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暗闇


   暗闇


 めずらしく早く家に着いた。オレンジの灯。並んだ靴。少し外より暖かい空気。振り返る遥香の顔が自分を出迎えた。

「お帰り。早かったね」

「あぁ、ただいま」

「濡れた?」

「いや、少しだけだ」

 自分の部屋に行き、スーツを着替える。クローゼットにかかるシャツの束。ネクタイを解き、ハンガーに引っ掛ける。タオルで軽く頭を拭いて、リビングに戻る。壁には麦畑の絵が飾ってある。ストーブを付けたようで部屋は暖かくなっていた。

 台所で片づけをしている遥香に聞いた。「ソラは?」

 妻は水を止めて振り返った。「ゲーム」

「またか。飯にしよう。起こしてくる」

「ねぇ」

「ん?」

「あの子、病気だって」

「病気?」

「うん、VR依存症だって。お医者さんから診断された」

「何だそれは」

「名前のまま。VRをやりすぎているって。症状が悪化すると鬱になったり、脳に障害を負うこともあるって」

「そんなに悪いのか?」

「まだ、そこまでじゃないらしいけど」

「VRの性なんだな」

「えぇ」

「じゃあ、何でやらせているんだ」自然と強い非難の籠った声になった。すぐに後悔するがもう出てしまったものは取り返せない。

「まだ軽いから、様子を見ながら少しづつ、すぐには止めるのは駄目だって言うから」遥香は何事もなく冷静に返そうとする。

「いやすぐにやめさせればいいんだ、そんなもの。だから散々言っただろ。最初から、VRなんて必要ないって」

「じゃあ、どうしろって言うの。あの子をここで一人にしとけば良かったの」終に彼女も冷静を失くし怒りを露わにした。

 言葉を無視して、二階の娘の部屋に上がった。女の子の部屋とは思えない味気ない部屋だ。まるで病室のようだ。部屋の中央に置かれているカプセルを撫でた。「開けろ」

 殻が剥がれていき、中にいる娘の瞼が開いた。彼女の目はどこか焦点が合っていない。

「何」と娘の口元が動いた。

「お前、大丈夫か?」

「急に起こさないで」娘の目が俺を睨んだ。

「飯だよ」

「いらない」

「駄目だ。食べなさい」

「いいよ」

「駄目だ。行くぞ」娘を抱き起した。


 食卓には、遥香の食事が並んだ。どんなに機嫌が悪くても彼女は家事を投げやりにすることは無かった。申し訳ないという気持ちはあったが、それを伝えることは無かった。

 机に並んで、ご飯を食べ始めた。「スクリーンを消せ」とすぐに娘に言った。娘は目を細め、面倒くさそうに消した。妻は気まずそうに口を結んだ。

「お前は毎日あんなところに籠って何をやってるんだ」

「あんなとこ?」

「カプセルだよ」

「あぁ。VRだよ」

「それは分かっている。VRで何をやっているんだ?」

「今は世界を作ってる」

 それを聞いて、俺は吹きだした。「何を馬鹿な」

 遥香は真剣に聞いていて笑わなかった。

「世界を作るのは楽しいよ。VRの中では考える想像と創る創造が一緒になるんだ。思い描いたことは全て実現できる」

「馬鹿なこと言うな。何一つ実現なんてしていないさ。自分に都合のいい妄想をしているだけだろ」

「お父さんが何を知っているの?VRに入りもしないくせに」

「知らなくていいんだよ。俺にはそんなことをしている暇はない」

 箸を置いて娘に言った。「なぁソラ、お前はVRをやり過ぎているよ。医者からもそう言われたんだろ。俺はそれが病気だとまでは思わないが、勿体ない事だと思うよ。お前はもう遊びの世界から飛び出して、本物に触れなくてはいけない時期だ」

「本物って何?」

「本物は、本物だ。ゲームより苦しいが、それよりよっぽど面白い」

「そうかな」

「そうだよ。昔はお前一人で留守番をしてもらわないといけなかった。幼いお前に何かあったら危ないし、それに、一人だと寂しいから、カプセルを買ったんだ。でももうお前もいい年になったんだ。カプセルもいらないだろう」

