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 子を抱き、少し掲げながら、教主は皆の前で恥ずかし気も無くまた泣いた。子はマリアと名付けられた。

 夕食の後、多くの言葉が交わされた。そこ声達からは、これまでの濁った重みが薄れ、どこか伸びやかな明るい響きがあった。マリアはよく触られ、撫でられ、つままれた。彼女はそれでも泣きもせず、ジッと触れてくる人間達を眺めていた。

 久しぶりに、この村の空気が息をしているように感じた。いつか忘れていた屈託のない笑顔を村人達は赤子には見せた。

 教主はマリアを溺愛した。ことあるごとに膝に乗せて何かを語り聞かせた。子供の障害が明らかになっても、それは変わらなかった。

 マリアは5年が過ぎても言葉を覚えず、表情も覚えず、ジッと無表情に人間を見据えるだけだった。医者が言うには脳に障害があるという。しかし、教主は動じなかった。

「それも、また与えられたものだろう。不必要なものが取り除かれたのだ」と彼は言った。「言葉なんて必要がないのだ。この子には」

 他の村人たちは、以前のようには子供には接しない。時に不気味がることもある。ただ、大抵の時は愛された。むしろマリアは話さないからこそ、良く愛されたのかも知れない。マリア無害だった。彼女は空気のようにそこにいるだけだった。

 少し大きくなると、私は時折子供と畑仕事に出た。子は小さい体で黙々と働いた。延々と続く同じ繰り返しを、私達は何も話さずただこなした。何年も。

 彼女が私に声を発したことは当然ない。意思表示をしたこともない。私も仕事の用以外で彼女に話しかけたことは無い。ただ、共に仕事をこなし、共に風呂に入り、共に祈り、共に食べ、共に眠った。

 マリアは何時までも、自らの子だとは思えなかった。それが何者か分からなかった。しかし、それでも良かった。彼女は私にとっても無害だった。だから一緒にいることは苦では無かった。時に彼女に触れると、確かにその温もりだけは感じた。

 主は二人目を望み、普段は妻の部屋にいる子供を金曜日だけ預かった。しかし、二人目は出来なかった。

 

 マリアが次第に成長していくと同時に、もう一つの大きな変化が進行していた。咲いていく者があれば潰えていく者もある。誰もが最初はそれとなく見ないふりをしていたが、次第にそれはごまかせない所まで来ていた。教主の妻であるアルマがおかしくなっていた。

 食事を作りすぎる。作り忘れる。皆が集まる時間に来ない。最初はその程度の可愛い物だった。しかし、祈りを忘れ、自分の部屋も忘れる。村の人間の名前も忘れる。次第に症状は悪化し仕事を任せられる状態ではなくなった。笑って失敗をごまかしていたアルマは気づくといつの間にかその表情をも失っていた。彼女は笑わうことも、話すことも無くなり、いつも無表情で徘徊するようになっていた。

 ある日、アルマは森に入って行方不明になった。皆で探し回ったが見つからず、丸一日が経ち、諦めかけた頃にマリアが彼女を連れて戻ってきた。どこにいたのかは分からない。

 その時も教主は子供のように泣いた。それ以来、教主はアルマをなるべく部屋から出さないようにした。そして何をするにも付き添った。アルマは何一つ自分一人では出来なくなっていた。

 顔を変えず、ただ付き添う教主に動かされる。はたから見るとそれはただの動く人形だった。彼女に表情があった時どんな顔をしていたか、思い出せなくなった。しかし、時折教主は言った。

「嬉しそうにしているね。アルマ」

「笑っているなアルマ」

 アルマの表情は何も変わっていない。そう言う教主が満たされたように笑っている。嬉しそうにはしゃいでいる。

「何が悲しい」と教主が彼女に聞く時、悲しそうにしているのは教主だった。私にはまるで教主が寂しい人形遊びをしているように思えた。 

 

 ある日、教主とパウロがアルマをつれて村を降りた。医者に見せるのだという。誰もが無駄だと思ったが口には出さなかった。二週間たっても彼等は戻らなかった。私達はどこかで、彼等は死んだのではないかと思い始めた。

 冬、雪がちらつき始めた。それと時を同じくして教主達は帰ってきた。彼らは憔悴しきっていた。

 雪は降り積もった。深々と降る雪に音は飲み込まれ、この集落は一層静けさに包まれた。それは、異様な静けさだった。そして、異様な寒さだった。


 その深夜、目が開いた。何かが扉を叩いたような気がした。窓の外、空はまだ雪と雲に閉ざされている。部屋の扉を開けた。廊下に闇だけが広がっていた。灯を炊いて外に出た。

 風が流れている。その流れの先に、何かが待っているような気がした。

 わずかに聞こえるような、聞こえないような音が。

 わずかに見えるような、見えないような影が。

 その痕跡を辿って歩いた。それは教主の部屋まで続いていた。そして、その扉はわずかに開いていた。中を覗いた。

 教主が座っていた。呆然と、虚空を見るようにして。その顔に生気は無かった。ただ苦しそうな息遣いが彼の喉元でなっていた。目を開けて眠っているのだろうか。しばらく眺めていた。

