6-5
※
白く狭い病室。
少年の症状は日を追うごとに悪化していた。そして今はもう何も話さなくなった。あの作り笑いもない。無表情な人形がただそこに置いてあるようだ。
「準決勝が終わってからこの状態です。治療も効果がありません」堺が言った。「一見何でもないように見えますが、異常なストレス値にあります。普通の人間なら耐えきれなくなって死んでいてもおかしくない。ここまで来ると身体機能にも異常が現れてきます。普通の行動すらままなりません。今は思考を停止してストレスから身を守ろうとしています。何かを考えられる状況ではないです」
風景だけ切り取ってみると、キゴウは何事もなくただ壁にかけられた時計を見ているようにも思えた。しかし、この子の中には想像も出来ない苦痛が渦巻いている。それを決して表に出さず、決勝までの時間を彼はただジッと待っているのかもしれない。
「キゴウ、お前そんな状態で試合に出たら死んじまうぞ」
声をかけた。キゴウは反応しなかった。聞こえているのかも定かではなかった。
「キゴウ、お前の父親の場所が分かったよ。会いに行かないか。連れていってやる」そう言って、小さく丸まったその肩に手を乗せた。
「何を言うのです」と堺がすぐに反応した。
「この子を父親の所に連れていく」
「ここから出すことは出来ませんよ」
「お前が許可してくれればいいはずだ」
「危険です。許可出来ません」
「そんな危険な状態で、明日の大会に出すのか」
「それは、この子の意思です」
「本当にこの子のことを思うなら棄権させろ」感情が昂って堺を怒鳴りつけた。それでも彼は冷静に「私達は本人の自由意志を最優先しなればなりません」とトーンを変えずに帰してくる。
「じゃあこいつが大会に出たいと言ったのか?」
「えぇ、前にそういう希望を聞いています」
「今は?今は違うかもしれないだう」
「今彼が何も言わないなら、以前の希望に沿わないと」
「それでいいのか。患者が死の危険にあるんだぞ」
「もし患者が死を望むのなら希望通りに死なせてやるのも医者の仕事です」
「違う。こいつは死にたがってなんかいない」
「この子の言動は私とシステムが診断しました。間違いなく本音です」
「違うよ。この子はまだ死の意味を知らないだけだ。自分が死ぬという事を理解できないんだ。それなのに、本人の性にして投げ出すのを黙って見てろというのか」
理解できなかった。最近は理解できない事ばかりだ。何をしていても、本人の意思、本人の意思、一体それが何だと言うのだろう。人間はどんな意思だって持つ。自ら破滅したい時だって、全て無茶苦茶にしたい時だってある。そんなものまで尊重しなくていい。むしろ、それは止めなくてはならないはずだ。
堺は言う。「木村さんの考え方は皆が社会に馴染まないと生きていけなかった時代のものです。社会に属さなければ権利をもらえず、貢献してお金を稼がなければ食べることも出来なかった時代の。今は違う。自分の気持ちを殺さなくてもいい。殺さなくても生きようと思えば膨大な時を生きられる。有り余るほどの時間を。そして死のタイミングも人それぞれが選べるのです。
大切なのは、その時の衝動なのです。生きながらに死なず、自由な精神のまま偽らず、自己の精神に忠実に生きることなのです。
そして、この子は命を燃やしたいんです。偽物だけに囲まれた空白の人生を、偽物の信仰に抑制され続けた自我を、最後に、本物と戦って燃やし尽くしたいんです。ただ心のままに。
この子は最後に一瞬でも偽りなく生きて、そしてその灯が偽りになる前に死にたいのです。あなたはそれすら奪うのですか?この子はよく分かっていますよ。命の意味を」
「お前に何が分かる。空白の人生なんて言うな。そんなものはない。この子は死ぬには早すぎる。まだこれから出会うべきものが沢山ある」
堺は薄い笑みを浮かべた。「無いですよ。一体何があります?」
「何なんだ。お前は一体なんなんだ。俺に協力すると言ったろ。何故邪魔をする」
「私が協力するのはコピーの調査だけです。こんなことには協力しません」
「これも調査だ」
「どこかです?」
「この子が死んだらお前達も事件の検証が出来なくなる。違うか?コピーがこの子に与えた影響を検証出来なくなるぞ」
「そのために、その子を生かすのですか?」
「違う、そうは言っていない。だが、俺に協力する理由にはなるはずだ」
「なりませんよ。その子がいなくなっても検証は出来る」
「何が」と言ったその時、すぐに答えが閃光のように浮かんできた。そして唖然と口にした「キゴウのコピーを作ったのか?」