「カプセル無しで何が出来るの?」

「何でも出来るよ」

「何も出来ないよ」

「俺が子供の時は、VRなんてしなかったし、今もしていない」

「父さんの時代とは違うよ。今は皆がVRの中にいて、色々なことを経験している。それなのに私だけ、この狭い家に籠って何をするの?」

「そんな経験は偽物だよ。何の価値も無い。お前は外に出てみな」

「外に何があるの?」

「探して見ろ。お前に必要なものなんて至る所に溢れている。それが分かるまではやはりVRはやるべきでないよ」

「私は、あなたより遥かに多くの経験している。あなたより知識も経験も何もかもがある」

 突然大人びた口調になったソラの言葉を聞いて、呆然とした。「ソラ、何を言ってる?それはおかしいよ。お前はまだほとんど何も知らない。何も分かっていないよ」

「あなたには、そういう風にしか捉えられないだけだよ」

 頭の中で何かが千切れた。恐怖とも、怒りとも言える衝動で立ち上がっていた。そのまま席を立ち二階に上がった。遥香が俺の名を呼んで止めようとするのが聞こえた。

 ソラの部屋に入り、カプセルに命令した。「収縮」カプセルは折りたたまれていき、小さな箱になった。

「ねぇ、落ち着いて」と遥香が部屋に入ってきた。娘も部屋の入り口に立っていた。娘はどうでもよさそうに取り澄ましていた。

壁に手を触れ、トラッシュホールを開いた。その中に箱を放り投げた。箱は穴に吸い込まれて落ちていった。そして娘の前に立った。

「こうなることが分からなかったか?やっぱりお前は何も分かってないんだよ」

 ソラは薄く笑った。「どうして、あなたはそんなにここに囚われているの?」

「囚われているんじゃない。ここに生きてるんだ。俺も、お前も」

「どこもそうだよ」

「違う。ゲームの中で生きているなんて思うな」

「ゲームだって世界の一部でしょ。それなのに、こんな狭い箱の中だけで生きろと?あなたのルールに縛られたこんな箱の中で」

「そうだ」怒りが叫びとして響いた。「お前は何も分かっていない。狭い箱の中に囚われているのはお前だ」

 重たい沈黙がその後のしかかってきた。何も言わず、一階に戻り、飯を食べた。遥香とソラは降りてこなかった。

 次の日になって、出勤前にソラに会った。少し話をしたが、彼女は特に何事もなかったかのように、いつもと変わりが無かった。

 週末は久しぶりに、家族で旅行に言った。遊園地、野球場、公園、海。くたくたになるまで、二日間、二人を連れまわした。ソラも遥香もそれなりに楽しそうに笑っていた。自分は少し安堵した。家に帰ってきて、久し振りに幸福な気持ちで眠りについた。

 翌朝、ソラは死んでいた。

 妻に娘からメッセージが来ていた。「飽きた」。一言、そう書かれていた。


      ※


 ひとしきりの喧騒が過ぎて、ふと落ち着いた。リビングのソファでぼぉっとしていたが、遥香がいないのに気付いて2階に上がった。

 妻は娘の部屋の入り口で呆然と立っていた。ゴミに出したカプセルが部屋の中央に置いてあった。

「一応、あの子が大事にしていたものだから」遥香はそう言って、それを眺めた。黙って回収して、いつか、娘に返そうとしていたのだろう。 

 娘が死んでからは多忙で息をつく暇も無かった。いや、自らそうして追い込んだ。それが、心のどこかで救いだった。気づいたら2年の月日が流れていた。このまま、立ち止まらず流れ続けることが出来るだろうか。濁流は続いてくれるだろうか。事件が起きてほしかった。ひどい事件であればあるほど良かった。心に余裕が出来るのが恐ろしかった。何かを考える空白が出来るのが恐ろしかった。何より、家に戻るのが恐ろしかった。いつでも帰り道が一番恐ろしかった。

 自分は家庭から逃げていた。あのどうすればいいか分からない空間にいるのなら、3の方がよほど居心地が良かった。

 ある日、電話がかかってきた。自分とも面識がある妻の職場の友人だった。その人は、妻が仕事を休みがちである事と、今日も無断で休んでいることを自分に伝えた。「様子がおかしいのですよ。仕事はしっかりしてるけど、たまにぼぉっとしているし、急に変なことを言いだすし。正直な話をすれば、何と言うか、少し病気みたいに見える。あの人、今まで気丈にやって来てたから、何だか逆に心配で。仕事は休むなら休んでいいのですよ。前もって分かっていればね」

 すぐ家に帰った。家は暗闇だった。明かりはついていなかった。空気は外気と変わらずに冷たく、誰もいる気配は無かった。2階に上がり、娘の部屋の明かりをつけた。遥香がソラのカプセルの中で眠っていた。

