政争
国家保安卿男爵ヘルムート・フォン・ヴァイスの邸宅には一名の来客があった。外務卿伯爵フランツ・ツー・ハルダーである。
この年五七歳、真っ白で長い髪を後ろで一本に縛って垂らし、左目の片眼鏡にすらりとした長身を包む濃灰色の背広を着込んだ紳士である。ヴェストマルク伯爵家はこれまで外務卿を三名輩出しており、フランツもまた先祖に倣ったのだった。
「貴公が私を呼んだ理由は分かる」
夜の帳が降りた庭園を背に席に腰を下ろしたハルダーの開口一番の台詞がそれであった。
「目下の情勢で誰に付くかを決めかねているのだろ」
「仰る通りです、伯爵閣下」
ヴァイスは素直に認めた。
「帝都も騒々しくなってきたものだ。陛下が今少し強い意志で左翼を排されていればこれほど騒がしくはならなかった」
「皇太子殿下と大公殿下の継承者争いは加速の一途をたどっております。当人以上にその周囲が」
話す二人の間にアペタイザーが置かれた。
「それで、貴公はどう思う」
話しながらハルダーは銀食器に載せられた卵を取り寄せ、スプーンを手に取る。
「正当にルートヴィヒ殿下に帝位が継承されても、それで丸くは収まりますまい」
「叛乱の可能性もあると貴公は申すか」
ヴァイスの常に微笑を湛えたような顔つきはこの時も崩されることがなく、その内心を読み取ることはハルダーにもできない。
「外国との戦争中に継承問題が発生したことは過去の帝国に例がありません。何が起きるかは私にもわかりかねます」
「ならそのような騒擾を起こさぬよう立ち回るのが卿の役割だろう」
「しかし時として人間一人の流言一つが、百万の兵に勝ることもございます」
殻の中の残りをスプーンで静かにかき集めながら、外務卿はその青い瞳でヴァイスを見据えた。
「私は正統な皇位継承と帝室の安寧をこそ望む。貴公も帝室の藩屏たる自覚があるのなら、嵐を呼び起こすような行動は慎むべきではないか」
「風を呼んでいるのでなく、読んでいるのみです」
「ふん……」
ヴァイスの言い草に感銘を受けた様子も無く、ハルダーはスプーンを置いた。
「国家保安省を半ば支配する貴公も、帝国政界全体でみれば孤軍に過ぎん。あまり軽挙妄動せぬことが吉とは思うが」
ヴァイスの表情から思考を読むことは、最後までできなかった。
「ヴィッツレーヴェン侯爵令嬢」
その肩書で呼ばれることに慣れていないようにシャルロッテは肩を揺さぶった。
マグデブルク邸の数百ある部屋の一室。低いマホガニー材の机の反対側では、ヨーゼフ・ツー・マグデブルクが足を組んでいる。
「卿が皇宮と大公殿下との間を蠢動していることは知っている」
「ひとえに大公殿下の手腕を頼ってこそです」
度があっていないかのように眼鏡をつまんで動かしていたヨーゼフは、その手を放して机上のカップを手にした。
「ヴィッツレーヴェン侯は中立派だと聞いていたが」
「ですが大公殿下はお勝ちになるでしょう」
言葉を探す間、ヨーゼフは茶を啜っていた。どうやら父の遺伝の影響が大きいようで、黒に近いグレーの瞳に切り揃えた黒く短い髪と下二人の弟妹とは似ても似つかぬ外見である。
「国家改造は門閥貴族以外のあらゆる階層から支持される。無能な貴族と暴利を貪る政商が事大主義に流れた結果が今の帝国だ。連邦もルージアも容易に打倒しうる実力を、この国は無為に浪費している」
その主張はこれまで大公派と接触を持っていたシャルロッテが、耳に胼胝ができるほど聞かされていたものだった。
「父上が愚妹を嫁がせるのも、我々が帝国随一の血族である仮初の栄誉に泥を塗ってまでもこの帝国を改革すべきと決意したためだ。もはや誰がその流れに抗おうと、結果は変わらない」
「ご立派であらせられます」
口元をゆるめてシャルロッテは阿った。
「その上で私はあなた様が次代の帝国を担う御身と思い、一つお願いに上がったのですが」