堺は頷いた。「えぇ、本人の許可も得ました。精神分析はその脳データを基に既に行われています。今後もそれがあれば事足りる。彼のPG効果は決勝に出ることだけです。それ以外、彼の意思は何もありません。父親のことなど一切思っていないのです」
「お前はコピーを失くすために、あんな実験をしていたんじゃないのか」
「いいえ、私はコピーに否定的ではありません。ただ検証をしていただけです。コピーは使い方次第では有用です。それはどう考ても明かでしょう?今回のように」
「いや意味がないさ。所詮はコピーだ。この子じゃない。そんなものじゃ、この子の事は測れない」
「あなたはそう思いたいでしょうが、残念ながらそうでもないのです。私の検証によるとね」
「お前等のしていることは、ただのお飯事だよ。人形を作って、それらしい芝居を付けてはしゃいでいるだけだ。それで何かを知った気になっている。所詮、ガキの遊びから抜け切れていない。世界の事を見ることも出来ず、小さい頭の中で下らない妄想をこねくり回してるだけだ。お前のしていることなんて無意味だ、試してやろうか」
「試す?」
「この子を父親に合わせる。試合に出るかどうかをその上で判断させよう。この子が父親にも無関心ならすぐここへ連れて帰ればいい。時間は間に合うはずだ。この子にもう一度、考える機会を与えるんだ」
「無駄ですよ。父親に合わせた所でどうなります?父親はその子を捨てたんですよ。互いに面倒な思いをするだけです」
「そんなことは分からない」
「分かりますよ。合わせた所で何も変わりません。あなたの願望を投影しないでください」
「俺の願望だって?」
「その子は父親にあった所で何も救われないし、父親も救われることはありません」
「だから、そんなことは分からないって言ってるんだ。俺の言っていることが分からないのか?それとも恐いのか?得意の計算が間違うかもしれないのが」
堺はため息をついた。「分かりましたよ。いいでしょう。それであなたが満足するなら」
俺はキゴウの背に手を当て声をかけた「キゴウ行こう」
「キゴウ、聞こえるか?キゴウを聞いてくれ。大事な話だ。お前の父親はゲームの中にはいない。もうゲームはやっていないよ。お前の父さんは今はもう別の生き方をしている。ゲームを止めて別の道を選んだ。キゴウ行ってみよう。会ってみよう。現実で、お前の本当の父親に」
「キゴウ、聞こえるか?キゴウ行ってみよう。お前の知らない生き方もある」
キゴウは相変わらず人形のように、何も反応しなかった。
エレベーターに乗って移動し、3との境界に降りた。
「木村さん、流石にその歳で人を負ぶっていくのは無理があるでしょう。これを使ってください」と堺からスーツを渡された。それを着てキゴウを負ぶった。筋力のアシストがされ重みを全く感じなかった。
「あまりエリア3でこういうのを使うのは良くないのだけどな」
「まぁ、誰が見ても分かりませんよ。誰に見られることもないと思いますが、浮椅子よりはいいでしょう。それと、時間がかかりすぎると困ります。早く戻らないと行けないので」
辺りはもう夜が深くなってきていた。森は黒く騒めく。ビー玉で小さいオレンジ色の光をつけた。
靴も履き替えて、歩行アシスト付きのものにした。そして、山の斜面をみるみる内に上がって行った。普通に上るより倍以上は早い。恐ろしいものだ。これだとあっという間についてしまうだろう。時間を稼いで帰れなくすることは出来なさそうだ。
キゴウは帽子を被っている。それで脳波を測定されている。何かあったらすぐに薬で治療するためだ。
川を交差するように昇って行き、すぐに鍾乳洞に着いた。洞窟の中に入った途端、キゴウの体重を感じるようになり、歩行アシストも切れた。アーミールエリアに入り、システムの力が干渉出来なくなったのだ。
「ここで待っていてくれ。俺が父親を連れてくる」
岩壁を背にしてキゴウを座らせた。その目にやはり焦点は宿っていなかった。この子を最初に見つけた時のことをふと思い出した。この子のゲームはあの時からずっと続いているのではないのだろうか。目を覚まずに。
キゴウの被っている帽子を取って、足の上に置いた。「すぐ帰って来る」
堺から借りたスーツと靴を脱ぎ、鍾乳洞から出て村に向かった。ヨハンの部屋の窓を叩いた。彼は起きていて、すぐに窓を開けた。
「ヨハン、鍾乳洞まで来てくれ。大事な話があるんだ」
鍾乳洞に戻った。キゴウは相変わらず元の場所に座っている。堺は湖の底の女神を眺めていた。
ヨハンが不審そうに聞いた。「話とは何ですか」
自分はキゴウを指し示した。「あの子が誰だか分かるか。あそこで座っている子だ」
