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トタンの家に案内された。そこは、薄暗く、かび臭く、湿っぽかった。
「嵐が来るそうだ。お前はちょっと休んでろ」と言って木村は外に出て、窓に木材を打ち付けていった。それでますます、部屋の中は影に閉ざされた。次第には全て閉じて、暗闇の中で、トントンとくぎを打ち込む音が響いていた。
扉が開くと「あぁ悪いな」と木村は笑ってランタンに火をつけた。オレンジの明かりが机の上から部屋を灯した。
木村はカセットのガスコンロを持ってきて火をつけた。「この間拾って来たのさ。夏は囲炉裏をつけたくないからな」
そこに鍋を置いて茶を沸かす間に木村は濡れた服を着替えた。
湯が沸騰するとコップに注いで杉浦の前にも置いた。そしてようやく落ち着いて椅子に腰かけた。
「すみません、手伝いもせず」
「いや、いいさ」
木村は湯気の出ている茶をすすった。そうして一息つき、しばし何か考えるように目を伏せて黙然とした後、鼻から小さく息を吐いて「それで、どうしたんだ?」と聞いた。
茶に手を付けず呆然と座っていたが、その声で彼に打ち明ける用意が出来た。
「実は気になることがあるのです」
「気になる事?」
「私の妻がコピーであるかもしれません」
木村は眉を潜め真剣な顔になった。自分は間を取らず続けた。
「それは自体は大きな問題ではないのですが、気になる事というのは、それに自分が気づいた時の、その挙動です」
「挙動、どんな」
「無反応でした、全てに対して。呼吸はしていましたがそれ以外には何も。目は正面に向いているだけで何も見ていないようでした。そして小さく何かを呟いているようでした。声は聞こえず唇だけが動いていましたが、おそらく、「どうして」と言っていたのだと思います。その後、それも無くなって、ただ固まっていました」
木村は姿勢を少し前傾で硬直させて話を聞いていた。言葉の裏まで見逃さぬような彼の眼光の鋭さを改めて思い出した。
「入院させて、医者が言うには、脳に異常もなく、その挙動は思考の問題だと言います。つまり意識的に妻はそうしていたと。妻は精神治療を受けました。思考矯正に近いことをしたのでしょう」そこで話を切り、木村の反応を促した。
「そうか」と木村は一旦視線を外して、ため息をつくように漏らした。その息にはどこか同情の響きが宿っていた。木村にとってみればこれはそういう話なのだろう。木村はそれ以外何かを話す気配がまだ無かった。
「覚えていますか木村さん。もう10年くらい前になりますが、私が少年をVRシュミレート検査した時のことです」
「それはよく覚えているさ」
「私は、正直な所、覚えていないのです。それをしたという事実以外は。以前、木村さんは私に言いました。二回目の、抽象度を上げて状況再現をした時、私が何かを見たと」
「あぁ、そうだ」
「私は何を見たのでしょうか?」
「それは俺にも分からない。ただ、お前は何かを見ていた。そうとしか思えないような顔をしていたんだよ」
「私は、どういうわけか、何故か今、妙にそれが引っかかるのです。あの時、私は何かを見た。何も覚えていませんが、その何かが、何でしょう、違和感がまとわりついているのです。今になって」
「やはりそうだったんだ」と木村は自分の中だけで何か解決するように言った。
「一体何がです?」
しかし、木村は小さく首を振って答えなかった。「何がです」と自分は重ねて聞いた。しかし、彼は何も答えない。それは平常の彼にあるまじきた釈然としない行為だった。
唐突に強い雨が降り出して、壁を叩きだした。すぐに暴風がとめどなくなって、トタンがガタガタ弾ける、そして剥がれていくような軋む音もした。所々で雨漏りもしだした。