 何をしているのだろう。

 カプセルの殻に触れた。そうして、しばらくそこに立ち尽くした。時間が止まっているようで、何時間も流れていた。カプセルの青白い灯がぼんやりと付いた。タイマーが設定されていたのだろうか。気が付くと、22時になっていた。

 殻の中の妻が目を開き、しばらく何もないものを見ていた。やがて俺に気付いて、少し驚いたように目を開き、その後気まずそうに今度は目を細め殻を開いた。

「帰ってたの、早かったね」

「あぁ、ただいま」

「今帰ったの?」

「そうだよ」

「ちょっと体調が悪かったから診てもらってたの」

「そうか、大丈夫か?」

「えぇ、ただの風邪みたい」

「そうか」

「今、ご飯用意するから。ちょっと待ってて」

 妻はそう言って一階に降りていった。


 深夜、その日も簡単には眠りに逃げることが出来なかった。立ち上がり、家の物置の壁を開いた。小さな箱がぽつぽつと積まれていた。娘のカプセルを買った時に一緒に買ったものを探した。最初は部屋に並べて置いていて、たまに身体検査のために使ってはいたが、今はそれすらせず、ここで埃をかぶっている。部屋の奥で、それを見つけた。

 翌日も仕事を早めに切り上げて帰った。リビングはやはり暗闇で家に人の気配は無かった。二階に上がり、ソラの部屋の灯を付けた。閉じたカプセルの中で遥香は眠っていた。自分の箱を持ってきて、繋げられるか試した。昔、何回かだけ、娘と一緒のゲームをしたことがある。その時のことを、何となく思い出していた。

 認証されて、同じ世界に入れるようになった。隣の書斎で、カプセルを展開した。そして、その中に潜って、妻と同じゲームにログインした。

 暗い夜が広がっている。風が吹いていた。草原がなびき、冷たい空気の中で鳴いている。 暗い森のシルエットが遠くで広がり、対照的に空には明るい星々が輝いている。

 遠くから賑やかな祭りの音が聞こえた。急に胸が冷たくなり、寂しい気持ちになった。

 草原を横切る道を歩く。風と、鈴の音のような虫の声しか聞こえない。

 何かが胸につまり、ふと立ち止まり、固まった。

 街の外れから遠く黒く広がった野原を見渡した。

 俺はなんのために生きているのだったか。急にそんな気持ちになった。俺はなんのために生きているのだろう。

 空を見上げた。星々は光を少し震わせ、風が遠くでなり、丘の草も静かにそよぎ、頬を冷たい空気が撫でた。少しづつ星のパズルが組み変わっていき、星座の絵が移ろっていく。

 青い琴の星が三つにも四つにもなって、ちらちら瞬き、足が何べんも出たり引っ込んだりして、とうとう茸のように長く延びた。またすぐ眼の下の街までが、ぼんやりした沢山の星の集まりか一つの大きな煙のように思った。

 天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりした。それはだんだんはっきりして、とうとう凛と動かないようになり、濃い鋼青の空に野原に立った。今新しく灼いたばかりの青い鋼のような、そらの野原に、まっすぐすきっと立った。

 すると、どこからか不思議な声が聞こえてくる。

 銀河ステーション、銀河ステーション


 気が付くと、さっきから、ごとごとごとごと、自分の乗っている小さな列車が走り続けていた。小さな黄色の電灯の並んだ車室に、窓の外を見ながら座っていた。車室の中は、青いビロウドをはった腰かけが、まるでがら明きで、向こうの鼠色のワニスを縫った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っていた。

 窓の外では星々が暗い河の中に落ちた光のように流れていった。しばらくそれを眺めていた。サソリの灯が見えなくなった時に、ようやく立ち上がった。周りの席には誰も座っていなかった。

