第9話「視える目」
白い花が、風に揺れていた。
ヴァルテール家の庭園は広い。手入れの行き届いた芝の上に、白い花が整然と植えられている。中央の白いテラスには、小さな丸テーブルと椅子が二脚。銀のポットから湯気が立ち、皿の上には彩りのいい菓子が並んでいた。
大地は椅子に座り、カップを持ち上げた。
(これは……かなりきついな)
人前では令嬢として振る舞う。それは決めていた。使用人たちの目がある場では、少し物静かだが和やかな少女として過ごす——そのつもりだった。
つもり、だった。
実際にやってみると、正直これほど消耗するとは思っていなかった。慣れない表情の作り方。声の抑揚のつけ方。手の置き方、カップの持ち方。何一つ自然ではない。三十四年間、別の身体で生きてきた人間が、五歳の令嬢の所作を一から作り直している。
(早く終わってほしい)
向かいの席に座る、アドリアンの妻アメリアが座っていた。初めて顔を合わせる。
朱色の髪が、午後の日差しの中で明るく光っていた。赤みがかった瞳。年のころ三十前後だろうか。顔立ちは整っているが、表情に柔らかさがない——というより、柔らかさを必要としていない、そういう顔だった。
使用人が菓子を補充し、一礼して下がっていく。
二人きりになった。
庭園に、風の音だけが残った。
アメリアのカップが、静かにソーサーに置かれた。
その瞬間、大地は何かが変わったと感じた。
(なんだ、この目は)
アメリアがこちらを見ていた。先ほどまでと同じ顔だ。しかし目が違った。観察ではない。分析でもない。今まで感じたことのない種類の視線——まるで、布を一枚ずつ剥ぐように、内側を見ている様な視線。
アメリアの瞳が、仄かに光を帯びた。
(これは……知っている。魔法の素養を持つ者の目だ。それも”特別”な)
大地は一瞬だけ考えた。
令嬢を続けるか。やめるか。
答えはすぐに出た。
大地は表情から作り物を取り除いた。柔らかな微笑みが消え、無機質な静けさが戻る。背筋の角度が変わる。カップを持つ手が、大人の手つきになる。
「いい判断だね」
アメリアが言った。声は穏やかだった。しかし揺らぎがない。
「私の目にはその下手な演技は無意味だよ」
敵意はない。しかし信用されているわけでもない。ただ、事実を述べている。
「初めまして、アメリア夫人」
大地は一礼した。
「知っていると思うが、俺はオパリアではない」
「知ってる」
アメリアはそれだけ言った。
「目的はオパリアを取り戻すことだと言っていたわね」
前置きがない。建前がない。核心だけを問う。
「でもなぜ?新しい身体で生きていくこともできるのに」
赤みがかった瞳が、大地を見据えていた。値踏みではない——確信を突いている。
「個人的な考えだ」
大地は淡々と答えた。
「俺は既に一度死んでいる。子供から身体を奪い生きる程、生への執着はないだけだ」
嘘は言っていない。全部、本当のことだ。
アメリアはしばらく黙っていた。
「そう」
それだけ言って、立ち上がった。
「ならいいわ。来なさい」
傍らに来るように、手招きをした。
大地は少し間を置いてから、席を立った。テーブルを回り、アメリアの前に立つ。
アメリアが姿勢を落とした。大地の目線に合わせるように、膝をついて視線を合わせる。それから、そのまま抱き締めた。
「……何のつもりだ。俺はオパリアでは——」
「わかってる、それでもこの子はオパリアなのよ」
アメリアの声は静かだった。
「貴方のことも〝視えた〟から。アドリアンはお仕置ね、こんなに素敵な人を悪魔だなんて」
(〝視えた〟とはなんのことだ。どこで気づいたんだ)
観察とは違う。別の何かで正体を見抜かれた——そのことへの困惑が、大地の中で静かに広がった。
「アドリアンから聞いていないのね」
アメリアは身体を離し、大地の目を見た。その表情は少しだけ柔らかい、本来なら姪へ向けるはずだった微笑み。
「私には人の心が視える。そういう体質なの」
自分の目を、指で示した。仄かに光を帯びた瞳を。
「魔法の素養を持つ者には、極稀に特殊な体質が現れることがある——その力か」
大地は事実として整理しながら言った。
(厄介な体質だな。敵でも味方でも。敵側に同様の体質者がいないとも限らない。今後の対策を考えねば)
「体質持ちは国に一人か二人いればいい程度の割合よ」
アメリアが言った。大地の内心を読んだように。あるいは、本当に読んだのかもしれない。
「気にするだけ無駄。それより——」
椅子に座り直したアメリアが、大地をもう一度見た。今度は別の光が目に宿っていた。
「さっきの演技、見てられないわね」
大地は黙っていた。
「テーブルマナーは一通りできるようだけど、表情も仕草もまるでわかっていない。これじゃ宝の持ち腐れね」
(否定できないのが腹立たしいな)
「でも」
アメリアの口元が、わずかに動いた。
「飲み込みは速く、応用する地頭もある。教え甲斐がありそうね」
笑顔だった。
穏やかで、温かみのある笑顔だった。しかし大地はその笑顔を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(本当に厄介なことになったな)
何をしようとしているのか、大地には理解できた。
理解できてしまった。
大地は少しだけ、頭の回転の速い自分を後悔した。
【第10話へ続く】




