6-8
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暗い穴の中に落ちていく箱。呆然とそれを見守る遥香の顔。
同じ部屋で眠る。もう決して一人には出来ない。今一人にすれば何をするか分からない。暗闇の中で、息の音だけが聞こえる。彼女が眠っているのかも分からない。言葉もなく、動くこともない。そんな状態で一睡も出来なかった。
翌日、遥香には会社を休ませ、自分もしばらく休みを取った。そして、狭い箱の中に一緒にいる。二人とも一緒にいると苦痛なのに、一緒にいる。そんな日が続いた。まるで何か呪いのようだ。そんなことを思った。いつまでもこんなことは続けられない。
二週間が過ぎた。遥香とは一切話さなくなっていた。ただ、お互い呪われたように一緒にいる。互いに憎しみあいながら一緒にいる。
疲れていた。そんなことは考えないようにしていたが、ただただ疲れた。それを認めずにはいられなかった。
また地獄のような夜が来た。暗闇の中に二人で囚われた。しかし、その日は疲れが限界に来て、気絶するように少し眠った。そして、真夜中に目が覚めた。
閉め損ねたカーテンの隙間から青白い月明りが差し込んでいる。それが遥香の顔を映し出している。
優しい寝顔だった。この顔は変わらなかった。ずっと、若い頃から、出会った時から、この優しい寝顔は変わらなかった。
不思議な気持ちになった。何も変わっていないのに、この顔を見ると何も変わらず昔と同じような優しい気持ちになるのに、今は他人以上に、お互いを憎んでいる。
二人を繋いでいた小さい歯車が抜け落ちて、形は同じでも、もう回らなくなってしまった。
遥香の青白い頬に触れた。冷たい頬に触れた。
「ごめんな」自然と涙が流れた。
「ごめんな。全部、俺のせいだ」涙が溢れ止まらなかった。
静かに、膨らんだ瞼が開いた。遥香の目はそのまま、空を見上げていた。そして、口元が静かに動いた。
「たまに思う。いえ、いつも思ってた。私がカプセルを買わなければ、あなたがソラを責めなければ。隣の世界ではそれをしなかった私達がいる。ソラも生きていて、私達は昔と何も変わらないように暮らしている。私とあなたも昔のように」遥香の目から静かに水滴が頬を伝う。
「でもね。さっき夢を見たの。こんな夢を見たの。反対側の、もう一つ隣の世界では、あなたがカプセルを壊したおかげで娘が助かって、病気からたち治って、元気になって、私達はもっと幸福に暮らしている。
だけど、その奥には悲惨な世界がもう一つあって、そこだと私がカプセルを買わなかったから、娘は一人でいる時に階段から落ちて、それで歩けなくなってしまって、学校で虐められ、孤独で、寂しくて、でも家に一人ぼっちで、辛くて、もっと早く死を選んでしまった。
夢から目が覚めて、それから、少し考えていたの、色々な事を。
多分、結局、何が良くて、何が悪かったかなんて分からないよ。私達にはそんなことわかりっこない。だから、もういいの。何かを責めることはもうやめよう。もう十分、私達はそうしたよ。あの子も、私達も、自分の信じるものがあって、それを信じてこうしてきたんだよ。こうなったんだよ。だからもう、許してあげよう、全部を。もう傷つけあうのはやめよう」
言葉を返したかったが、辛く、苦しく、声が出なかった。ただ、情けない涙が溢れた。
「あなたが泣くの、初めて見た」
遥香がそう言って、俺を見た。
「あぁ、ごめんな」顔を拭いながら言った。「俺といて、辛くないのか」
「辛いよ。だけど、今はもうあなたといる事だけが幸せだから」遥香は言った。
「私ね、若い頃ずっと言ってたでしょう。あなたはより先に死にたいって。あなたが死ぬところ見たくないって」
「あぁ」
「でもね。あなたより長生きすることにした。だって、こんなに辛い思い、あなたにもうさせたくないから。あなたがそんな思いすると思うとね、そっちの方が私は辛い。だから、約束する。あなたより私は長生きするから」
「あぁ、分かったよ。だけど俺も頑張って長生きするよ。だからお前は相当長生きだよ」
「そうね」
「うん」
「投げやりになっちゃ駄目だよ」
「あぁ、ならないよ」
三か月後、遥香の頭の腫瘍は破裂して、気づけば、ここにいた。
この白い箱の中身は、どこか夢のようだった。さっきまで元気だった遥香が倒れて、もうこんな状態になっている。
ベッドに横たわり、遥香の目玉は見開き呆然と空を見ている。隣に座って手をとった。その手が小さく握り返した。何を言えばいいか分からなかった。ただ、意味が分からなく混乱していた。
マスクの中で、歪んだ口が何度か動こうと震えた。遥香が何かを言おうとしている。しかし声にはならなかった。
「どうした。何だい」と顔を近づけた。涙がそのまま落ちてしまって、頬を付けて、抱いた。目を閉じて、暗闇になって、そのまま夢が覚めるのを待った。しかし、何も変わらなかった。目を開けて遥香の顔を見た。異様に見開いた目がこちらに浮きだしている。俺のことが今見えているのか?
彼女は一つ一つ、顔を歪ませて、苦しそうに声の形を作っていった。
「ごめんなさい」
その後は、また口が上手く開かなくなった。だが、顔を見ていれば分かった。何を言いたいかはもう分かった。「約束を守れなくて」と彼女は言っているんだ。
「そんなこと言うな。まだだよ。まだ」
彼女の目は少し細くなった。上手く顔を作れないが、必死に微笑もうとしていた。
「いいんだ。いいんだよ。大丈夫だよ」
最後に彼女は、口を小さく開いた。
「ありがとう」
彼女の目は焦点を失い、歪んでいた顔は静かに、彼女の美しい顔に戻っていった。