 ふと、その顔がこちらを向き、その目が私を覗いた。

「恐ろしい夢を見たよ。おいで」

 私は静かに部屋に入り、彼の前にひざまついた。彼は私の頭に手を置いた。

「神は常に人を試し、人は常に裏切ってきた。その結果が今だよ。人は知恵の実を漁り続け、存在を虚無へばかり繋いでいく。虚無へ向かって何かを得ようとした。いや、何かを得ようとすることが虚無なのかもしれない。何を得ずとも、必要なものは神が与えてくださっている」

 彼を私に頭を上げるように言う。

「アダムとイブは蛇の囁きで知恵の実を食べ楽園を追放された。お前は何故、人は神という絶対的なものに与えられながら、彼らが悪魔の囁きを信じたと思う」

「知恵を持たぬ人間は悪魔を疑うことも出来なかったからでしょうか」

 主は首を振った。

「お前は神を信じていない。知恵を信じている。やはり悪魔に捕らわれているのだ。知恵の迷路に捕らわれている。その行く先は無い。知恵の迷路に出口はない。虚無だ。そして虚無の上に重ねられるものは全て虚無だよ」

 教主の肩は少し震るえていた。興奮を抑えるように。

「私は罪の連鎖を止めなければならない。悪魔を止めなければ」

 狭くしぼんだ喉を通るかのように息苦しく、教主の声はしわがれ乾いていた。そして、頭に乗っていた手が剥がれた。

 教主は窓の外を呆然と見た。私は無言で立ち去り扉を閉めた。

 雪は長く降り続いた。長く、深く、降り続いた。眠らずにそれを眺めていた。


 翌朝、朝食にアルマの姿が無かった。私が部屋を見に行ったが見当たらない。

 皆がアルマを探したが、彼女は一日中たっても見つからなかった。もし、アルマがこの雪の中外に出たのだとすれば、もう生きてはいないだろうというと誰もが思った。皆の空気は重かった。

 教主は悲痛な顔で沈黙していた。パウロは怯えていた。彼はその夜、彼女の部屋の鍵を閉め忘れたのだ。

 他の人間は険しい顔を浮かべ、その内でおそらく悲しみ、そしてどこかで安堵している。雪の中で枯渇していた食料がこれで少し楽になる。そしてあの辛い姿を、もう見ることもなくなる。私は、この村に来た時に、彼女に案内された時のことを何となく思い出していた。


 雪は、長く、深く、降り続いた。深夜、時折、木々が裂けるような音がした。私はよくその音で目を覚ました。そしてまた、閉ざされた雪の中で一人死んだ。パウロだった。

 どこで彼が見つかったのか。私は知らない。彼が何故死んだのかもよく分からなかった。 私が起きた時には、パウロにはもう火をくべられる準備がされていた。それをマリアが行っていた。そして、教主が眺めていた。

 人々が集まってきても沈黙が支配していた。それが絶対のルールかのように。どういうわけか、誰も声を出さなかった。祈りの時以外は。

 パウロはすぐに燃やされてしまった。そうして村一番の働き手がいなくなった。

 一週間が過ぎた。雪はまだ続いている。村の人間は衰弱してきた。異常な雪がいつまで続くのか。このまま、この石の中に埋められてしまうのか。そんな気になってくる。皆何も話さず怯えていて、そして何かを諦めていて投げやりだった。

 

 その夜はまた眠っていなかった。音が全て雪の中に生まれて、自らの鼓動の音すら聞こえるほど静かだった。耳を澄ませて暗がりの中でそれを聞いていた。ふと何か別のの音が聞こえる。衣が擦れる、スゥスゥという音だ。それは廊下でなっているようで、徐々にこちらに近づいてくる。

 扉が開く音がした。目を開けると教主が枕元に立っていた。

「起きているか」と教主は聞いた。自分は頷いた。

「神の啓示を受けた」教主が言う。目が異様に光っているように見える。「あの子の相手を探しに行こう」彼は私の肩に静かに触れた。

「ここはもう悪魔に捕らわれている。早く逃げださなければ駄目だ。アンリと、マリアだけ連れてきなさい。後の者を起こしてはダメだ。悪魔に気付かれる」

 私は立ち上がり窓外を見る。雪は止んでいた。

「気を付けろ。静かに、息を殺すのだ。忘れてはならない。ここは悪魔に囚われている。闇に眼をこらすな。迷うことになる。ただ目的だけをはっきりと意識して動くのだ」

 私は妻と子を起こし、そして、教主と共にホームから出た。

 まだ、深い雪の中、教主と私達家族は歩いた。何もかもよく理解できぬままに。かんじきを履いていても足はかなり雪に沈んだ。

 そして行く宛など無かった。ただ、何かに憑りつかれるように私達は歩いた。こんな状態で山の中を行くのは無謀だどは分かっていたが、何も言わなかった。ただ、漠然と歩いた。手に持つ目前の灯を目指して歩いた。そうしてこのまま死ぬだろうと何となく思っていた。

