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第二話 潮目

星々の間がうっすら白み始めた頃、セオットは一週間ぶりにランニングに出た。肺がひんやりとした空気で満たされ、気持ちがいい。どこかで鳥が鳴いている。同じフレーズを繰り返しては少しずつ変えていく音色が、春を感じさせた。


体が温まってきた頃、タスママートの街灯の下で待ち構えている人影があった。


「おはようセオット」


このところ、朝のランニングを始めたらしいマートの娘が少しの間一緒に走る。


「テアさんのこと、聞いたよ。大丈夫?無理しないでね」


「ああ、差し入れもありがとう。シチューの缶詰美味かった」


そう言っているうちに、娘はセオットの速度についていけず、どんどん置いていかれる。


「ラミアも無理すんなよ」


セオットはそのまま丘陵に差し掛かり、振り返らずにぐんぐん走って行く。


ラミアはやがてセオットを見失った。それでも、数日ぶりに走る姿を見られただけで、少し安心していた。


セオットは三十分ほど走り宿に戻ると、シャワーを浴びた。体を動かして汗をかくと、蘇る心地がした。


今日は客入りの少ない水曜日で、セオットは非番となっていた。客が少ない日は、家族で順番に休みをとっている。


セオットが食堂のまかないテーブルに行くと、母親のノルテがちょうど朝ごはんを食べていて、セオットの分も用意してくれた。まかないテーブルは家族の食卓も兼ねていて、各自都合の良いタイミングで食事をとる。


ノルテは再び席につき、尋ねた。


「イータは声をかけても生返事だけで出てこないんだけど、どうしてるの?」


「ここのとこ宿の更新だけやって、あとはほとんどラップトップいじってるよ」


「そう……しばらくは、そっとしておいてあげて」


「いや、こういうときこそ、人は体を動かさなきゃ」


「そんなこと言って、あの子運動嫌いじゃない」


「そんなこと関係ねぇ。あのままPCの前に座らせとく方がよくねぇだろ」


「あんた、ほんとにお父さんそっくりね」


セオットは、食べ終わると皿を持って立ち上がった。


「ちょっとキッチン借りる」


セオットは、パンとソーセージを取り出した。


イータはここ数日食事はとっているものの、時間がどんどん後ろにズレているようで、あまり家族の前に顔を出さなかった。セオットがテアの代わりに部屋に掃除に入ろうとしても、


「自分でやるから良い」


と言って追い出される。


セオットはキッチンで作業を終え、洗濯室のマーレの元に向かった。


「今日マーレの自転車借りていいか」


「いいけどなんで?」


「イータと出かけようかと思って」


マーレはタオルを干し終えて、振り返った。


「男二人で寂しいね」


「うるせぇわ」


セオットは少し声を荒げる。マーレはニヤつきながら返す。


「私明日デートだから、ランチいらないってママに言っといて」


「自分で言えよ。いや、言っときます」


自転車の鍵を受け取り、二階のイータの部屋に上がった。


扉を開けると、まだイータは寝ていた。


「おい起きろ。でかけるぞ」


「んん……。眠い。寝かせてよ」


「お前が来ないなら、お前のPCに付き合ってもらう」


セオットがリュックにイータのラップトップを突っ込んだ。


「なんでだよ。ざけんな……」


イータがずるりとベッドから這い出てくる。


「マーレに自転車借りた。ちょっと付き合え」


「僕の返せ……」


イータは文句を言いながら渋々顔を洗い、着替えて帽子を被ると、セオットを追いかけた。


セオットに渡された水のボトルを飲むと、ふらつきながらマーレの赤い自転車に乗り、走り出した。


セオットはイータのペースを確認しながら、ゆっくり進んでいく。


「どこいくんだよ」


「海行こうぜ海」


「うえっ。何キロあると思ってんだ」


「たった7キロだ。俺の朝のランニングコースとそう変わらない」


「なんで僕が行かなきゃいけないんだよ。デヴィンと行けよ」


「なんで弟と行かなきゃいけないんだよ」


イータはムスッとした。


「僕はお前の犬じゃないぞ」


坂に差し掛かり、イータは息が切れて自転車を降りた。セオットも降り、ゆっくり自転車を引いて登っていく。イータは必死に着いていったが、時々自転車を置いてしゃがみ込んでしまう。セオットはイータのダークシルバーの髪にキアゲハが止まっているのを、黙って見ていた。坂を登り切ると、あとは緩やかな下り坂で海まで降りて行く。植え込みの鮮やかなアザレアが流れて行った。


