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 「エル、こんな遅くにごめんなさいね」

 ルイーゼ宮殿に隣接し、皇太子一家が住まうシェーンバウム離宮。その一角“水の間”は普段帝室によって舞踏会や宴席が催される大広間であり、室内でありながら噴水が置かれていることが特徴的であった。その水音が話し声を遮ってくれることが、エリザヴェートがエルヴィンとシャルロッテの二人をここに招いた理由だろう。

 エリザヴェートが足早に歩み寄って来る。エルヴィンの目に映るそのあまりに透明な純情は、帝室を嫌う彼にとっても彼女を嫌うのを躊躇させるものだった。

 「ロッテから聞いたの。あなたが更迭されたって。前線で活躍していたというのにどうして」

 「嫌われたのでしょう」

 不貞腐れた口調でエルヴィンは返した。年下相手に大人げない、と自分を律する気にはなれなかった。

 「不当な人事ね。すぐに撤回させるべき」

 エルヴィンの口が無音のままに開いた。それをさせれば、皇女の権威を盾に人事を覆した若手将校として、今度こそ軍部を敵に回す。

 「ですが——」

 エルヴィンの予想通りシャルロッテが反論しかけたのを、皇女は一瞥で封じた。

 「エル、あなたはイェーガーシュタットの砂漠で朽ちさせるべきものではない。私からお父様と爺様に申し上げるわ」

 「お待ちください、エリザヴェート様」

 シャルロッテが諦めずにたしなめる。

 「それではエリザヴェート様ご自身と軍部の対立を招きかねません。海軍省が受け入れるかは——」

 「軍は主君に従うものではなくて?勅命に反発するならそれは反逆でしょ」

 エルヴィンとて、エリザヴェートが唱えるような原理原則で世界が回っていないことくらいは知っている。皇女の言葉は彼にとって救いとはならなかった。

 「私を前線に送って、殿下以外に喜ぶ人間がいないでしょう」

 たとえ今最前線に出たところで、補給を妨害されたり敵に情報を流されたりするかもしれない。何しろオルレアーンスでは直属の部下に裏切られたのだから。敵がどれだけ巨大なのかは分からないが、海軍卿が敵側なのだから相当に大きいのだろう。

 当然エルヴィンには参謀総長と海軍卿との間の政治的取引の実相など知りようもない。

 エルヴィンの自嘲じみた言い種に皇女は鷹揚に首を横に振った。

 「だとしてもイェーガーシュタットなんて遠すぎる。たとえ同じ任務でも、ブラウメンでのポストはないの?」

 辺境の星系イェーガーシュタットを守る第五海軍高射師団と帝都星ブラウメンを含むヴァ―レン星系全体の防空部隊を統括する第一海軍高射師団の重要性は比較にもならない。海軍帝都警固司令部直轄の帝都防空の要を冷遇できようはずもなかった。

 「それは……」

 だがエルヴィンは口ごもった。彼は艦隊の運用法しか知らない。対空砲や衛星砲台、基地飛行隊の運用を熟知しているはずもなかった。何より地表に縛られることが嫌で、イェーガーシュタットよりましとは言え宇宙で戦うことができない仕事を喜び勇んで請ける言葉が喉の奥につかえているのだ。

 「エルにブラウメン(ここ)にいてほしいの」

 言葉に詰まる金髪の青年に、皇女は歩み寄って見上げた。

 「イェーガーシュタットでもブラウメンでも、彼に地上部隊の専門経験はありません」

 回答を見つけられないエルヴィンに代わるようにシャルロッテが口を開く。

 「イェーガーシュタットなんかに行っちゃったら、もう何年もエルと会うことなんかできない。私それは嫌なの」

 潤った青い瞳が青年を見上げる。彼女を失えば最も望まぬ人間が玉座に近づくことになると、エルヴィンは理解している。

 「……状況が良くなるのなら」

 「よかった!せっかく近くなるのなら沢山会いに来てほしいわ」

 エリザヴェートはダンサーのようなジャンプと共に花のような笑顔を振りまいた。軋む奥歯から押し出したような声をエリザヴェートは意に介していないようだった。その姿が慰めになるのか、自分でも分からずエルヴィンは表情を崩すことができなかった。