ヨハンは少年を見てすぐ首を振った。「さぁ」
「近くで見てごらん」そう声をかけたがヨハンは動かなかった。彼はその場で「誰ですか」と問い返した。
「キゴウだ。あなたの子供だよ」
「キゴウ?何のことです」
「あなたがここに入る前に残してきた子供だろ。ムメイ」その名を呼ぶとヨハンの顔色が少し変わった。「よく顔を見てごらん」
ムメイは変わらず立ち尽くしていた。その背中をキゴウの方に押しやった。ムメイは一歩キゴウに近づき、つかの間、その子を見つめた。そして振り返った。
「知らない。私の子供はここで生まれた子だけです」
「いや違う。その子は紛れもなくあなたの子だよ」
「いえ違います」
ポケットから写真を出して、ムメイに渡した。「この人との子供だ。あなたとエジコさんとの子供だよ」
ムメイは首を振った。「分かりません。本当に」
「エジコさんはいなくなった。その子は今一人だ。一人で、病気と闘っている。誰にも助けを求めず、誰にも心の内を話さず、たった一人で痛みを抱え込んでいる」
石に寄りかかったキゴウは、首を傾け少し口を開けて空を覗いていた。
「触れてやってくれ。声をかけてやってくれ。せめて視界に入ってやってくれ」
ムメイは困惑した顔を浮かべ、子供に近寄ろうとはしなかった。俺はその腕を掴みキゴウの前に無理やり引きずり立たせた。
「私に子供なんていない。止めてください」ムメイは腕を振り払おうとした。しかし、その腕をより強く握りしめた。
「逃げるな。そんなことは許さない。よく目を見てみろ。お前の子だ。お前と同じ目をしてる」
ムメイは怯えるようにキゴウの目を見た。ムメイの目の先にキゴウの目があった。その視線は一瞬交錯しているようにも思えた。そしてムメイは首を振った「違う」
小さな笑い声がした。振り向くと「その人は本当に何も覚えていませんよ」と堺が言った。
「お前は黙ってろ」
「覚えている訳ないんですよ。消しているのだから」
「消している?」
「記憶を消したのだから憶えている訳ないのです」
「何を言っている」
「それ以上、彼を刺激しない方がいい」
その時、ムメイの腕が異様な力を持って動いた。掴んでいた腕が引きはがされそうなるのを、何とか両腕で抑えこんだ。すぐに気づいたが、その身体は逃げようとしているのではなかった。ただ強く痙攣していた。
「おいどうした」
ムメイの顔を見た。歯を食いしばり、異様な形相をしていた。それは彼の顔だが彼の顔とは思えなかった。そして、両目が次第に、それぞれ別々の方向へ傾いていく。
物凄い力で腕を引きはがされた。ムメイはその勢いで倒れこみ、地面に転がった。そして、のけ反り意味不明な言葉を叫んだ。まったく意味を成さない言葉の羅列だ。
俺咄嗟に飛びかかり、その身体を地面に押さえつけようとした。しかし、逆に強く弾き飛ばされた。岩に腰を打ち付け、肺の空気が無くなった。立ち上がろうとしたが、激痛が走り、筋肉が固まる。
意味不明な言葉をムメイは叫び続ける。その声色が次々に変化した。笑っているように、泣いているように、穏やかに、激しく、女のように高くなり、子供のように幼くなり、機械のように単調になり、次第に一音一音がランダムに入り混じる様になり、表情もコラージュのように切り替わった。
そして、次第に彼は息子の名を連呼するようになった。「キゴウ」「キゴウ」「キゴウ」「キゴウ」何故かその声を聞いていると無性に胸が痛んだ。止めたかったが、立てなかった。
堺がゆっくりとムメイに近づいていく。そして、その額に触れた。ムメイはふと大人しくなり、やがてダンゴ虫のように丸くなって固まった。
束の間の沈黙の後に「何だったんだ」と思わず聞いた。
「バグですよ。分かりませんか?」と堺が言った。
「バグだって?」
「えぇこの子はバグらせるんですよ。あなたもそう思っていたでしょう?それだけは正しいです。この子はね、そういう生まれなんですよ。拒絶です。強い拒絶です。それを示すとAIをバグらせる」
「バグらせる」呆然と繰り返した。堺の口からいとも簡単にそんな言葉が出たことがまだ信じられなかった。
「えぇ、その気は無くともね、そうなってしまうのです。あなたには分からないでしょうね。それが、この世界でどれだけ辛い事か」堺は地面の丸い石を拾って、それを湖に落とした。冷たい音が洞窟に反響した。そして、振り返った。
「私が隠してきたんですよ。私がずっとキゴウを守ってきた。ずっとね。小さい時から。石炭袋の中で会った時から」
「お前が」
「えぇ」
彼は遠くからキゴウを見下ろした。
「ほらね、ひどく傷ついている。この子を見てみなさい。傷つけただけですよ、あなたは」.
