第二十五話 北西へ
ナタリの街の中心部は通らず、まず街の外へ出て回り込む。古い街道沿いは、松やオークの高い樹林が影を落とし、日差しはいくらか和らいだ。木立の奥から細いセミの声が聞こえ、倉庫のフェンス沿いには、さるすべりが咲き残っていた。
これまで旅のお供だったラジオは、セオットのバックパックにしまわれていた。スコールで濡れてから、つまみを回すたびに雑音が混じるようになっていたが、まだ音は拾えた。それでも、今は鳴らせなかった。二人は、木立の奥のセミの声と、背後から近づく車の音だけを聞いて走った。
ガススタ併設の店舗で食料を調達するときは、イータを店の裏の木陰で待たせた。朝の聞き込みで、追手が「若者二人組」と「銀色っぽい髪」を手がかりにしていることは分かっていた。イータの自転車は、マーレからもらった赤いものだった。少し目立つ。気休め程度に、途中のトラック用品店で黒い塗装スプレーを買い、サドルやハンドル、ブレーキ周りだけをタオルで覆って、フレームを雑に染めた。乾くのを待つ余裕がなかったので、塗料の匂いが鼻につき、イータのジーパンがところどころ黒くなった。
キーに付いていたキーホルダーも外した。
イータがしかめっ面でぼやく。
「マーレ、外すなって言ってたんだけど」
「キーホルダーのせいでお前が追手に捕まったら、それこそマーレが泣くぞ」
イータは黙ってキーホルダーをバックパックの底へ落とした。
道中の食事は、送電線の管理道や古い教会裏に入り、木陰でスナックやプロテインバーなどを食べて済ませた。
日が沈むころ、周囲の風景は、くすみ始めた葛に覆い尽くされていた。電柱も、家屋も、壊れたフェンスも、緑の海に沈んでいるように見えた。雨が降り始めたので、少し前に通り過ぎた打ち捨てられた古いガソリンスタンドまで戻って、夜を過ごすことにした。
古い小屋は、屋根はあるが、窓ガラスが割れていて、隙間風に乗って古い油の匂いが舞い込んだ。自転車も小屋へ入れ、地面に散乱した錆びた工具や何かの部品を端に寄せ、テントを張った。雨と虫だけは屋外より凌げたが、風で時折窓枠や壁が軋むたび、イータは怯えているのを隠しきれなかった。
「今の何の音?」
「戸棚が揺れてる」
「なんか声聞こえない?」
「隙間風だ」
「ねずみ?」
「ねずみだな」
セオットは、一瞬イータを驚かせたい気持ちが湧き上がったが、自重した。
夜のうちは、しとしとと雨が降り続いていた。翌朝、テントを畳んで小屋から出ると、雨は止んでいたが辺りは霧に覆われていた。霧の中から大型車両が急に現れるため、二人はしばらく自転車を押しながら、路肩を歩いた。
小一時間ほど歩くと、霧が晴れて日が差し込んできた。再び自転車に乗り、丘陵を登っていくと、広大な牧場が現れた。干し草に、牛舎のアンモニア臭が混ざった匂いがして、牛の鳴き声が聞こえてきた。遠くで牛が草を食んでいるのを、イータが物珍しげに見つめていた。
しばらく行くと、犬の吠える声が聞こえてきた。フェンスの向こうで、二匹の犬がセオットたちに並走した。開いていたゲートから、一匹が飛び出てくる。イータは驚いてバランスを崩しそうになった。
「ハンドル切るな!まっすぐ進め!」
セオットが叫ぶと、犬はイータの自転車の前輪に鼻先を突っ込んできた。イータがふらつき、地面に足をついて取り乱す。
「犬!犬!」
もう一匹が後ろから追いついてくる。
「イータ降りろ!後ろにいろ!」
セオットは、自転車を降り、車体を立てたまま犬との間に割り込ませた。
「帰れ帰れ!」
なおも二匹は吠えながら、自転車を回り込もうとした。イータが後ずさりをしたとき、牧場の奥から男の怒鳴り声が飛んできた。犬は、吠えながら後ろに下がっていった。
牧場主の姿が見え、犬たちがゲートへ走り去って行く。
イータは、足が震えていて、すぐにはペダルを漕ぎ出せなかった。
「どこも安全じゃねぇな……」
セオットの額に、汗がにじんでいた。
その後の道も、いくつか牧場やぬかるみを通り抜け、行き止まりに当たることもあった。
夕暮れには、二人は長い尾根に挟まれた谷の町の外れにいた。
廃業した小工場があったので、壊れたフェンスの隙間から忍び込んだ。
廃工場の壁は葛に覆われ、窓ガラスはここでも割れていた。中に入ると、古い油と湿ったコンクリートの匂いがした。イータが、空き缶や焚き火の跡を見つけた。
「人がいるかも」
セオットはしゃがんで確認する。
「時間が経ってる。たぶんいない」
「いたらどうするの」
「その時は逃げる」
奥の壁に、大きな金属フレームと長いローラーがあり、その横に幅広い裁断機が残されていた。
その脇の棚から、敷物らしきロールが落ちかかっていた。
イータが覗き込む。
「カーペットかマットの工場っぽい。これ敷いて寝れるかな」
「ダニがいるかも知れないぞ」
セオットは、タオルを口に巻いて、慎重にロールを床に広げた。厚みのあるカーペットで、内側は鮮やかな模様が残っていた。その上にテントを開き、寝袋を広げた。
壁の向こうからは虫の音が響き、時折、トラックや遠くの貨物列車の音が聞こえてきた。
セオットはいつでも逃げられるよう、頭の横に靴を揃えた。
翌朝はよく晴れていた。アップダウンが急になり、狭く曲がりくねった道が続く。イータは長い自転車旅による身体中の痛みをこらえながら、登り坂では自転車を引いて歩いた。膝は笑い、靴の中ではマメがつぶれていた。セオットも口数が減り、肩で息をするようになった。
上空には、鷹が旋回していた。
低い尾根の谷間を抜けると、急に道が広がった。
資材置き場、店舗、住宅街が増え、倉庫や工場が何度も現れるようになった。
電動配送バンが静かに脇をすり抜け、風を揺らした。古いディーゼルトラックが、その後に続いた。
道路脇に停車しているトラックには、見覚えのあるインディゴのロゴが記されていた。ライリバーだった。
セオットが目を細めると、上空に低い駆動音が響いた。イータとセオットは、空を仰いだ。マットシルバーの機体が、北西の低い尾根の向こうへ降下していくのが見えた。
セオットは、地図を畳んで言った。
「この先がガーヌチャーだ」
「うん」
イータは、黒い塗料の跳ねたハンドルを握り直した。