 「ヴィルヘルミナ・ツー・マグデブルクのために、軍部全体と戦うつもりですか」

 ケーニヒスシュタットの石畳を走る車の中。沈黙を破ってシャルロッテが口を開いた。

 「何の話だ」

 シャルロッテは一度エルヴィンに向けた視線を、再び窓の外を流れる景色に戻した。

 「殿下の近くにあれば、あなたの率いる武力は大公派に対しての剣とも盾ともなります」

 「何が言いたいんだ」

 「分からなくて言っているの、それとも口実を得たいの」

 窓枠に頬杖をついたまま、ヴァイオレットの瞳が刺すような視線を青年に向けた。

 「あなたが一人でどれだけ抵抗しても、今更ジギスムント大公の即位は避けられない。もしそれを高射師団一個如きで威嚇しようとするのなら、あなたが命を落とすことになる」

 その言葉を思慕の余情と勘定するほどエルヴィンは夢想主義者ではない。

 「大公が軍事力を背景に帝位を簒奪しようとしていると、そう言いたいんだな」

 シャルロッテの言葉は、妹からの警告と重なった。エリザヴェートにも危害が及ぶ。それを承知で言っているのか。

 「あなた一人が抗しようとすれば帝国軍全体が敵になります」

 それほどまでに大公派の勢力が軍全体を掌握しているのか。エルヴィンの栄達を望まない勢力と言うのは、大公派に属する勢力だというのか。

 だが相手がどれだけ巨大でも、大公が玉座に座ればエルヴィンがこれまで為してきた全てが無意味となる。門閥貴族の次男として何一つ不自由しない人生を擲ち、苦痛を甘受して今日まで戦ってきたのは、ひとえに妹を救うためだ。

 「俺は法に則った正統を守る」

 「無法の帝位簒奪を止めて何が悪い。大逆罪だぞ」

 「あなたが大事にしたいのはエリザヴェート様でなくて妹でしょ」

 にべもない言い返しはエルヴィンの急所を突くような鋭利なものだったが、声を荒げたい衝動を彼は理性の総力を挙げて抑え込んだ。

 「皮算用の政略結婚だ。本人の意思など全く介在しない婚姻に何の正当性がある」

 「この国では珍しいことではないと思うけれど」

 「同じ立場になっても言えるのか」

 鼻で笑った侍従武官の細い肩が揺れる。

 「私には兄も姉もいますし、家門の栄達の助けを期待されているわけではないので」

 その一言を前に車内の気圧が急低下した。空気自体が凝固した滞留物のようになった空間の中で、エルヴィンの奥歯が軋んだ。

 「未来の皇后になる。それを避ける理由があるとは思えませんけど」

 「自由に選択できるお前と、その自由のない人間の違いだ」

 シャルロッテの表情が硬くなった。

 「少なくとも身の安寧は保証されますけど。結婚を阻止して、その後の彼女の一生にあなたが責任を負えるのかしら」

 シャルロッテの目はエルヴィンの眉尻が持ち上がったのを見逃さなかった。

 「救って、その後どうするのかも考えた方がいいと思いますけど」

 「——妹もそれを望んでいる」

 見通すような目つきをやめてシャルロッテは背もたれにもたれかかった。

 「今は戦時。戦時には強力な指導者が求められる。皇太子殿下にもエリザヴェート様にも、荷が重いと思いませんか」

 「失敗すれば大逆罪だ。それでも彼らを応援するのか」

 三秒かかって返答が返ってきた。

 「それはあなたにとって何か痛痒を覚えることなの」

 一度形成された溝が埋まることはない。その溝の広さ、あるいは深さをエルヴィンは見せつけられた気がした。

 あの時手を取っていればこの溝は生まれなかったのか。言葉が喉に張り付いてエルヴィンは微かに開けた口を閉じ直した。自分のせいでできたそれを自分が望まずしてさらに広げ続けているかもしれないという自覚が、嫌が応にも彼の意識を支配している。


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