第十九話 通過点
イータがケガで寝込んでいるセオットの看病をしていた頃、ベルサの古い煉瓦の建物に面した道を、黒塗りの車列が通過した。河岸の一角には州旗とウルスの国旗が飾られ、規制線の向こうには、地元の見物人や観光客が足を止めていた。
シャルドが州知事や市長、文化財団の理事や芸術大学の学長との挨拶を済ませると、河岸の旧会館で歓迎のレセプションが開かれた。
シャンデリアの煌めく天井の高いホールに円卓が並び、白いクロスに、ベルサの海鮮料理やアイゼン州の名産を使った皿が並ぶ。シャルドが席に着くと、周囲の会話が少し整う。ジェレンは近くの席に着き、出席者の思惑を観察していた。シャンパンで乾杯が交わされると、弦楽四重奏団の調べが流れ始めたが、シャルドの耳は旋律を追わなかった。
途中、州の文化局長が明日の日程を伝えた。
「明日は午前に歴史地区の保存施設を、午後は芸術大学の大講堂と所蔵美術品をご覧いただき、夜は歌劇をご鑑賞いただく予定でございます」
「承知した」
レイタンの地ワインを出された時、シャルドの手が一瞬止まった。グラスに鼻を寄せる。柑橘と蜂蜜の香りが立ち、口に含むと穏やかな酸が後から追ってきた。
レセプションが終わると、川沿いの高級ホテルの最上階スイートルームに通され、シャルドは上着を脱いでジェレンへ渡す。
「明日の日程は、私が代われます。車を1台手配いたしました」
「分かった」
シャルドは、カーテンの隙間から夜のベルサの街の輝きを見つめていた。
調査会社の報告では、ヴィオールとセオットがベルサに立ち入った証拠が上がらず、ベルサから先の道路沿いの集落や町へ、調査員を増やして網を広げていると述べられていた。
翌朝、ジェレンは前髪を下ろし、濃い礼服に身を包み、顎を引き、視線の角度をシャルドに寄せる。わずかに背が高く、硬質な雰囲気を除けば、シャルドそのもののように見えた。
シャルドは染粉で髪色をくすませ、ゆったりとしたパーカーとジーパンに身を包み、帽子に色のついたメガネをかけた。姿勢を崩し、大学生のような雰囲気を纏って、ありふれた小型車に乗って出かけた。
車がレイタンへ近づくにつれて、景色はだんだん低く、広くなっていった。風に撫でられる草地と、湿り気のある平たい大地が続いていた。
レイタンの看板を越えると、低い商店、古びたガソリンスタンド、駐車場の広い雑貨店、常緑樹の間にまばらに家が立っていた。海辺の町というより、海の気配を漂わせたまま、ゆるく広がった田舎町だった。シャルドには、その開けた明るさがかえって痛かった。ヴィオールはこんな空の下で、十一年を過ごしていたのだ。
ローヴェル宿から少し離れたところに車を止めさせる。
旅行客を装い、ゆっくり宿の前の道を歩いた。ひび割れた白い壁のこじんまりとした宿は、カーテンや窓の灯りから、宿泊客の多いことがうかがえた。ヴィオールはこんな古びて狭い部屋で暮らしていたのだろうか。そんな考えが過ぎった瞬間、玄関先の花壇を整えていた女の視線を感じた。目を合わせることもせず、何食わぬ顔で通過し、陰に入ったところで先へ回しておいた車に乗り込む。女は、報告書にあった宿の主人の妻だった。
シャルドは、ベルサに戻ったあと、すぐにはホテルへ戻らず、いくらか通りを外れた一段暗い酒場に入った。
蝋燭のゆらめく古びた木製テーブルにつき、帽子と色眼鏡を外す。誰の視線も届かないはずの店の隅で、視線を落としてグラスを傾けていた。厚い底のグラスに、浅い琥珀色が揺れていた。
シャルドは薄く揺れる液面の向こうで、店の奥の音を聞いていた。ヴィオールはあの町にずっといたのに、テア・シファルが死亡するまで、痕跡すら掴むことができなかった。この手で処分する機会も、失われた。
いくらか時間が過ぎた後、店の隅でヴァイオリンの音色が流れ始めた。すらりと背の高い、暗い肌の女が椅子に腰掛け、気ままに店の空気を紡いでいた。
ベルサの民謡から始まり、各国の調べを次々に流していく。そのうちにウルスの民謡を奏で始め、シャルドの耳がそこで止まった。ウルスの独特の歌い回し、リズムの癖、音程の取り回し。そのどれも、流しの芸で片付けられる精度ではなかった。
演奏を終えると、楽器を椅子へ預け、客の間をすり抜けていく。横を通ったかと思うと、シャルドの横へ腰を落とした。
女はシャルドを横目に見て話す。
「あんた、面白いなりしてるね。探しものかい」
シャルドは、さっきの曲に心を揺さぶられたためか、自然と口を開いていた。
「………弟だ」
女はシャルドの瞳の色と、くすんだ髪色が蝋燭の光に照らされ鈍く光るのを見て、わずかに口角を上げる。
「探しものをするなら、街の顔だけ洗っても無駄だよ」
スッと立ち上がり、去り際に付け加えた。
「最後の曲がお気に召したようね」
シャルドは、眉一つ動かしていなかったはずだった。誰にも見られていないはずだった。
女の背を目で追う。
女は店主や客と軽く話したあと、奥へ引っ込んでいった。
シャルドが店主に女の名前を聞くと、店主は含みのある顔で答えた。
「アノンだ」