木村は席を立つと、「甘かったな」と言って、また先ほどの服に着替えて外に出た。やがて、トタンの剥がれそうな軋む音だけはしなくなった。木村はびしょ濡れになって戻ってきた。そして今度は部屋の隅の雨漏りを内側から板を継いで補強した。天井の穴も塞いだ。木村は椅子に乗って天井を打ち付けた。自分はその椅子を支えていた。
その時、ランタンの火がふと消えた。木村は闇の中を動いて、マッチを引っ張り出した。オレンジの小さい火がともって、その後大きい火がランタンに灯った。
「思ったより酷いな。これはここも浸かるかもしれない」木村はランタンを机に置いてそう言った。
影に入ると木村の皺の筋は一層深くなって見えた。瞼は厚ぼったく垂れて目の下に大きい影を作る。こうして見ると、瞳に昔のような力はない。当時より頬がこけて、しかし肉は垂れて輪郭が緩んでいる。木村はもう随分と老けた。以前のような熱気はどこか薄れていた。
木村はため息をついてこちらを見た。
「杉浦、ここでは何かを得るためには対価がいる。お前の聞きたがっていることを話してやろう。しかし、その前に俺の手伝いをしろ。いいか」
「何をするのです」
「それは言わない」
「分かりました」
「よし、じゃあまず二階に運べるものは二階に運ぶぞ。その後、外に出る」
「分かりました」
外に出るまでそれほど時間は要さなかった。木村の家にはそもそも物が少ない。
扉が開くと強く風が入り込み冷たい風が瞬時に腕ではねた。もの凄い勢いで雨が吹きすさんでいる。囂々とうねりの音が木霊した。川の水が小屋の近くまで上がってきていた。
「行くぞ」と木村の叫び声がうねりの中で僅かに聞こえた。そして、自分は木村の背中について行った。
明かりが消え、そして空が雲に閉ざされた闇の中を、木村が肩にかけたライトを頼りに歩いた。強い横殴りの雨で目を開くのもやっとだった。狭い視界の中、足元を泥に取られながら何とか歩いた。
途中から、その泥は深くなり、茫々と生えている草の間の獣道を歩き始めた。肩まで伸びた草が皮膚に張り付き肌は冷たくなった。呼吸は浅く苦しかったが、先をいく木村に離されてはまずいとほとんど無我夢中で歩いた。
草と雲で閉ざされた闇に、時折、雷光が落ちて、先を照らした。そこには山のシルエットがあった。まさか、木村はあそこに行こうというのだろうか。それは自然に詳しくない自分でも非常に危険な振る舞いだと分かる。
山の木々の下に入ると、雨粒は殆ど届かなくなり、音も少しは静かになった。そこで、少し気が楽になって自分の荒い呼吸の音もようやく聞こえた。しかし湿った斜面を進むのはこれまでよりはるかに困難で、それに山の中は暗すぎた。自分は何度も滑り落ちて転んだ。
「なるべく早く進もう。土砂崩れが怖い」
木村の言葉には返事をする以前に判断することもしなかった。とにかく足元に視線を落として何とか歩いた。体は冷たくなっていく一方で、頭は熱く、随分と長い時間歩いた。
斜面は少しづつ緩やかになり、やがてほとんど平らになった。地も慣らされて踏みやすくなってきた。気づけば整地されたところを歩いていた。
ふと顔を開けた。
斜面はもう少しで終えた。そして、木々が開けた明るい場所に出た。振り返ると眼下で暗い木々たちが風に大きくなびいていた。
「ここまでくれば大丈夫だ」と木村が言った。自分にも妙な達成感が芽生えた。
そこには、鳥居と、石造りの建物が数件ならんでいた。
マス目に区切られた石の道を進み、並ぶ石造の間を通り、数件家が並んだ集落に入った。木村はそこの一番手前にある建物の扉を叩いた。
「俺だ」と木村が叫ぶと扉が開き、自分は木村に引っ張られるようにして中に入った。扉が閉まり風の音が遠くなる。
部屋の中で、子供が3人、自分のことを不思議な目で見上げていた。
「大丈夫か」と木村は子供達に聞いた。