帝国逓信省運輸局次長の座にあるヨーゼフ・ツー・マグデブルクが、来るべきジギスムント政権下で国家の意思決定に小さくない影響力を持つことは疑いなかった。それを知ってシャルロッテはここを訪れている。
「エリザヴェート殿下について、廃位させた後にエリウス王国に国外追放する手立てをお願いしたく存じます。また新体制下で私にも居場所をいただきたい」
「追放」
黒髪の侍従武官の言葉を反芻するようにヨーゼフは言った。
「身の安全を保障し、亡命させろと言うことか」
「大公殿下が権力を掌握された後、エリウスにて生き永らえた皇女殿下については何らの政治的脅威にもならないでしょう。右派が皇太子殿下を支持するのもそれが単に既存の秩序体系を堅持するからこそで、手腕に期待してのことではありません。皇女殿下を恃みに結集するような政治的勢力は存在せず、よって脅威ともならないでしょう」
「その見識は正しいだろうが、そこまでして皇女の身の安寧を図る利益が卿にあるのか」
「罪を犯していない殿下を裁くべき法がありません。法的には正当な後継者であるエリザヴェート殿下の血を流せばその分だけ大公殿下の名声に傷がつきます。命は保証し、しかる後に国外追放とするべきかと」
「皇太子に自ら廃位宣言書に署名してもらえれば、一滴の血も流れず誰も傷つかない。だがそうならなければ、どれだけ慎重を期しても犠牲は免れない。侍従武官であるお前は、そこにこそ意識を向けるべきではないのか」
シャルロッテは唇を噛んだ。皇太子を相手にそれが難しいことを彼女はよく知っている。ルートヴィヒ皇太子はジギスムント大公への禅譲を拒むだろうし、そうなれば武力蜂起は避けられない。
「では皇女殿下の御身柄を確保すれば、その身と私の安全は保障いただけますか」
ヨーゼフはすぐに答えず髪をかき上げた。
「大公殿下か御父上にその旨を一筆いただきたいのですが」
「それに卿は何を差し出す?」
書き上げた髪を右手に握ったまま、ヨーゼフは問うた。
「ヴィッツレーヴェン家の忠誠など今更価値はない。侍従武官一人の歓心を求める大公殿下でもない」
回答に窮し、シャルロッテは押し黙った。彼女は侯爵令嬢で一介の少佐でしかない。その価値は銀河帝国にあっても最高位に近い大貴族たちにとっては取引の天秤に乗せるべき何らの重さのある代物ではなかった。
「差し出せるものがないのに保障だけを一方的に求めるのは卿の身勝手だ——」
「エルヴィン・フォン・クロネッカーの首を」
早口に切り出された言葉に、ヨーゼフは先を促すように首肯した。
「彼はこの度第一海軍高射師団長として帝都の守りに就くことになります。武力蜂起となれば必ず彼はその鎮圧を図り、指揮下の部隊全てを投じて皇宮を守ります」
「左遷されると聞いていたが、随分あの小娘はあいつに入れ込んでいるようだな」
異母弟と皇女を相手に吐き捨てるようにヨーゼフは言った。シャルロッテは表面上ヨーゼフの無礼を無視した。
「彼はエリザヴェート殿下に重用され、殿下を通じれば彼への接近も容易です」
数秒の思慮が次の言葉との間に挟まった。
「契約を考えてやってもいい。卿がエルヴィン・フォン・クロネッカーの首を取り、彼の麾下部隊を無力化することで権力掌握が確実なものとなれば、卿の新体制での然るべき地位と、皇女の身の安全を保障させるという」
「お約束いただけますか」
「あの娘の生き死になどどうでもいい。生きても死んでも変わらないと言うなら、無為に命を奪う必要もない。俺はそう思うが」
迂遠な言い回しで確約を避けるヨーゼフに、内心で歯噛みしながらもシャルロッテはこれ以上強く出ることもできない。
彼女が守ろうとする人の命と、自分の地位と引き換えに、一人の命を奪う。そこまでで彼女は満足する他なかった。




