44 きれいで優しい世界
姫ちゃん視点です
目が覚めると見知らぬ天井が見えた。
それはよくあることなので、特に気にもならない。
ぼんやりする頭で考える。
今の『親』はどんな奴で、今のわたしの名前は何だったか。
やんちゃな子か、優等生か、どういう振る舞いをすればいいのか……。
「……あ………?」
違う。
ドクンと胸が鳴った。
今のわたしに『親』はいないはず。
誰にもさらわれてはいないはず。
深雪の手から逃れて、やっと冬十郎のもとに帰ってきたはずなのに、どうして冬十郎の寝室の天井と違うの?
わたしは、また、誰かに……?
「や…………!」
かすれた悲鳴とともに、ガバリと身を起こした。
「姫」
呼ばれた方を向くと髪の長い男の人が見えた。
「冬十郎様……?」
わたしはリビングのソファに横たわっていた。
どのくらいの間、眠っていたんだろう。
部屋にも、キッチンの方にも、他に人の気配がまったく無い。葵や清香、あの大男はどこに行ったんだろうか。
窓の外は橙色の夕空で、逆光になっているせいで男の人の顔は見えなかった。
「姫、起きたか……」
冬十郎の甘い匂いがして、冬十郎の優しい声でしゃべるその人は、なぜか様子をうかがう様に少し離れた位置にいた。
「はい。いつもの天井と違っていたから、ちょっと驚いてしまいました」
と、リビングの天井を見上げて苦笑する。
一緒に笑ってくれるわけでもなく、安心させるようなことを言うでもなく、男の人は困ったようにその場にたたずんでいる。
「冬十郎様……?」
何だか変だ。
じわじわと背筋を這い登る不安を否定したくて、にっこりと笑いかけながらいつものように両腕を伸ばす。
男の人はこちらに手を伸ばそうとして、急にためらうように動きを止めてしまった。
「抱いても、いいのか」
冬十郎の声が、おかしな質問をしてくる。
「はい、抱っこして欲しいです」
「そうか……」
安堵したように息を吐いて、男の人がすぐそばまで来た。
やっと、冬十郎の顔が見えたが、とても顔色が悪いようだった。
冬十郎は両手を広げて、恐る恐るという様にそっとわたしの背中に手を回した。
「冬十郎様」
その匂いと体温を感じたくて、強くしがみつく。
だが、冬十郎はいつものようには抱き返してくれなかった。何かに途惑っているかのように、その体はぎこちなくこわばっている。
「あの……?」
どうしたのだろうか。
わたしは何か、嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
胸の中を不安が渦巻く。
「姫は、怒らないのだな……」
耳元で聞いたことも無いような弱々しい声がした。
意味が分からなくて、瞬きする。
「怒る理由が何かありましたか?」
冬十郎はぎくりとしたようにわたしを見た。
不安そうな、怯えているような表情で、わたしの顔をうかがっている。
「私が姫に何をしようとしたのか、覚えていないのか……? 私は、姫の喉を潰すと……」
「えっと……わたしは何をされてもいいと言ったはずです」
冬十郎は、とても残酷な物語を読んだあとみたいな悲しい顔をした。痛々しくて、見ていられないものを、それでも目をそらさずに見つめるような……。
この視線には覚えがあった。最初に保護された時の、あの、哀れでかわいそうな子供を見る目と同じだった。
「私は、姫を閉じ込める」
「はい、知っています」
「姫にはもう自由が無くなる。塔に閉じ込められた絵本のお姫様と同じように、行きたいところにも行けなくなるし、会いたい人にも会えなくなるんだ」
「かまいません」
何度繰り返し言っただろう。
冬十郎になら、つながれても閉じ込められてもかまわないと。
「物語のお姫様とは違って、いくら待っても王子の迎えは来ない。姫に近づく男という男をすべて私が排除するからだ」
冬十郎はちょっと怖い目をして次の言葉を言った。
「葵も例外ではない」
「葵も……?」
「ああ、一人も例外はない。姫が会いたいと言っても」
今までの冬十郎とは明らかに違う声音に、少し驚く。