「さっきまで、ペトロは泣いてたよ」と2番目に小さい子が言った。確かに一番小さい子は目から頬が真っ赤に紅潮していた。そして、その肩に手をかけている背の高い青年は返事をせず、ジッと自分の様子を探っているように見えた。
「大丈夫か」と今度、木村はこちらを振り返って聞いた。
「えぇ」と自分は頷いた。
木村は背負っていた荷物を置いた。そして雨具を脱いでいった。
背の高い子が部屋の奥に向かい、ペトロと呼ばれた小さい子はそのすぐ後について行った。真ん中の子は興味深そうに、自分の近くにいた。
「あんた誰?」
「これから話す。マルセロ、何か拭くものないか。忘れてきた」と木村が代わりに答えた。
「あぁ」といってその少年はボロ布のようなものを木村に投げた。
木村は裸になりそれで体をふいた。その後、カバンの中を漁り、服を着替えた。
「杉浦、何ボケっとしてる」と木村に言われ自分も雨具を脱いだ。しかし、あまり意味はなく、その下の服もずぶぬれだった。
「何してる」と再度言われ結局、全て服を脱いだ。木村が浸かっていたぼろ布を渡され、それで仕方なく体を拭いた。体は冷たく、その不潔な布でこすると時折痛んだ。見ると、至る所に小さな傷が出来ていた。特に足は、泥と血が入り混じっていた。
大きい子が桶にお湯を沸かして、持ってきた。それを自分の脇に置いた。何のことか分からなかったが、木村が「それにつけて、体を洗え」と言った。自分は意を介して、そのお湯に腕を付けて、掌で体を拭いた。血と泥が解けて流れて言って、固まっていた、体の緊張がほんのわずかだが、ほぐれたような気もした。
「これを着ろ」と木村のシャツとズボンを渡された。体は湿っていたが、乾きそうも無かったので、仕方なくそのまま羽織った。
「ヴィゴ」と木村が言うと大きい子が木村に寄ってきた。木村はカバンから出したパンをその子に渡した。その子はそれを受け取るとまた部屋の奥に言った。ペトロはそれにつきっきりで、隠れるようにして、こちらの様子を逐一伺っていた。
「ねぇ、どうせ来るなら、酷くなる前に来ればよかったのに」とマルセロが甲高い声で木村に言った。
「その時に来てたら追い返されてるさ」と木村は突っぱねた。
「ねぇ、そもそも、こんな時にくることないんだよ。別に大丈夫だったんだからね」というマルセロの口調は妙にませて芝居かかっている。話しながらこちらチラチラと見ては気にしている。机に向かう木村の背後でせわしく彼は動いていた。
「あぁ、別に来るつもりも無かったんだけどな。急ぎの用事が出来てな」と言いながら木村は椅子に腰かけた。
「何の用だ」と横から声がした。ヴィゴは盆に先ほど木村が持ってきたパンを切って机に並べた。
「あぁ、食いながら話そう」と木村が言った。
その後、ヴィゴが木製のボウルにミルクを入れて持ってきた。ボウルが足りないのか、自分と杉浦に一つずつ置いて、子供3人は一つのコップを共有した。
「俺は食ってきた。お前ら食え」と木村はミルクを飲みながら言った。自分もパンには手を付けなかった。
マルセロは構いなく食いついて、しゃぶるように食べた。ペトロは怯えていたが、そのマルセロの姿を見て、元気づいたように食べた。しばらくするとヴィゴも手を付けた。その間も風の音はしきりに響いていたが、木村のトタン家よりは大分頑強そうでそこまで音が届かず静かではあった。
「様子はどうだ。ヴィゴ」と木村が聞いた。
「変わりないよ」
「そうか。マルセロ、肘をつくなよ」
木村に指摘されて、マルセロはへッと逆に両肘をついてだらしなくしたが、その後結局ひっこめた。
子供たちの食事のペースが落ち着いたのを見て、木村はまた口を開いた。
「彼は杉浦だ。杉浦。そういえばお前下の名前なんていうんだ?」
「ケイタです」
「そうか。知らんかったな」と木村はつかの間頬を緩めて「杉浦ケイタだ」と子供たちに紹介した。
「変な名前」とすぐにマルセロが反応した。「よう、ケイタ」
