第二十三話 スコール
ダーガスを出ると、道路脇の緑に、黄色や紫の花が混じるようになった。まだ日中はじめっとした暑さが残り、給水できるところを見つけるたび、休んだ。体よりも、判断力が少しずつ削られていくような感覚がした。
しばらく川沿いを進み、川を離れると、松林の間に湿地帯が見えた。湿気に乗って、甘い樹液臭も漂ってくる。
ところどころに住宅や小さな教会、給油所やコンビニが点在していた。
遠くにセミが鳴き、近くの草むらからは虫の音が響いた。緑のトンネルをくぐる時は、頭上から甲高い鳥のさえずりが降ってきた。イータは、鳥の姿を探して上を向きながら走っていて、立ち止まったセオットに追突しかけた。
セオットは、時々止まって地図を確認し、宿の取れそうな地点を見定めていた。
「この先、しばらく街が少ない」
そう言うと、セオットは早めにモーテルを取った。カウンターの老婆にIDを尋ねられた。セオットは、無いと答えた。老婆は二人をじっと見つめてから、料金を告げた。セオットは、視線に少し嫌な感じがしたが、黙って現金を差し出した。
喫煙部屋しか空いてなかったので、タバコ臭くてイータはむせていた。こぢんまりとして質素な部屋だった。シャワーだけ済ませて、近くのコンビニで買ってきたナッツとサラダサンドを食べた。
セオットは地図を眺めながら言う。
「この先は、テントが役に立つかもしれない」
「無いよりましか……」
「寝れるうちに早めに寝ておいたほうがいい」
自転車旅の疲労が重なり、二人はすぐに眠りに落ちた。
二日目は、緩やかな坂道の上り下りが続き、ペダルが徐々に重くなっていった。
道路脇に黒い鳥が群がり、何かの塊を突いていた。イータはそれが何か見ないようにした。しばらく、甘く腐ったような臭いだけがついてきた。
牧場の横を通りかかると、馬のいななきが聞こえた。イータは思わずフェンスの奥へ目を向けた。牧場を越えたあとは、林や農地が何度も現れた。道幅が狭くなったところで、背後からトラックの音が迫った。
セオットは振り返り、イータに寄れと叫んだ。しかし声はエンジン音に呑まれた。
トラックが速度を緩めず、すぐ横を追い越して行った。風圧に煽られ、イータの自転車はバランスを崩して雑木林の緑へ倒れ込んだ。
「イータ!」
セオットは自転車を投げるように降り、駆け寄った。イータはしばらく地面に手をついたまま、動けなかった。バックパックを庇うように身を捻ったため、頬や肘、膝小僧を擦りむいていた。
「気をつけろよ!」
声が荒くなった。言ってから、セオットは奥歯を噛んだ。間に合わなかったのは、自分の方だった。
ため息とともにバックパックから絆創膏と消毒液を取り出し、イータの傷を手当てしようと屈んだ。
「ありがとう、自分でやる……」
イータは手のひらを出して、絆創膏を受け取った。頬の傷だけは、セオットが手当てした。白い肌に走る赤い筋を見て、セオットは顔を歪ませた。
「この辺、運転荒い……」
再び走り出したところで、すぐにイータは自転車がパンクしていることに気づいて止まる。詰んだかと思った。
「ごめん、パンクしちゃったんだけど……」
「……端によれ」
セオットは今度はバックパックから、パンク修理キットと携帯ポンプを取り出して、修理を始めた。
イータはいつもの突っ込みを挟んだ。
「お前のバックパック、ほんとに何でも入ってるな……」
「旅の基本だろうが。PCだけバックパックに詰めてても、生きてけねぇ。お前それでよく一人で行くなんて言ったな」
「…………」
イータは、返す言葉が見つからなかった。自分でもやり方を覚えようと、横でセオットの手つきをずっと見ていた。
修理を終えて走り出す頃には日が傾きかけ、過ごしやすい気温になっていた。カエルが合唱を始め、あたりが薄闇に包まれ始めても、街が見えてこない。セオットは、林の間に鹿が立っているのを見つけて立ち止まった。
「イータ、鹿だ」
鹿はこちらに気がつくと、林の奥へ走り去って行った。
その少し奥に、開けた場所が見えたため、セオットは自転車を押して分け入ってみた。朽ちた看板があり、使われなくなったキャンプ場らしかった。
セオットは、雨水の流れた形跡がないこと、道路から見えにくいことを確認してから、草むらの上に小さなテントを広げた。イータに虫除けとデオドラントスプレーを渡した。
「外でやれ、中で撒いたら死ぬ」
「死ぬの?」
