第一話 暴走と破綻
ファンの低い回転音に乗って、忙しなくタイピング音が響いていた。薄暗い部屋の中で、モニター上を、暗号めいた文字列が流れていく。
机の上には、傷だらけのノートPCとサイズの違う二台のモニター、配線だらけの小型機が所狭しと並び、外付けストレージの小さなランプが不規則に明滅していた。宿の裏紙に書き散らしたメモが散乱している。
扉が開き、廊下の灯りが差した。セオットは肩で扉を押し開けながら、冷めた夕飯のシチューのトレイを持って部屋に入り、肘で照明のスイッチを押した。
「電気くらいつけろよ。キノコでも育ててんのか」
少年は、微かに呻き声をあげ、日差しを浴びせられたヴァンパイアのようにデスクの上に突っ伏して動かなくなった。
「おいイータ」
セオットは一瞬、息を詰めた。
イータはゆらりと体を起こし、細目で再びモニターを睨み、独り言をつぶやいた。
「タイミングが……見えない……」
「まず昼夜のタイミングを見ろ」
デスクの端には、昼過ぎに置いたままのまかないのトレイが残っていた。栄養ゼリーだけが半端に手をつけられている。
「何してんだ?」
セオットがトレイを入れ替えながら画面をのぞくと、見たことのないコードの列が走っていた。イータが小声で呟く。
「……テアのログを見つけた」
セオットは一瞬息を呑んだ。黙って画面を追う。見慣れぬコードに、明らかなミスも散見される。これでまともに組めているはずがない。
セオットはためらいながらも、思い切って電源タップを引き抜いた。
「あっ!?」
モニターが落ち、イータが振り向いた。今日初めて、人間に向ける目をした。
「……半日は持つ」
バッテリーに切り替わり、画面が復活した。さすが抜け目のない構成だ。イータはもうセオットを見ていなかった。
セオットのウォッチに、宿泊客からの内線電話がかかった。
「はい。……はい。ワイングラスふたつですね。すぐにお持ちいたします」
頭を掻き、開けられたままのカーテンだけ閉めると部屋を出た。
翌朝になっても、昼過ぎになっても、イータは食堂に降りてこなかった。
セオットは何度か栄養ゼリーと水のボトルを運び、ついでにカーテンと照明の面倒を見た。イータの目の下は黒ずみを増し、はあはあ言いながら、何やらぶつぶつ呟いていた。
「42時間……」
セオットは、栄養ゼリーのパックを開け、イータの口に突っ込んだ。いくらか啜った後、力無くパックを落とし、そのままキーボードの上に崩れた。意味不明なテキストが画面に打ち込まれる。
セオットはイータをベッドへ運んで布団をかけ、モニターの電源だけ落とすと、寝息を確認して部屋から出た。息をついた直後、物音がしたと思ったら、中から鍵をかける音がした。三秒前まで寝ていた人間の動きではなかった。
両手で顔を覆う。
「……くっっそばか」
深呼吸をひとつして、顔を取り繕って実家の宿の雑務に戻った。
部屋を施錠されたため、その晩セオットは夕飯を届けることはできなかった。扉に耳を当てると、タイピング音が不規則に鳴り続け、低く息を漏らすような笑いが混じっていた。
「おい。イータ開けろ」
他の部屋の客に聞こえないよう、控えめにドアを叩いたが、返ってくるのはタイピング音のみだった。夕飯は部屋の前に置き、セオットは一旦下がった。
階下の事務室でPCを開くと、わざと宿の管理システムにエラーコードを仕込む。イータの端末にも通知が出るはずだ。しばらくすると、足音が階段を降りてきた。セオットは振り返った。
扉を開けたのは、父親のバルディンだった。
「システムエラーが出てるんだが」
「……知ってます」
事情を話すと、バルディンは複雑な表情で天井を見上げてしばらく考えていたが、
「食事はとらせろよ」
とセオットに任せて仕事に戻りかけ、ふと振り返った。
「あと、倉庫の水栓がまた漏れてる。見てやってくれ」
「……了解」
結局イータは出てこなかった。
翌朝、セオットが部屋を訪れると、トイレに出たのか鍵が開いていた。昨晩のトレイは、水のボトルと栄養ゼリーのパックが半端に潰れたまま残されていた。
音を立てないように部屋に滑り込む。緩慢になったタイピング音と、荒い呼吸が聞こえた。三日間閉め切った部屋の空気が、むっと鼻をつく。
次の瞬間、セオットの背筋が凍った。
イータが、枯れた声でモニターに話しかけていた。途切れ途切れの声は、会話をしているようだった。