葵はわたしの犬だ。
いつも他の人とは違うことを言うから、わたしは少し面白いと思っていた。
葵に歌を歌ってあげた時の、あの崇拝するような目はくすぐったくて嬉しかった。
『犬』っていうのをどういう意味で言ったのかはよく分からなかったけれど、わたしにとっての葵は、多分、生まれて初めてできた友達だった。
この先もずっと一緒にいれば、葵はきっと、わたしの知らない世界をどんどん教えてくれるんじゃないかなと思っていた。
だから、もう葵と会えないというのは、ほんのちょっとだけ、寂しい気がした。
そして、ほんのちょっとだけ、葵がかわいそうな気がした……。
「はい、分かりました。葵にはもう会いません」
それでもわたしは冬十郎に従う。
葵に会うなと言うなら、もう会わない。
冬十郎は私の奥を見るようにじっと見つめてきて、指先でわたしの瞼に触れた。
「姫の目に触れるもの」
唇に触れ、
「口に入れるもの」
耳に触れ、
「耳に届くものすべてを、これからは私が管理していく。まるでペットのように、私がここで姫を飼うことになる」
わざとらしく脅すような口調で、冬十郎が低い声を出した。
「そうしなくちゃいけないんですよね。わたしが、恐ろしい化け物だから」
冬十郎は首を振った。
「姫の力のせいじゃない」
「え」
「鬼童恭介に言われたからでもない」
冬十郎は両手でわたしの頬を包んだ。
「私が、ずっとそうしたかったからだ。ずっと、そうしたいと思っていたことに、今更ながら気が付いた……。私の醜い欲望に大義名分がついてしまって、もう誰一人として私のすることを咎めることはできなくなった」
冬十郎のきれいな黒い瞳に、陰りが見える。
「私は姫が欲しい。姫の自由を奪って、監禁して、私一人のものにしたい。姫の姿をもう誰にも見せたくないし、姫の声をもう誰にも聞かせたくない。姫の肌には、私以外けっして誰にも触れさせたくない……。ずっと望んでことが、全部、叶ってしまう。私が腹の底に隠していた欲が、すべて叶ってしまう」
自分で言った言葉に、自分で怯えたように、冬十郎は手を離して頭を振った。
「あの……。わたしは冬十郎様が好きで、冬十郎様もわたしを好きだと思ってくれるのだから、それでいいでしょう?」
冬十郎はうつむいている。
手を伸ばして、冬十郎の髪に触れる。なめらかなそれを耳にかけて、わたしはその首筋に唇を押し付ける。
「姫……?」
途惑う声を無視して、ちゅ、と音を立ててキスをしてみた。
「ん……」
冬十郎が吐息を漏らす。
唇を離すと、白い頬や耳がほんのりと赤くなっていた。
「冬十郎様がわたしを欲しいって思う以上に、わたしは冬十郎様が欲しいです。わたしは恐ろしい化け物だから、頭から足の先まで全部バリバリと食べちゃいたいくらいに、冬十郎様の全部が欲しいです。だから、おあいこです」
冬十郎は首を片手で押さえて、顔を伏せていた。
「おあいこか……」
震えた声で呟く。
わたしは両手を広げて冬十郎の方に伸ばした。
「抱っこしてください、冬十郎様。今日は一日中くっついていようって言ったじゃないですか」
冬十郎は泣きそうな顔でわたしを見て、優しい手でそっと抱き上げた。
強烈に甘い匂いがわたしを包んだ。
冬十郎の感触を確かめるように密着して体を預けた。
引き離す人なんてここにはいないのに、わたしは必死に抱きついていた。
しゅるしゅると赤いものが目の端に映った。
糸だ。
わたしの体から無数の赤い糸が這い出して、冬十郎へと向かっていく。
「冬十郎様……明日も、明後日も、その先も、ずっとずっとわたしを閉じ込め続けてください」
「姫」
糸は冬十郎の髪に絡んで、首を這って、肩を、腰を伝っていく。
蠢くそれが見えているはずなのに、冬十郎は動じなかった。わたしの作り出す幻覚の糸を、無防備に受け入れていく。
「わたしはもう誰にもさらわれないって、誰にも連れ去られたりしないって、そう言ってください。明日も、明後日も、その先も、ずっと、ずーっと冬十郎様のそばにいられるなら、わたしは何でもする……冬十郎様がわたしを欲しいと言うならあげます。わたしの心も体も全部冬十郎様にあげます。だから、ずっと……ずっと一緒です」