「俺の鼻が死ぬ」
イータは外で派手にスプレーを吹きかけていたが、風に流され、テントの中にも人工的な匂いが充満した。
二人で入ると狭く、バックパックが足元を圧迫した。うずくまってビーフジャーキーと缶詰を取り出して、食べた。缶詰の匂いに虫や動物が寄るかもしれないので、セオットはゴミをしっかり袋に密封した。薄手の寝袋の中に入って寝返りを打つと、相手の背中や荷物とぶつかった。
「セオットでかい……狭い……。寝れない……」
「スプレー臭いな……お前つけすぎだわ」
ヨクサ・ゴズモンの番組の日だったので、テントの中で寝そべりながら、小さな音でラジオを聞いた。スマホもカレンダーもない生活の中で、その番組だけが曜日を思い出させた。サバイバル生活の中で流れてくるAIのアップデートは、まるで別世界の話を聞いているようだった。
「イニファイから研究者を引き抜くなんてすごいね」
「サイ・ネラスはなんて言うんだろうな」
「こないだはイニファイが買収してたし、札束で殴り合いだね」
「殴られてみてぇわ」
話しているうちに、イータは、子どもの頃にセオットが小屋の中に作った隠れ家のことを思い出した。そこで、よく内緒話をした。
板切れと古い毛布でつくっただけの場所だったのに、あの頃のイータには特別な場所に思えていた。
テントの中の息遣いの近さがそれに似ていて、少し胸が詰まった。
テントの中は虫除けをつけても蚊の羽音が響き、叩き潰すと手に血がついた。蚊に刺され、熱気もこもり、寝苦しかった。眠れないと思ったのに、ラジオを消すと、旅の疲れから二人はすぐに眠りに落ちていた。
翌朝は、疲れが抜け切らない状態で走り出した。湿地の匂いが薄れ、丘陵の緑に、突然灰白色の岩肌が混じるようになった。
午前のうちに、湿り気の強い風が吹いてきた。セオットは眉を寄せてレインコートを二着取り出す。すぐにスコールに見舞われ、雷鳴も響いた。周りには、建物も何も無い。雷を避けるため、林から離れ、坂を下って自転車を止めた。自転車から少し離れたところへイータを引っ張り、身を低くしたが、そこは浅い溝のようになっていて、水が溜まり始めていた。セオットには、そこも安全では無いと分かっていたが、他に手立てが見つからなかった。すぐに靴が流れに沈み、立ち上がった時、大型トラックが速度を落とし、路肩に止まった。窓が下がり、運転手が叫ぶ声が、雨音の間で辛うじて聞こえた。
「乗れ!このままだと流されるぞ!!」
セオットは、見知らぬトラックに乗ることと、どちらのリスクがマシか、すぐには判断ができなかった。乗れば、どこへ連れて行かれるか分からない。乗らなければ、今にも足を取られそうだった。
運転手が扉を開けて降りてきた。
「死にてぇのか!!いいから乗れ!」
そのまま運転手は、荷台を開け、自転車を二台強引に押し込む。
イータとセオットは、誘導されてレインコートのまま助手席に乗り込んだ。イータは目をつぶって背もたれにもたれ、息を切らしていた。
運転手はずぶ濡れになりながら、アクセルを踏んだ。
セオットは、運転手の顔をうかがいながら言った。
「……助かった、ありがとう」
「出掛けるときは天気予報くらい見ろ。午後から雷雨の予報が出てただろ」
運転手の目は、純粋に行きがかりの人間を気遣っているように見えた。
「スマホを置いてきたんだ」
運転手は小さくため息をついた。
「なら余計に空見ろ。黒い雲が出たら、こんな低い道は走るな。水はあっという間に来る」
セオットは、低地に降りた自分の判断を悔いた。運転手は思い出して続ける。
「俺はナタリ方面へ向かうところだったが、お前らはどこいくんだ?反対なら屋根のあるところまで送るが」
「こちらで構わない。少し用があって」
「なら良かった」
トラックは、浸水した道路を、勢いよく水を跳ねながら走って行った。ワイパーが忙しなく動き、窓の外はしばらく白く煙っていた。
30分ほど走るうちに、雨脚は弱まり、ワイパーの音も緩慢になった。道路脇の水たまりも浅くなっていく。
「この先、少し高くなる。そこまで行けば降りられる」
運転手は前を見たまま言った。
セオットは、そこでいいと言って、もう一度礼を言って握手を交わし、トラックを降りた。
トラックを降りるときに覗いたナビ画面では、ナタリはもうすぐ先だった。
雨が止んだ。レインコートを畳み、サドルの水滴を払い、再び自転車に跨った。