「俺達からするとお前らのほうが変な名前なんだよ」と言った後、木村は手で示しながら子供たちを自分に紹介した。
「この生意気がマルセロ、5歳か?」「6だよバーカ」「6らしい。見ての通り馬鹿だ。で、このチビがペトロ、ペトロ何歳になった?」「3だよ」「お前に聞いてねぇマルセロ」ヴィゴがペトロの頭を撫でると、ペトロは指を二つ立てて「みっつ」と言った。「えらいな、ペトロ。でも、三はこうだ」と言って木村は身を乗り出してもう一つ折りたたまれているヨハンの小さな指を立てた。「みっつ」と繰り返しペトロが言うと、「そうだ」と木村は頷いた。「ペトロはまだおもらしするんだぜ」とマルセロはひっきりなしに話す。「うるせぇ」と木村がその頭をはたいた。
「そして、彼がヴィゴ。16か?こいつらの長男。ペトロはここで生まれた子供だ。マルセロは3年前俺がここに連れてきた。ヴィゴは俺が知る前からここにいる。血のつながりはないがこいつらは兄弟だ」
ヴィゴは小さく頭を下げたので自分も合わせた。
マルセロは大きな目をより開いてはしゃぎ、ペトロは少し怯えるように頭を小さい体になるべく隠そうとしている。ヴィゴは冷たい目で全体を眺めながら状況を分析しているように見える。彼ら兄弟は見事に三者三様だった。それが、ここでのそれぞれの役割なのだろう。
「ここは一応アーミールの集落だが、そこまで厳格な所でもない。純粋なアーミールエリアではないので電子機器も機能する。極力させてはいけないがな。外部からの物資も仕入れているし、俺のような人間も時にこうして迎えてくれる」
木村はそこまで説明すると話すのを止めた。マルセロが代わりに口を開き、意味の無い質問を絶え間なく自分に浴びせた。そして、食卓のパンが無くなると、木村は再度、杉浦に外に出るよう促した。マルセロも出たがったが木村に待ってろと叱られ不貞腐れた。
外に出た。風は強いが雨は一時止んでいた。
木村は建物の陰に隠れながら移動し、集落の一番奥にある建物に入った。
そこは明かりがなく暗闇だったので誰も住んでいないのかと思った。しかし、木村がランタンを掲げるとその円の中には女がいた。
女は壁に寄りかかり地面に足を伸ばして座っていた。光を受けても虚空を見たまま微動だにしない。死んでいるのかと思った。しかし瞬きをしたので、すぐにそうでないことが分かった。
木村はその場でランタンをスライドさせて部屋の各所を照らしていった。
そこには女の他に三人の男がいた。そして、彼等はまるで同じように壁に背をかけ足を伸ばし座っている。視線も女と同じで虚空に固まっていた。
「様子がおかしくなったのはつい最近だ。ここ二週間くらいで皆こうなった。既に三人死んでる。動かなくなって、水も飲まずに衰弱して死ぬ」
木村は光を最初の女に戻した。
「彼女はマルセロとペトロの母だ。アンリという」
木村は続ける。「子供達にはこの事は知らせていない。ただ病気にかかったから医者の所に行ったという事にしている。こいつ等をどうするか今話し合いがされてるが、どうも村の人間はこれが悪魔の仕業だと恐れている。分かると思うが、アーミールが悪魔と言うのは大体システムのことだ。彼等はおそらくこいつ等を、ここに閉じ込めたまま見殺しにするだろう。だから俺は」と木村が言いかけた時
「何をしている」と突然背後からしわがれた低い声がした。
とっさに振り返ると、老人が若者二人を連れて立っている。
「何故ここにいる。この人は誰だ」
「俺の知り合いだよ。川が増水しててな、俺の所は危険だったんだ」
「ここで何をしている」
「いや、どこか休めそうなところを探していて。ここは暗かったから空き家かと思ったんだよ」
「木村、お前は何か勘違いしていないか。ここに居ついていいのは洗礼を受けた者だけだ。神を信じているものだけだ。お前は違う。それにお前のみならず、許可も無く得体の知らない人間を連れこむとはどういうことだ」