真っ青な海が広がり、海水浴客や散歩している人影がまばらに見えた。裸足で砂浜を踏み締め、浜辺に腰を下ろすと、セオットはリュックからランチボックスを取り出し、イータにホットドッグを渡す。


「俺の手作りホットドッグだ」


こんがり焼いたソーセージの周りに、瑞々しいレタスがはみ出んばかりに詰まっている。


イータは息が整わないまま、無言で受け取りかじる。ご飯を食べる間もなく連れ出された。腹が減っていた。しばらく二人で波打ち際を眺めながら、無言で食べた。


食べ終わるとセオットが


「よし。泳ぐぞ」


と立ち上がる。


「いやだよ。着替えないし」


「ある」


セオットがリュックから二人分の着替えを取り出した。


イータは顔をしかめ、


「お母さんかよ。帰りあの坂登らないといけないんだよ、死んじゃう」


と言ったので、セオットはまたラップトップを囮にしようとリュックからチラリと覗かせた。


「潮風に当てんな」


イータが突然飛びかかってきた。異様な瞬発力に、セオットはリュックを奪われた。イータの機嫌が悪くなったので、仕方なく上着を脱いで一人で海へ泳ぎに入る。イータは、波間からのぞく逞しい筋肉を少しうらやましく思った。


セオットが海から上がると、イータはぼーっと海の向こうを眺めていた。タオルを羽織ってイータの横に腰を下ろす。


しばらくすると、イータはぽつりと呟いた。


「仮登録の試験。あれ、受けに行こうかな」


今年から始まった暫定住民登録制度――通称、仮登録。

それは、無登録住民を最低限の監視下に置きつつ、移動、受診、就労を認めるための新制度だった。


セオットはイータの思い詰めた横顔を見た。


波打ち際にカモメが数羽、降り立つのを見届けて、セオットは口を開いた。


「AI運用技師の試験なら、お前は通るだろうが」


一瞬言葉を切った。


「お前の名前が管理名簿に載るのは、問題ないのか?」


イータはセオットを振り返った。


「移民なんて何万人もいる。名前なんてノイズだろ」


「じゃあなんでテアは、お前の熱烈オタク通信まで、あんなに必死に隠していたんだ?」



仮登録があれば、今よりもう少しまともに生活できるようになるだろう。しかし、セオットがテアに二人の受験を提案した際、テアは首を縦に振らなかった。テアは前からイータの情報を国の監視体制に触れさせることを異様に避けていた。最近はイータやセオットに、自分がやっていた匿名通信の構築方法を少しずつ教え込んでいたところだった。

以前何かの拍子に、一度だけテアが


「連れ戻される」


と呟いたことの意味が、ずっと分からないまま引っかかっていた。


イータは顔をくしゃくしゃにした。波打ち際まで歩いて行き、そこでしゃがんでヤドカリをつつき始める。


カモメがけたたましい鳴き声をあげて飛び去っていく。


セオットはイータの背後に歩み寄った。言葉の代わりに、つい背中を押した。イータは顔面から海水に着水し、むせ返る。


「なにすんだよバカやろう!!」


イータは砂を掴み、セオットの顔に投げつけた。


「痛ぇ!目ぇ入った!」


二人とも砂だらけになり、各自海へ浸かって顔や体の砂を落とした。


帰り道、自転車を押しながら長い坂を登っていく。セオットが興奮気味に口を開く。


「コンヴァージェンス、毎年進歩が早すぎるよな。イニファイのデモ、会話がまるでヨクサそっくりでびびった」


「あれな。一瞬どっちが本物のヨクサか分からなかった」


「もう口調やクセはかなり再現できてるよな」


イータは一段、声のトーンを上げた。


「うん。ヨクサの一番トゲがあるところはさすがにまだだったな。ああいうトゲ、削っても出てくる形にできるかな」


「そうそう、お前がこの前ローカルで作ったモデル、ヨクサver.作ってみてよ」


「いやいや、次元が違う……。僕のスペックで回せるまで削ぎ落としたら、どれだけ残るだろうか……。アーカイブ、全部文字起こししてくれる?」


「ああ〜……。分かった、あとでファイル送っとくわ」


気づけば、ローヴェル宿の屋根が坂の向こうに見えていた。



帰ると、二人はセオットの父親に事務室に呼び出された。父親は翳りのある表情で話し始めた。


「今年の制度改正で、宿泊客もID記録が義務づけられるようになるらしい。宿泊者登録ページをいじってくれないか」


レイタンみたいな地方は、記録の薄い人間まで含めて回っていた。

そこへ監視の網が伸びれば、宿も町も無事では済まない。


セオットは規制強化の通達画面を険しい顔で見つめていた。

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