堺は厳しい表情でこちらを睨んだ。「あなたは人の領域に我が物顔で入り、踏み荒らしていく。自分の都合で人の意思を捻じ曲げて、傷つけていく」
「そんなつもりはない」
「でも、そうなっているでしょう。いつも」
「違う。お前に何が分かる」
「分かりますよ。あなたを治療したのは私です」
心は言い返そうとしたが、喉元で詰まった。返す言葉が見つからなかった。自分を見下ろす堺の顔をただ真に受けた。
「ほら、あなたも離れた方が良い」堺がムメイを示しながら言った。ムメイは小さくなりながら、まだ細かく震えている。そして音にならぬ声で何かを呟いている。
「キゴウはね、ずっとこんなものに囲まれて生きてきたのです。もういいでしょう。身近な者に裏切られ続け、それでも心のどこかで何かを探してこれまで生きてきた。でも、もういい。この世界でこの子の救いになる者はいない。この子に近寄ってくるのは裏切り傷つける者だけだ。そして、この子に出来るのは壊すことだけ。この子はね、この世界では、存在した時から不幸が決まっているのです。一生を終えるまでね」堺は寂しそうに言った。
冷たい水の流れがまた聞こえるようになった。それに伴い鍾乳洞の空気の冷たさを思い出した。堺もそうだったのか、一つ白い息をついて肩を竦める。
「さぁ、もういいでしょう。戻りましょう」彼はそう言うとキゴウに歩み寄った。
「待て」と言った。堺は面倒臭そうに振り返った。
「やはりあの時のコピーはバグだったんだな。お前は、バグの存在を知っていて黙っていたんだ」
「えぇ、何もコピーだけがバグるのではないですよ。その子はシステムそのものをバグらせられるんです」
「何故それを隠した」
「この子を守るためですよ。システムを越える力のある人間は、その可能性を排除されてしまう。過去にいたのです。力を奪われ、ただの人形になった人がね」
「お前もまたシステムを欺ける力を持っているのか」
「えぇ」
「お前は一体何者なんだ?」
堺は薄く笑って答えなかった。
「お前のその力ならこの子を救えるんじゃないのか」
「えぇ、救ってきました。この子の思う通りに生かしてきましたよ」
「やめろよ、ふざけるな」
「何がです?」
「この子が苦しむ姿を見て来たのだろう。分かっていながら何故止めなかった。何故、別の道に導かなかった」
「どこに導くというのです?」
「コピーとゲームが無ければ、キゴウはここまで苦しまなかった。お前らが苦しみの元凶じゃないか。俺が気づかないとでも思ったのか。お前はコピーの発明者とも、あのゲームクリエイターとも繋がっている。コピーを作る時の記憶再現も、杉浦がやったキゴウへのテストも、全てあのゲームのイメージクリエイトを使っている。そして、お前らは皆、俺の事を知っているように話す。見透かすように話した。実際知っているんだろう。俺の事を。俺の情報を、お前が奴らに流していたんだ」
堺はやはり薄く笑っている。
「お前らは繋がっている。いや、違う。お前らは同じ。同じだったんだ。お前らは、コピーだ。いや、アイツ等はお前のコピーだったんだ」
「何を言ってるのですか。人間でないと精神鑑定を主導できない、人間でないとコピーの作成を指示できない。それにGCは精神分析の時に人間であると判定されたでしょう」
「システムを欺けるんだ。今更そんなことは関係ない。分かるよ。お前等はな、笑い方が一緒だ。そして、怒っている時も、顔が一緒なんだよ」
堺は一瞬止まって、妙な笑みを浮かべた。それは、珍しく心の底からおかしくてしょうがないと言った顔だった。