「悪かった。ただ、嵐が止めばすぐ戻る。わざわざ声をかけるのも悪いと思ったんだ」
「見張っていろ」と老人が言った。言われた人間の男は頷いたが、その表情をみると、怯えているようだった
木村は壁に背をかけ腰を下ろした。自分もそれに準じた。見張りはそれを見下ろしていた。後から別の一人が入ってきて、自分たちに毛布を渡した。
疲れがどっと押し寄せて、気絶するように、気づくと、そのまま眠りに入っていた。
遠く話声がして目が覚める。ランタンの元で男が四人囁くように話している。その一人は木村だった。
「外部の人間を受け入れたのは間違いだった。来るものは拒まない、とは言ってもそれは人間の話だ。悪魔はついに最後の約束も放棄して、ここに触手を伸ばして始めている。もう随分も前からだ」
老人があの低い声で嘆いている。よく見ると涙を流しているようだった。
「しかし原因は分からない。まだ病の可能性もあるだろう」と木村の諫める声がした。
「その可能性はないよ。これは病ではない。私には分かる」
「どちらにしろ、もう少し冷静になるべきだ」
「甘い囁きは聞かない。悪魔は近しい振りをして囁く。恐怖、惰性、欲望、わずかに身に宿るそれに対して、そして人間を人形にする。気づいた時には手遅れになる」
老人は立ち上がり外に出た。
「大分神経質になっているな」と木村は他の男に話しかけたが、彼らは反応を示さなかった。
扉が小さく軋む音を立てて開いた。戻ってきた老人の手には斧が握られていた。
「どうした」と木村が不審な顔で立ち上がった。「何をするつもりだ」
「悪魔の存在を信じない事は、神を信じない事と近しい。目を背けてはいけないのだ。はっきりと、断罪しなければならない。逃げてはいけない」
「落ち着け、何を考えている」
老人は斧を振った。木村はすんでのところで避けた。それは脅しのようには感じられなかった。
自分も咄嗟に立ち上がった。倒れた木村を無視して老人は部屋の奥へと進んだ。
「おい、やめろ、お前ら何してる止めろ」と木村が二人の男に言ったが、彼らは逆に木村の前に立ちはだかった。
老人は部屋の角で呆然と足を投げ出している男の前に立った。
「何をしている。やめろ」と木村が叫ぶと同時に斧は振り下ろされた。鈍い音がした。
老人は、自ら断罪した者を横に倒すと、足で肩と首の辺りを踏みつけ深く刺さった刃を引き抜いた。そして、傷口にランタンをあてて照らすと、また斧で頭を砕き。もう三度それを繰り返した。すっかり開いた脳に彼は手を入れた。嫌な音が響いた。そして、彼は何か引き抜くとこちらに歩いてきた。
「これを見ろ」と老人は木村に手をかざした。老人の血まみれの掌の中で、何かの電子回路の部品が反射していた。
「やはり悪魔の所業だ」
老人は満足げにそれを掲げた。
彼は振り返り、また固まった者たちへと近づく。木村はハッと我に返ったように「分かった。もう、分かったからやめろ」と声を上げた。老人は止まらず、そして、何の躊躇もせず、次の男に斧を振り下ろした。
また鈍い音がして、血しぶきが上がった。木村は後ずさりして、自分の隣の壁に背をつけた。老人が男の頭にまた手を突っ込んだ。「ほら、あったぞ。ほら」と老人は叫ぶように言った。
すると、突然甲高い笑い声が響いた。その声は直接背筋まで突き刺さるように冷たく、鋭かった。訳が分からずも、唐突に寒気がして身が凍った。
さっきまで人形のように動かず虚無を見ていたアンリが笑っていた。皆、唖然として、その姿を暫く眺めた。女の笑いは止まらず、彼女は発狂するように体を震わせていた。
自分の太ももの辺りに何かが触れた。しかし、呆然としていて反応出来なかった。すると、それはより強く太ももを抓った。自分が木村を見ると彼は声は出さず口元を動かした。 口の形と、わずかに漏れる息から木村の言葉を聞き取った。「斧を奪うぞ」