 救いは途中で日が差したことだった。木々の隙間から、うっすらとしたものだったが、身体が温まるような気がした。その後は、ほとんど意識がない。

 医者の所に着いたのは果たして何時間後だったのだろうか。私達はそこに倒れこんだ。


 暫くして目覚めると、他の三人はまだ眠り続けていた。自分もほぼ丸一日眠っていたらしい。医者と私は話をした。事情を説明すると「ここではアーミールの暮らしをしていない。ここに来られても困る」と医者は言った。「ここにある食い物は、街から仕入れてきたものだ。長居は出来んぞ。アーミールの食える物はほとんどない」

 翌日医者は一人の男を連れてきた。老人と言ってもいい皺だらけの顔をしているが体躯は力強くがっしりしていた。すっかり頭を丸めていて、目つきに鋭さがあったが話をしていると、軟らかさもあった。

 その木村という男とは以前どこかであったことがある。思い返してみると、マリアが生まれた時に病室に挨拶をしにきた男だった。その時、教主の古い知り合いだと言っていた。

 木村は別のアーミールの集落を知っているという。といっても、まだ少数の男女が生活し始めただけらしいが。

「希望の芽だ」教主はベッドの上からそう言った。

 教主と妻は回復するまで時間を要した。一週間待って彼等が回復した頃に木村に連れられてその集落に向かった。

 そこは、歪な場所だった。以前、神社として使われていた場所にアーミールが住み込んだらしい。数本並ぶ鳥居を潜ると、黒の石を綺麗にマス目上に敷き詰めた道があり、所々に石像が立っている。そうして、もう少し進み、開けた平野に入ると茅屋根の木造の家が数件並んでいた。

 そこには、驚いた事に私達が住んでいた村から逃げ出した男がいた。私と同じ日に洗礼を受けた男の内の一人だ。彼は教主の前に跪き、教主は彼を抱きしめてそれを許した。

 そして、教主はその村の父となった。その村には夫婦三組と三人の子がいた。一番幼い子供の名前はヴィゴと言った。

 新しい村の暮らしの中で、教主は少しづつ生命力を取り戻していった。姿は変わりがないが、その声や仕草にはどこか私が村に入ったばかり頃のような威厳が戻ってきていた。

「死の淵を経て、また希望を見ることが出来るようになった」と彼は言う。「死の淵で神の啓示を聞いたのだ」しかし、その内容について彼が話すことはなかった。

 教主は以前と比べて積極的に外の人間を受け入れるようになっていた。

 私達は木村と家を四件建てた。それは大変な作業だった。そして私は時折、木村や村の男とスクラップ地帯におりて、神の救いを求める人間を村に呼び寄せた。

 マリアは14歳になると儀式に出された。村外の男や、村の男と交わった。

 マリアやヴィゴは外から人間を連れて来るための餌になっていた。アーミールの若い人間は、その手の趣向を持つ人間達から非常に愛された。

 教主はそれを自然なことだと言った。人はそうすることで種を守ってきたのだと。娘は妊娠した。父親は分からない。

 同時に木村が一人の赤子を連れてきた。教主はその子にマルセロと名付けた。


 ある日、金曜の夜、いつもと同じように私は妻と寝ようとした。すると妻が「もう終わりにしたい」と言った。その後続けて彼女は「大丈夫?」と聞いた。

「あぁ、大丈夫だよ」

「ありがとう」

「あぁ」

 そうして、私と妻の義務は終わった。私はその時ひどく気が楽になった。妻の頭を撫でた。しわがれた手の甲が見える。自分の肉体も気づくとすっかり老いていた。

 そうして、眠った。

 

 暗がりの中に若い時の自分が立っている。そして、それが真っすぐこちらを見据えてこう言う。

「父さん、何故いなくなったのですか」

 不思議に思ってその顔よく見ると、少し自分とは違うようだった。

「何のことだ」

「私の事を覚えていますか」

「分からない。覚えていない」

「私はあなたがゲームの世界で産んだ子です」

「そうか」記憶を消去でもしたのか全く分からなかった。

 しかし今自分はゲームにログインしているのだろうか。それとも何か夢を見ているのだろうか。それとも、見ていたのだろうか。

「父さん、そちらの世界はどんな世界ですか」と彼は言った。

「俺にもよく分からない」

「私に見せてくれませんか」その神経質な顔が言う。「一度でも、本物の世界と言うものを見てみたいのです」

 私は少し返事に参った。

「そうしてやりたいが、どうすればいい?」

「私のデータを、そちらの何かの入れ物に迎えてくれれば」

「そうか」と私は言った。そして、少し思案したが、村の者に隠して何かするのも面倒が起きそうだという気持ちが強くなっていった。そして、私は目を伏せて言った。

「すまないが、あなたにとって私は父かもしれないが、私にとってあなたはただのキャラクターなんだ」

 しばし沈黙が流れた。

 視線を上げた。その子は寂しそうに笑っていた。

「そうですよね。すみません、父さん」


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