「違いますよ。色々とね。何から話せばいいでしょう。そうですね。まず、コピーとゲームが無ければ、キゴウは今日まで生きてこれなかった。親に捨てられたこの子を育てたのはコピーです。そしてコピーを失い、全てに捨てられ、誰もいない孤独を癒したのはゲームです。それが無ければね、この子はもう随分前に自ら死を選んでいる。その景色も私は見ている」
「違う。ゲームもコピーも所詮は現実逃避だ。そんな偽物ではなく、現実にいる誰かが手を差し伸べていれば。誰かが単純に手を伸ばしていれば変わっていたんだ。お前らはその機会を奪っている。人と人が繋がる機会を。偽物のハリボテを社会に蔓延させて、命の繋がりを失くしているんだ」
「まるでこの子の人生が間違いだったかのようにいいますね」
「そんなこと言ってないだろ」怒りが叫びになって響いた。「この子がAIをバグらせるのなら、ここで生きていけばいい。アーミールエリアだったら、そんな力は関係なくなるはずだ」
「今さっき起こったことすら忘れましたか。そこのバグが見えませんか?」堺は言う。
「ムメイはコピーだったかもしれない。しかし、そうじゃない人間達がいる」
「父親も失くし、何のためにここで暮らすのです。そんなことはこの子が望んでいないですよ」
「今は望んでいなくても、それで良かったと思える時がくる」
「あなたは分かっていない。今が辛い人間にとっては今が全てだ。これまで生きてきた世界が全てだ。それを簡単に否定して、未来に良い事があるから生きろと言う。どれだけ残酷なことを言っているか分かりませんか?未来なんて物こそ都合のいいに妄想に過ぎない。それこそね、嘘で現在を塗り固めているだけなんです」
「違う。生きている限り、辛い事や過ちがあるのは当然なんだ。だけど未来に希望を持って今を耐えることは嘘でも何でもない。今自分に見える世界なんてものはちっぽけなものだ。この子が知っている世界なんてね、本当に小さなものだよ。世界はもっと広い、限りなく広い。何十年生きても、俺にはまだ先が見えない。今が辛くて出口のない、何も良いことのない絶望の世界に思えても、必死に耐えて、地を這って生きていれば、その外に世界にきっと出会える。出会えるんだ。お前等は、偽物は、それを奪っている。奪っているんだ。人間からその足を奪うな。その目を奪うな」
堺は笑い出した。
「何を笑っている」
「いや、耐えきれないですよ」堺は息を吐いて笑いを収めようとした。しかし、まだ少しだけ、声の笑みは残っていた。「偽物ですか?貴方がそれを言いますか?笑わせないでください」しかし、その目は笑っていなかった。目には激しい嫌悪の色があった。「嘘に目を逸らしているのは貴方じゃないですか。偽物は貴方でしょう。自分の都合で人の人生に手を下しているのは貴方でしょう?可能性を奪っているのは貴方でしょう?貴方の言葉は全てあなたに振り返る言葉だ。貴方が私にそんなことを話しても滑稽ですよ。私は本当の貴方を知っているのですから。何度も言いますが、あなたの治療をしたのは私です」堺は薄く微笑む。「あなたの性で、あなたの子供と、あなたの奥さんは亡くなった。そして、あなたは私の所にきた。その私とは、この私ではない。あなたが助けを求めたのはこの私だ」
堺の顔が溶けて別の者に変わっていく。次第に現れるのは、コピーを開発した男の顔だった。
「偽物になり、その記憶をごまかして、貴方はのうのうと生きている。そして、同じことを繰り返している」
「違う」
「嘘をついているのはあなたではないですか?偽物に逃げたのは貴方ではないですか」
「違う」
「偽物はあなただ」
男はゆっくりと腕を上げた。その指先に光が灯っていた。
「やめろ」
「この期に及んでまだ逃げている、一番大事な記憶から。一体いつまで逃げるんです?あなたの好きな、真実から」
目の前が暗くなり、血が逆流するように頭が痛みだした。記憶の中の、さらに深い記憶へ堕ちていく。