うねうねと蠢く赤い糸はさらに数を増していく。冬十郎は糸に巻き付かれていく自分の腕や足を少しの間、愛しそうに見ていた。
そして、糸に巻き付かれたままわたしを抱きあげ、歩き始めた。
「冬十郎様?」
「姫はまだ分かっていない。分かっていないくせにそんなことを言う。わたしはもう、スイッチを切らない」
スイッチとは何だろうと思った。
葵も清香もあの大男も、そして花野も他の女の人たちも、最上階にいたすべての人を追い出したのか、誰もここにはいないようだった。
静まり返った廊下を歩いて、冬十郎は寝室へ向かって歩いていく。
「あの、まだ夜じゃないのに寝るんですか」
「姫をわたしのものにする」
わたしは首を傾げた。
「わたしははじめからずっと冬十郎様のものです」
「……そうだな」
寝室に入ると同時に冬十郎は雨のようにキスを降らせてきた。
「んん…………?」
途惑いや疑問を声に出す暇もないほど、何度も何度もキスをされて、足の力が抜けて立っていられなくなっていく。
冬十郎はわたしを抱き上げてベッドに横たえた。
形の良い長い指が慣れたようにするすると服を剥ぎ取り、体中を撫でまわして、体中にキスをしてきた。
『たとえば、ご当代様がお嬢様を裸にして、体を撫でてきたらどうですか』
七瀬が言っていたのはこのことなんだろうかとぼんやりと思ったけれど、冬十郎の甘い匂いの中で頭が真っ白になって何も考えられなかった。
体が熱くなって、アイスクリームみたいにドロドロに溶けて、わたしが全部消えて無くなってしまいそうだった。
溺れて喘ぐような、言葉にならない声が出たけど、冬十郎はそれすら飲み込む様に何度も何度もキスをしてきた。
どうしたらいいのか分からなくて、わたしは「怖い」と何度も呟いたけれど、冬十郎は触る手を止めなかった。
『きっとお前がもう少し大人になったら、男と女の全部を冬十郎様が教えてくれるさ』
葵の顔がちらりと脳裏をよぎった。男と女のすることだと葵が言っていたのはこれのことだろうかと思った。
そしてわたしは『痛いこと』の意味を知った。
でも、ただずっと、ひたすらに幸せで、頭がふわふわして、体が何度もビクビクと震えてしょうがなかった。
冬十郎はうわ言みたいに、言い聞かせるみたいに、「姫は私のものだ」と何度も同じことを言っていた。
甘く濃厚な匂いに包まれて、どんどん快感だけに支配されていって、自分が自分じゃないみたいだった。
登りつめる様な一際強い快感が襲ってきて、痙攣するように何度も体が跳ねて、悲鳴のように声を上げる………。
そして、わたしは意識を手放した。
目を開いた時、冬十郎のきれいな顔が間近にあって安心した。
「冬十郎様……」
いつものように手を伸ばすと、ベッドの中で強く抱きすくめられた。冬十郎のなめらかな肌の感触に、少し驚く。
「あれ……裸だ……」
私も冬十郎も何も着ていなくて、温かな体温を直に感じる。
「怖いか」
聞かれ、何が怖いんだろうと首を傾げる。
「私のしたことが嫌だったか」
冬十郎のしたこと……。
大きな手や熱い舌が体中に触れたことを思い出す。
わたしは首を振った。
「いいえ、冬十郎様の体はいい匂いがしてあったかくて大好き……」
まだ半分ぼんやりとしていた。
始めてキスを教えられた時よりもずっと、甘く疼くような余韻が体中に残っている。
自分の体の中からも、冬十郎の甘い匂いがするようで、なんだか嬉しかった。
冬十郎のきれいな指が私の髪を撫でる。
「姫は私のものだ」
「はい、わたしは冬十郎様のものです」
反射のように答える。
「人里離れた山の奥にでも家を建てよう。姫が欲しいならピアノでも何でも用意する。そうだな……庭に花を植えるのもいい。庭は広く作って、毎日散歩しよう。家が建つまではここにいることになるが、この最上階の部屋も明日にでも改装する。身の回りの世話をする者と姫との動線を分けて、すべての扉に鍵を付け、すべての窓に格子を入れる。姫、これからは姫の動ける範囲はもっと狭くなる。外出はもちろん、テラスへ出るのも私と一緒の時だけだ」