 遥香を探して、車両を歩いた。時折見かける白い人々は、皆どこか悲しそうだった。

 聖歌が遠くから聞こえて、明るく青白い光が外を過ぎった。人々が並び、歌っている。立ち止まって、歌が終わるのを待った。

 列車が止まり、多くの人々が下りていった。そして、またがらんとした車室の、少し離れた先で彼女は座っていた。

 どういうわけか、音を殺して彼女に近づいて行く。彼女の小さく笑う声がする。

「えぇ、どこまでも一緒ね」

 彼女の視線の先には誰かがいるようだった。自分は気づかれないように彼女の視界から外れた後ろの席に腰かける。

 また小さな笑い声がする。

 懐かしい声が一緒に聞こえた。何度も、何度も探して、そして、振り払って来た声だ。それが今、当たり前のように、幸せそうに、妻と話をしている。

 目を瞑り、声の響きを感じた。どこまでも悲しく、同時に逃れがたいほど幸福だった。

 遠くに宇宙の穴が見えた。石炭袋が広がっていた。娘は言った。「どこまでも一緒だよ」

 小さく最初に首を振って、何とか奮い立って大きく首を振って、そして立ち上がった。 

「何をしてるんだ」

 遥香は自分を見上げた。見上げるまでは、本当に久しく見るほどの幸福そうな顔をしていた。

「残ってたの。ソラが。ここに」

 娘も自分を見上げているのは分かった。しかし、それを見ないように、強く遥香の目を見た。

「違うよ。何も残っていない。あの子は死んだんだ。ここには何もない」

 遥香の目には途端に水が宿って、ひどく悲しそうな顔をした。

「帰ろう」と妻の手を握った。妻の手は冷たく、そして、その場で凍り付いている。

「やめてくれ、お前まで俺を裏切るのか?」

「お父さん」

視界の外れから懐かしい声が言った。それを見た。青白い肌で、やさしく微笑んでいる。「私が憎いの?」

今すぐ抱き起して、元の世界に一緒に帰りたかった。しかし、それはいない、それは偽物だ。それは偽物なのだ。

「あぁ憎いよ。消えてくれ。その姿を見せるな。決してその姿を見せるな」

 さっきまで小さかった宇宙の穴は、膨大な塊にかわり、窓の外を全て石炭袋が覆っている。娘は石炭袋を背にして、いつの間にか、壁をすり抜け、その中に飲みこまれていった。


 目が覚めた。目前で青白い光が灯っていた。すぐに殻を開き立ち上がった。

 ソラの部屋に走った。暗い中で青色のカプセルの殻が開いていた。ぼんやり照らされて遥香が座っている。暗がりにいる青白い姿をみると、まだあの世界にいるようだ。

「大丈夫か」

 妻は自分と目を合わせようとしなかった。

「何をしているんだ。自分が何をしているか分かっているのか」

 彼女は俯いたまま何も答えなかった。衝動的にその両腕を強く握った。「あれは偽物だ。分かっているのか」

 彼女は俯いたまま小さく「分かってる」と呟いた。「ただ、懐かしくて」

「懐かしくなんてない。あそこにあるのは全て偽物だ。全て偽物だよ。なぁ」

「えぇ、そうだね」彼女は少し投げやりに言った。その目はまだここに戻っておらず、向こうの景色を見ているようだった。

「しっかりしろ。俺達はここで生きていかないといけないんだ。変なものに目を背けても、辛くなるだけだ」

「えぇ」遥香はゆっくりと頷いて、呟くように言う。「ただ、あの子はあなたと一緒に、こっちに来ればって言ってた。あの子はあなたの事も心配して」

 その時起こったことは、自分でもよく分からない。気が付くと彼女の頬を叩いていた。「しっかりしろ。それはあの子が言ったことじゃない」

 しばらく彼女は呆然としていた。自分もまた、同じように呆然とした。


               ※


 記憶の残像が軋んで、次の場面へ誘われる。それと同時に、痛みが蘇ってくる。これ以上はもう、見たくない。しかし容赦なく場面は白く染まっていく。

そして、閉ざされた白い箱の中にいる。様々な計測器が彼女の状態を示している。何かのチューブが小さい体の至る所に繋がれている。口元を呼吸器に閉ざされて、眠っている遥香の目は、またどこか遠くを眺めているようだった。

 誰もいない。二人だけが取り残された小さい箱。病室。片側の顔面は麻痺して、遥かの顔は異様に歪んでいる。その垂れた瞼の間から呆然と見開いた目。彼女の顔は、遥香の顔では無かった。思わず目を反らしたくなった。見ているだけでも辛かった。

 いつか太陽のように笑っていた人はもういない。どうすることも出来ない。俺は何も出来ず、ただ座っている。

 顔をより歪め、痙攣する口を動かし、遥香の口元が、声にならぬ声が、最後に苦しそうに言葉の形を作ろうとした。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

 夢のようだ。信じられない。僅か二年の内に立て続けに亡くし、そして全てを失うのか。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

 遥香は死に、その声にならなかった声がいつまでも、閉ざされた頭の小さな箱の中で木霊しだした。だれも居なくなった小さな箱。


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