逢瀬
“ブラウメンの師団になるかもしれない“
一通のメッセージを飛ばし、エルヴィンはモバイルコムをソファに投げ捨てた。
開いた窓から摩天楼のネオンと共に冷えた空気が流れ込み、カーテンを揺らしている。バルコニーの床に積みあがっていく雪の冷たい匂いが、大して広くもない部屋を満たしていた。
街全体のこもった残響が室内を滞留し、時間の流れが極低速まで落ちたかのような錯覚がもたらす感覚は、回遊魚さながらに動き続けるエルヴィンの、僅かばかりの停滞の瞬間だった。
ベッドから見上げる灯りのない室内の白い天井は青みがかかって映り、風に揺れるカーテンに反射して波立つように光が動いている。
最後に海に行ったのはいつのことだっただろうか。あれはまだ八歳の時だった。ヴィルマが隣にいて、泳ぎなんて知らない妹の手を握って日焼けするまで遊び回った。そして振り返れば母の春の木漏れ日のような微笑みが……
あぁ、と嘆息が思わず漏れ出した。
あと三年しかない。そのために中将まで駆け上がったはずだった。だが今、彼の手には艦隊も、前線へ戻る保証もない。
「おめでとう」
ソファから聞き慣れた声と通知音が鼓膜を叩く。エルヴィンはおもむろにベッドから起き上がると投げ捨てたモバイルコムを拾った。浮かび上がった立体映像の中には、彼の副官からのメッセージが映し出されている。
アウグスタの言葉が心からの賞賛とは思えない。皮肉かもしれなかった。
「お前はどうするんだ」
マイクに語り掛け、送信する。
返信を待って画面を眺めていたら、突然着信音が部屋中に鳴り響いた。
「こんな夜中に」
「話しかけてきたのはそっちでしょ」
エルヴィンの振りをアウグスタは無視した。
「それで、お前はどうしたいんだ」
「どうしてほしいの」
鸚鵡返しのような返事に、エルヴィンは唇を噛みながら窓辺に立った。深夜であっても不夜城の摩天楼の彩りが休眠することはなく、雪と霧のヴェールの向こうでネオンやエンジンのバーナー炎が蠢いている。
「人事に俺は従うしかないが、お前がどうするかは自由だ」
「私にはまだあの師団の副官でい続けろってこと」
帰ってきた声は外の雪よりも無機質で冷たかった。
「違う。好きに選べばいいって言っているんだ」
「そういう自尊心、好きじゃない」
にべもない返事に、エルヴィンはガラス窓の縁に額を当てた。絶対零度に近い温度が伝わってくる。
「一緒に来てくれないと困る」
遠くのサイレンの音が木霊した。
「最初からそう言えばいい」
心なしか柔らかくなった声で、アウグスタは返事してきたが、次の言葉では引き締まっていた。
「一度出た人事の変更って、何かの思惑が働いたの」
彼女らしい感情の乗らない実務的な言い種は、時々エルヴィンを安心させる。
「分からない。殿下は俺に近くにいて会いに来てほしいと言っていた」
「そう。それで余計な反発が出ないといいけど」
アウグスタはよくそれを気にする。いつも通りどうでもいいと突っぱねたいところだが、直前に足をすくわれただけに、強気に言い返すこともできそうになかった。
「今から来れる?」
それは国家保安省の通信回線への盗聴を睨んだ言葉だった。全ての民間回線は国家保安省の監視下に置かれ、反体制的な文言が通信中に確認されれば検挙の対象となる。
「いいよ」
その一言で通話は切れた。
小さな部屋に合わせて置いたベッドは元々二人で寝ることを想定していない。だが買い替えるのも勿体ないからエルヴィンはそのまま使っていた。
「結局何が話したかったの」
エルヴィンの二の腕に赤い頭を乗せて、アウグスタは問うた。
「シャルロッテを覚えてるだろ」
鼻で笑うような声と共に女大尉は枕に肘をついて身を起こした。
「情でも戻った?」
「捨てたのは向こうだ」
「ふーん」
アウグスタの豊かな赤髪がエルヴィンの視界を覆った。
「それで、元カノの名前を私の前で出して嫉妬でもさせたいの」
「違う、あいつと話した内容」
苛立ちのこもった声を前にからかうのをやめて、アウグスタはエルヴィンの胸に頭を乗せた。
「あいつは大公が武力蜂起すると言っていた」
「武力蜂起」
滑らかな胸板を摩りながら、アウグスタはその一言を繰り返した。
「大公が権力を欲するならその手段は合法的なやり口だと思っていた」
床の中での語らいには到底思えないほどに硬い話題を硬い口調でエルヴィンは語る。その滑稽さを今更アウグスタは指摘する気にもならなかった。
「武力で叛乱って、阻止ができるの?勝算があるからその手に打って出るのなら、大公派の武力は相当なものがあると思うけど」
「あいつは自信があった。百パーセントの確信があるはず」
「でもあんたにとっては、大公が派手に叛乱を起こしてくれた方が都合が良いんじゃないの」
核心を突く台詞を淡白にアウグスタは言い放った。
「確かに……」
窓から差し込む夜の光が反射する天井を見上げながら、エルヴィンは独語した。
「あぁ、奴に叛乱を起こさせ、それを打倒すればいいんだ」
これまで冷淡なほどに平坦だったエルヴィンの言葉に、初めて熱が入った。
「そうだ、そうすればあいつを……」
言い終わるより前にエルヴィンの口が塞がれた。触れた素肌から伝わる熱と、合わさった胸の鼓動と、甘い唇が全てを満たす。
「ねえ、私のことも見てよ」
アウグスタはおもむろに唇を離して言った。
「感謝してくれてもいいんだよ、私に」
群青色の瞳と真紅の瞳、ふたりの視線が交錯する。二秒してエルヴィンは目をそらした。
「こんなことするの、お前だけだ」
その言葉に満足とも不満足とも反応らしい反応を見せず、アウグスタは両手をついて身体を持ち上げた。垂れ下がった乳房がエルヴィンの胸を去り、みずみずしい肢体を組み替えて、アウグスタはエルヴィンの上に跨った。
「そう、よかった」




