5章 長き眠りから覚める
5章 長き眠りから覚める
円が広がり弾けて消え、また広がりまた弾けて消える。輪郭を水色に滲ませて、幾つもぼやぼやとそれは繰り返された。アメーバのように分裂し生まれては消えていく泡。
ふとそれを見ているのだということを思い出した。
言葉を思い出すのには時間がかかった。ぼんやりと映像が浮かぶだけの無の領域で、意味のない風景に名前を付ける作業は意識をすることすら本来はない。
それゆえに言葉を思い出すということは一種の奇跡か、幻だったのかもしれない。
天井を這う泡と液体。弾けずに残された泡は水面を揺らしながら視覚の届かぬ先へと消えていく。
違和感を感じるがその所以は分からない。ただその感覚自体は覚えている。よくあることだ。夢の中では当たり前のことが分からなくなり、起きたことのない記憶でも経験したことがあるように感じる。 眠りと目覚めの隙間、そこでは記憶が混じり倒錯し混乱する。自分がそこにいるということには気がついた。
何かに心臓が押しつぶされるような不安。何故かは分からないが、いつもそこにはそれが取り巻く。
ただいつもと同じであれば、この時間はすぐ終わるはずであった。今回はどうも長すぎる。本当に終わるのだろうか。そもそも終わるというこの思い込みはなんだ。記憶無き記憶は何だ。果たしてそんな時がいつあった。
何かが変わる気配を感じられず、取り囲む未知が重くなってくる。意識が狭い箱の中に閉じ込められ、逃げ場がなくなっていくのを感じる。
反射。
言葉がまたどこからか思い出される。思い出した途端それは現実になり、存在になる。自分を映すもの。反射。それがあれば何か変わる。自分を映す。反射する。光を反射する。水。水は反射する。この顔を映すはず。その事実を思い出せば、たとえ夢の中でも水は自分を映すだろう。
曖昧な者は曖昧な天井の流れに目を凝らす。流れの中にわずかにシルエットが見えるがその輪郭は定まらない。見えてもおかしくないはずなのに見えない。というよりいくら見ようとしても、一向に意識が定まらない。
そこで今度は音の存在を思い出す。そして、それが辺りを支配していることに気付く。気づけば事実となる。逆巻く轟音。全てかき消すほどに呻る音。耳鳴りを伴い、高音が意識を貫通するように刺激する。
その中に穏やかな音が混じっている。風と耳鳴りの間に、何か懐かしい音が。その安らぎへ、他のものが入らぬように、意識を集めて小さくしていく。
「安定してきましたね」と音は響く。これは意味を成す音だ。
「分かりますか」その意味がこちらに向けられていることに気付く。
何かを返さなくては、しかし、どうやって。
当たり前のことが分からなくなっている。気づいてほしい。こちらは当たり前のことが分からなくなっている。返事ができない。返事の仕方が分からない。そちらの意味にこちらは気づいている。ただ返し方が分からない。そのことに、そちらは気づいているか?
「大丈夫ですよ」と声は波打つ。
大丈夫。音はうねり形はぼやけているが、焦りは消えていった。大丈夫らしい。
流れが少しづつ収まっていく。やがて波が平面に近づき光が正確に目の前のものを映し出すだろう。
心のどこかで、もうそれ以上先を見たくはなくなっている。そう、いつも嫌なことが起こる。
眠りと目覚めの隙間、その間の予感はいつも悪いものへと続く。ただ引き返すことはできない。今目をつむるといことも覚えているけど、忘れているから。
水面は止まり自らの姿を映した。同時に記憶は目覚め、はっきりと絶望を思い出していた。




