第四章:剥き出しの告白
そんな臆病な僕の防壁を壊したのは、数週間後の、ある雨の夜のことだった。
いつもの海岸のワールドにログインすると、コハクはすでにそこにいた。
けれど、いつもならすぐに駆け寄ってくるはずの彼女が、その日は流木に座ったまま、じっと動かずにいた。
「コハク? どうしたの?」
声をかけると、コハクのアバターがゆっくりとこちらを振り向いた。
そのアバターの目は、いつもと同じ綺麗なポリゴンの輝きを放っていたけれど、スピーカーから聞こえてきた彼女の声は、今にも消え入りそうなほど震えていた。
「ハルト……私ね、今日、現実で、すごく悲しいことがあったの」
彼女はそれ以上、具体的なことは言わなかった。仕事のことなのか、人間関係のことなのか、あるいはもっと個人的なことなのか。
ただ、彼女の呼吸の乱れや、言葉の端々に滲む痛みが、マイクを通じて生々しく伝わってきた。
「ごめんね、せっかくの楽しい場所に、こんな暗い気持ち持ってきちゃって。私、ログアウトした方がいいよね……」
彼女がメニュー画面を開こうとする仕草を見せた。
「待って!」
僕は思わず叫んでいた。コントローラーを握る手が、汗で滑りそうになる。
「行かないで、コハク。ここにいて」
「でも……」
「暗い気持ちだって、なんだっていいんだ。僕は、綺麗なコハクだけを見たいわけじゃない。君が苦しんでいるなら、その苦しみごと、ここにいてほしい」
僕は一歩、彼女の歩み寄った。アバターの距離が近づく。
「僕の現実は、いつも冷たくて灰色だ。でもね、毎晩ここで君の笑顔を見るだけで、君の声を聞くだけで、信じられないくらい救われているんだ。君が僕を救ってくれたみたいに、僕も君の隣にいたい。何もできないかもしれないけれど……」
コハクの手が、宙で止まった。
「ハルト……」
「隠しているつもりだった。伝えたら、全部壊れちゃうと思ってたから。でも、もう嘘はつけない。僕は、君が愛おしい。画面の向こうにいる、君の本当の心が、恋しくてたまらないんだ」
静寂が訪れた。
聞こえるのは、ワールドの波の音と、僕自身の激しい鼓動の音だけだ。
仮想世界のシステムは、僕の心拍数までは同期していないはずなのに、ヘッドセットの中でドクドクと血の巡る音がうるさいほどに響いていた。
コハクは、ゆっくりと立ち上がった。
そして、僕の目の前まで歩いてきた。
アバター同士の距離が、限界まで縮まる。ポリゴンが重なり合い、一瞬、視界のグラフィックが乱れるほどの至近距離。
「ハルト、手を伸ばして」
コハクが静かに言った。
僕は言われるがままに、コントローラーを持つ両手を前へと突き出した。
コハクもまた、両手を伸ばす。
画面の中で、僕たちの手の平がぴったりと重なった。
やはり、肉体の温もりはない。プラスチックの冷たい感触があるだけだ。
けれど、その瞬間。
コハクの細い肩が、かすかに震えた。マイクの向こうで、彼女が小さく息を呑む音が聞こえた。
「ハルト……今ね、私、あなたの手がすごく温かい気がするの」
彼女の声は、もう震えていなかった。どこまでも澄んでいて、まっすぐに僕の脳細胞へと染み込んできた。
「現実の私は、傷ついて、ボロボロで、誰にも見せられない姿をしてる。でもね、今、私の魂は、間違いなくハルトの目の前にいるよ。このキツネのアバターの奥で、私は本気であなたを想ってる」