「はい、分かりました、冬十郎様」
また反射的に答えた。
わたしは、今ではもう完全に冬十郎のものになった。
やっとなれたんだと思った。
きれいで優しい冬十郎の世界の住人に。
嬉しくて、うっとりして、冬十郎を見つめていたら、その口がかすかに動いた。
「かわいそうに……」
「え」
聞き返すと、冬十郎はいつもの優しい顔で、私に笑いかけた。
「いや、何でもない。……もう一度、抱きしめてもいいか」
わたしは手を伸ばした。
そっと、優しく抱きしめられた。
「もう誰も、姫をさらうことはできない。姫はもう連れ去られたりしない」
「はい……嬉しいです」
「大事にする」
冬十郎の腕の力が強まる。
「私にできることは何でもする。優しくして、どこまでも甘やかす。だから……」
わたしの体には、赤い跡がいくつも残っていた。
冬十郎の腕には、以前わたしがつけた歯形が、まだくっきり残っていた。
わたしは冬十郎のものだし、冬十郎はわたしのものだ。
わたしの心は幸福感で満たされていた。
一番欲しいものを手に入れた喜びに陶酔していた。
でも、冬十郎は悲しげに小さく息を吐いた。
「姫が大人になった時、いつか、本物の恋を知った時に……姫は私を憎むかもしれないな……」
「え」
全く予想もしない言葉がその口から出てきて冬十郎の顔を見る。
「憎むなんて、わたしは冬十郎様が好……」
冬十郎はわたしの口を指で押さえた。
「もしもの話だ」
射貫くような強い瞳で、冬十郎は言った。
「もしも、姫が大人になって、どうしても自由が欲しくなった時に、これから私が言うことを思い出してほしい」
自由なんて欲しくはない。
冬十郎といるのがわたしの望みなのに、なんでそんなことを言い出すのだろう。
怖くて聞きたくなかったけれど、冬十郎の真剣な目を見ると、耳をふさぐことも出来なかった。
冬十郎は私の手を取って、自分の心臓に押し当てた。
「蛇の一族である私を殺す方法はたった二つしかない。それ以外の方法では何をしても死ねない体だ……。いいか、私が死ぬのは、姫が死んでしまった時と、姫が私の死を望んだ時だけだ」
冬十郎はふっと息を吐いた。
「だから、もしもの時は私に向かってこう言えばいい。一言だけ、『死ね』と。それだけで、君は自由になれるから」
ぞわッと寒気が走った。
「嫌です!」
わたしは冬十郎の体に抱きついた。
「そんなこと言わない! 絶対に言わない! わたしは冬十郎様が好きです! 大好きです! そんな怖いことわたしは言わない!」
必死にしがみついて叫ぶ。
冬十郎はわたしを受け止めて、ポンポンと優しく背中を叩いた。
「もしもの話だ、姫。姫が大人になった時の、もしもの話だ……。私も姫が好きだよ、大好きだ……すべてを捧げる覚悟がある……」
わたしが何度好きだと言っても。
冬十郎が何度好きだと言ってくれても。
何かが決定的にすれ違っているようだった。
平衡感覚が狂うような、酔ってしまいそうな眩暈がする。
わたしは、冬十郎のきれいで優しい世界の住人になりたかった。
わたしは冬十郎に完全に捕らえられたことで、完全にその世界の住人になれたと思っていた。
けれど、何かが違った。
わたしという異物が入ったことで、きれいな世界はどこか歪んでしまった。
コップの中の澄んだ水に一滴の毒薬を落としたかのように、冬十郎の世界は消せない穢れを抱えてしまったようだった。
「そんな怖いことを言わないでください……」
あふれ出てくる涙を、冬十郎の指が優しく拭ってくれる。
「分かった。もう言わないから泣かないでくれ。ただ、覚えてくれているだけでいいのだ。もしもの日が来ないというなら、それでいい」
「そんな日は絶対に来ません」
「ああ、そうだな……」
泣きじゃくるわたしをあやすように、冬十郎の大きな手が髪を撫でてくれる。わたしが泣き止むまでずっと、冬十郎は静かに髪を撫で続けた。
読んでくださってありがとうございます。