監視の男達は今女の方を向いて固まっていた。
自分は頷いた。
「何がおかしい」と老人の怒鳴り声が聞こえた。呆然としていた彼も我に返ったようだ。
老人は投げやりに三人目の男に斧を振り下ろした。また鈍い音が響く。息を殺し、木村と二人で男達の背に近づいていた。その時老人が「よく見て置け」と言いながら、こちらを振り返った。
突然、木村が獣のような怒声で叫んだ。監視の男達はすぐ振り返り身構えたが事態が飲み込めず一瞬硬直した。木村はすでに彼らの懐にいて、そのまま二人を体を跳ねのけ、老人の方に突進した。男たちは慌てて木村を止めようとしたが、自分は咄嗟に二人の男につかみかかり阻んだ。一人の男が地に倒れながら自分の足に巻き付ついてきた。
「離せ」と怒鳴り声が聞こえた。男たちの手が自分から離れた。見上げると木村が斧を持っているのが見えた。老人がその脇で抑え込まれている。
「お前らそっちの壁まで離れろ」木村は男たちに向けて怒鳴った。そして、すぐ入り口の前にたって塞いだ。ノソノソと彼らは奥の壁まで行った。「背を向けろ、壁に手を付けろ」また木村が怒鳴った。
「父は大丈夫か」と男の一人が言った。
「あぁ大丈夫だ。大したことはない。背を向けろ」
ついに男達は言われた通りにした。
女はその間も笑っていた。木村はそれを見下ろし迷っているように見えた。この女を連れて行くかどうか。残せば彼らに殺されるだろう。しかし、今連れて行っても子供達にこの姿を晒さなければならない。
「杉浦、ヴィゴの所に行って、ここを出る準備をさせろ」
「私が残って、木村さんが行った方が」
「ヴィゴには大体のことを伝えてある。大丈夫だ。お前が行っても言う事を聞く」
木村一人を残すのも危険な気がしたが、あそこに行けば拳銃もある。自分は頷いて小屋を出た。
また、雨が降り始めていた。
小屋に戻ると、ヴィゴが一人机に座っていた。
ヴィゴはこちらを確認すると、立ち上がって「どうした」と驚いたように聞いた。
「木村さんが、村を出る準備をしろと。急げ、すぐに出る」
理由を説明することが出来なかったので威圧するように言った。しかし、ヴィゴは何か勘づいているのか、怯える様子も無く、すぐに「分かった」と頷いて、奥の部屋に消えた。
「少し様子を見てくる。すぐ戻る」と言って、自分は脱ぎ捨ててあった服の内ポケットからカプセルを取り出し、拳銃に展開した。そして、元の小屋に戻った。
急いで奥の小屋に走った。もう夜になっているのと、強い風の根のおかげで、他の住人には騒ぎを気づかれていないようだ。見つかれば厄介なことになる。この夜の内に村から逃げ出さないと。
部屋に入ると、女の笑い声は止みブツブツと何かを呟いていた。老人はうなだれていた。木村は、まだどうするか決めかねて立ち尽くしているようだった。背を向けた男達は座り込んでいる。
自分が戻ってくると「伝えたか」と木村が聞いた。自分は頷いた。
「一体何故だ。何故」老人が木村の足元で唸っている。「何故気づけなかった。何故気づけなかったんだ。神よ。私は貴方を裏切っていたのですか。それと知らずに」
それは情けなく惨めな姿だった。
「その子が悪魔にだとは限らない。他の者とは少し状態が違うようだったぞ」
木村が言ったが老人は首を振った。
「まやかしはいらない」そして、彼はまた急に元のように厳格な顔に戻った。「これは偽物だ。こいつが産んだ子も人ではない。悪魔の子だよ。私はどんな囁きにももう靡かない。私の甘さがこの事態を生んだのだ。小さな偽りも甘えも受け入れない。それを許せば真実は全て揺らいでしまう」
「子供は関係がないだろう」
「悪魔の子だ」
「それは分からない」
「分かる。私には分かる。今や神は私に真実のみを伝えてくれる。目が覚めたのだ」
