生の文章に出てくる視点と同じで——」
ルミナが口を押さえた。押さえながら、それでも言葉が出てきた。
「ということは——この原作を変えようとする事にも納得が出来ます。嫌いな作品だと公言していましたよね。それと、モデルになった人物が――」
大地の内心が、静かに冷えた。
(止められない)
「雫先生、ずっと気にしていたんですよね。行方不明になったモデルの人を――」
レオンが、かすかに口を開いた。
「……」
「虹さんのことを」
レオンが目を閉じた。
「……そうだよ」
静かな声だった。絞り出すような声だった。
「田中虹。それが——モデルの名前だ。……ごめん大地」
◇
ルミナが、しばらく黙っていた。
大地は動かなかった。
(田中虹。やはりそうだったのか)
自分の妹の名前が、この部屋に落ちた。
ルミナが何かを言いかけた。その時——大地の視線に気づいたのか、口を閉じた。
何かを感じ取ったのだろう。大地の表情は変わっていない。しかし——何かが、違う。
「……あの」
ルミナが小さく言った。
「田中、という苗字——」
「ルミナ」
大地が言った。
穏やかな声だった。令嬢の声だった。
「そのことは、また今度だ」
ルミナが大地を見た。
大地は微笑んでいた。しかしその目が——ルミナには、何も言えない目に見えた。
「……はい」
ルミナが頷いた。
◇
しばらくして、ルミナが立ち上がった。
「あ、そういえば——」
急に声が明るくなった。
「バルトゥスの件、私が集めていた証拠があるんです!今日持ってくるのを忘れてしまって——取ってきてもいいですか!すぐ戻ります!」
返事を待たずに、ルミナが書庫を飛び出していった。
扉が閉まった。
廊下に、足音が遠ざかっていく。
書庫に、大地とレオンが残された。
◇
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
ランプの火だけが揺れていた。
レオンは俯いていた。膝の上に両手を置いて、動かない。
大地は窓の外を見ていた。
◇
「……言えなかった」
レオンが言った。
小さな声だった。
「モデルのことが——お前に言えなかった。ずっと」
大地は答えなかった。
「あの時……お前が妹の名前を言った時」
レオンの声が、少し揺れた。
「確信した。でも——言えなかった。言ったら、全部壊れると思って」
沈黙。
「……お前の妹の話を、私は素材にした。それを知っていて——ずっと黙っていた」
◇
大地は窓の外を見たまま、少し間を置いた。
「一つ聞く」
「……何」
「お前が虹の話を書いた時——それが俺の妹だと知っていたか」
レオンが首を振った。
「知らなかった。取材で聞いた話だった。名前も——田中、という苗字は聞いていたけど。苗字が同じなんてよくある事だと思っていた」
「いつ気づいた」
「……最初に話をした夜。お前のフルネームを聞いた時に、引っかかりがあった。でも確信したのは——お前が妹の名前を言った時」
大地はそれを聞いた。
(やはりそうか)
家族の話をした夜、レオンの沈黙が長かった理由が、今になって繋がった。
「それから、ずっと黙っていたのか」
「……うん」
◇
また沈黙が続いた。
大地は考えていた。
怒るべきか。責めるべきか。——どちらも、今は違う気がした。
レオンが虹の話を書いた。それは知らなかったからだ。気づいてから言えなかった。それは——大地にはよくわからない感情だが、レオンにとっては重かったのだろう。
しかし。
「一つだけ言う」
大地が言った。
「……うん」
「モデルのことを黙っていたことはいい——今後、同じことをするな」
「……わかった」
「それだけだ」
レオンが顔を上げた。
大地は窓の外を向いたままだった。
「……それだけか」
「それだけだ」
「怒っていないのか」
「怒っていない、とは言わない」
大地は少し間を置いた。
「ただ——今怒っても、虹は戻らない。お前が書いた話は変わらない。意味がない」
レオンが黙った。
◇
しばらくして、レオンが言った。
「……オパリアのモデルが、お前の妹だと知った時——お前は、どう思った」
大地は少し考えた。
「わからない」
「わからない?」
「感情の名前がわからない。何かはある。ただ——名前をつけると、動けなくなりそうな気がする。だから、まだつけていない」
レオンが、大地を見た。
初めて聞くような答えだった。
「……お前も、そういうことがあるんだな」
「何がだ」
「整理できないことが」
大地は答えなかった。
それが答えだった。
◇
廊下から、足音が近づいてきた。
ルミナが戻ってきた。腕に書類の束を抱えている。
「お待たせしました!これです、バルトゥスの件——」
扉を開けて、ルミナが入ってきた。
書庫の空気が、入る前と変わっていることに——ルミナは気づいたのかもしれない。しかし何も言わなかった。
ただ、少し静かな声で言った。
「……書類、見ますか」
「見せろ」
大地が答えた。
ルミナが書類を広げた。
三人はそれぞれの場所に座って、証拠の確認を始めた。
書庫に、紙をめくる音だけが続いた。
【第18話へ続く】