「うん、テア……。ああそうか……うん。ここが……。ここの……だね……。分かった」
「おいイータ!」
駆け寄って肩を掴み、顔を覗き込む。その瞬間、イータが何かのコードを叩いた。
高速でテキストが流れ出す。
「おいおいおい……」
一瞬赤い認証警告が混じった。セオットは青ざめ、イータからマウスとキーボードを奪い、即座に通信を遮断した。
「今、一瞬だけ遮蔽が落ちた。生の経路が見えたぞ」
イータは焦点の合わない虚ろな目でセオットの方を見た。
「テア、ごめんなさい」
そう言って、白目を剥いて崩れ落ちた。セオットは咄嗟に手を伸ばし、辛うじて胸ぐらを掴んで引き止めた。
*
セオットは妹のマーレにイータの体調が悪いことを告げ、残っていた朝の業務を引き継いでもらった。
イータを背負って、近くの移民や旅行客を相手にしている簡易診療所へ向かう。
「脱水と過労」
分かりきった診断とともに、眉間に深いシワを寄せたいつもの女医から点滴の処方を受けた。
セオットは傍の椅子に腰を落としてスマホを開き、ヨクサ・ゴズモンの昨晩の配信アーカイブを流した。イヤホンから聞こえるヨクサの声は、開催中のテンセプタール・コンヴァージェンスの熱狂を伝えた。
『人格再構成は再現じゃない、模倣だって?その議論自体がもう古いんだよ』
セオットはヨクサのいつもより興奮した声を聞きながら、青白いイータの寝顔を横目に見た。
点滴と会計が済むと、客の動線を避けて、裏口からイータを部屋へ連れ帰った。窓を開けて部屋の空気を入れ替えると、仕事を預けた妹の元へ向かう。
*
その日は、春先の金曜日だった。南部海岸からほど近いレイタンはすでに汗ばむ陽気で、開放的な街並みや早い海水浴シーズンを楽しむ客で賑わっていた。セオットの実家であるローヴェル宿も、ほぼ満室だ。廊下を子供の足音と笑い声が駆け抜けていく。
夕方、食堂でマーレが配膳していると、裏方に人影が動いた。皿を出し終え、のぞき込む。まかない用のテーブルに突っ伏しているイータがいた。
「起きたの?体調どう?」
コップに水をくんでやると、イータは顔も上げずに言った。
「あだま、いだい……薬ちょうだい」
「言えてるうちは大丈夫か」
マーレは引き出しから頭痛薬を取り出してコップの横に置き、セオットを呼びにいった。
客室案内から戻ってきたセオットは、急ぎ足で食堂へ入る。
「イータ、まずシャワーを浴びて来い」
ゼリーの蓋を開けて渡しながら、セオットは渋い顔をした。食堂に似つかわしくない、蒸れた汗の臭いが漂っていた。
セオットが次の客を出迎えている間に、イータはシャワーだけ浴びてまた部屋に戻ったらしい。その晩は水とゼリーを少しとったきり、眠り続けた。
イータとまともに話せたのは、翌日の昼前だった。
まだ頭が痛むらしく、まかないテーブルに着き、額に手を当てながら話し始めた。
「ごめん、僕、頭おかしかったね」
「頭がおかしいのはいつものことだ。だがもう徹夜は禁止だ」
セオットも、二人のランチをテーブルに置き、向かいに座った。
「僕は何した?」
「三日で人間をやめかけてた。なんかブツブツいいながら、めちゃくちゃなコードを叩いてたぞ」
「ああ、そうだった」
イータは口にしかけたサンドイッチを下ろした。
「テアのコードが開きっぱなしだったんだ」
「そういやログが見つかったって言ったな。どういうことだ?」
「多分、いつものルート構築をオートで通せるようにしたかったんだ」
セオットは、テアが最後までPCに向かっていたことを思い出した。
イータは、決まり悪そうにセオットの目を見ながらこぼした。
「ごめん」
セオットはハムサンドを口に押し込みながら言った。
「ああ、お前ヨクサも聞き逃しただろ。今年のコンヴァージェンス、すげぇ盛り上がってるぞ。お前が前に言ってた――」
「うわっしまった。セオット、スマホ貸して」
イータは慌てて残りのサンドイッチを口に突っ込んで、空いた皿をセオットの皿に重ねると、部屋へ引き上げて行った。
ベッドに潜り、セオットのアカウントでアーカイブを聞く。ヨクサは、各社が発表している人格モデルについて、面白おかしく熱弁していた。
「仮登録さえとれれば……」
テンセプタールへ行けるのだろうか。
イータは胸が苦しくなって、布団を深く被った。