「神は何も言っていない。それは、お前の幻想だよ」
「違う。お前が神を信じられないだけだ」
二人が対峙する間に、「助けて」と声が響いた。小さくどこか歪な声だった。
空間は沈黙に包まれて、皆その声の余韻を探った。するとまた「助けて」と聞こえてきた。今度ははっきりと女の口からそれが漏れているのが分かった。
「ほら、囁いた」と老人が口角を上げて歪に微笑んだ。気味の悪い表情だった。木村は眉を潜めそれを見下ろした。
「助けて」とまた女の口から声が漏れた。
「意識が戻ったのか。分かるか」女に近づき、膝を付けて木村は聞いたが、女はそれに対して反応をしなかった。木村は再度続けた。
「あぁ、助けてやる。分かるか。マルセロとヨハンが待っている。ヴィゴもだ。三人ともお前を心配してるんだ。一緒に行こう。立てるか」
しかし、木村の言葉は聞こえていないようだった。
次第に女の口元は声を発さず何かを呟き続けた。おそらく「助けて」と。そして表情は正面を向いたまま硬直していた。その挙動は妻が入院する前示した物と同じだった。
老人が笑った。
「これが人間か、木村。お前は全く惑わされている。お前には神がいないからだ。だから、お前は惑わされ、立ち止まり、動けなくなる。そして、結局、悪魔に欺かれ、虚構の下に死ぬのだ」
「うるさい」木村は怒鳴った。
確かにこの状況を長く続けた所でリスクが増えるだけだと思った。それに、何か酷く煩わしい。
「はっきりさせましょう」と自分が言った。そして「コピーであったら撃て」と拳銃に告げた。銃は緑色に反応した。
木村が驚いたように振り返ってこちらを見た。
「やめろ杉浦。それは必要ない」
「必要はありますよ。お互いにその方が理がある。時間をかけてもしょうがない。片が付く物は、片をつけましょう」
そして自分は女に向けて引き金を引いた。軽く空気が擦れる音がして、弾は女の頭に刺さった。女の首は跳ねて、額から血が流れた。
老人の叫び声がした。そして、ひれ伏した後、木村にすがり突いた。「ほら、言ったろう。お前は悪魔を連れてきた。お前は悪魔を連れてきたんだ」
老人が木村の肩を抑えて立ち上がった。木村は唖然としてその姿を見ていた。
座っていた男達が突然走り出した。自分に突っ込んでくる男を咄嗟にそのまま撃った。男は前のめりに倒れこんできた。それを躱して木村の方を見た。木村はもう一人の男に弾き飛ばされて押さえつけられていた。
老人が斧を拾った。そして、木村のほうに一歩、近づいた。
次の瞬間、老人は崩れ落ちた。自分はまた反射的に引き金を引いていた。斧がカラカラと落ちる音がして、木村を抑えた男が振り返った。倒れて、腹から血を流す老人を見た。そして、その呆然とした顔のままこちらを見た。
自分は銃口を向けた。
「撃つな」と木村は叫んだ。
男は立ち上がり、後ずさりして木村から離れた。木村はヨロヨロとこちらに歩いてきた。
銃の緑の光は、灯り続けていた。
細かく洗い息が聞こえた。老人は転がり獣のように喘ぎながらこちらを見ていた。「逃がさんぞ、悪魔め」
再度、引き金を引いた。空気の乾いた音が3度、全て胴体を捕らえた。
「やめろ」と木村が叫んだ。老人は地の水たまりに浸かって動かなくなった。
「拘束しますか」と残った男に銃を向けて聞いた。そして、手錠を出した。
「それを使うな」と木村は怒気を孕んだ声で言った。「お前はここでそういうものを使う意味が分かっていない。
木村は女の後ろ手を縛っていたロープを解いて、生きている男の足と後ろ手を縛った。そして「この豪雨だ。騒いでも無駄だぞ。明日になったら助けを呼べ」と言った。
木村は死んだ者達を並べて、胸の前で手を組ませて目を閉じさせた。
そして自分の腕を引っ張り「逃げるぞ」と言った。扉を開き部屋を出た、
外は暴雨に戻っていた。激しい雨で、木々が軋み、叫び声をあげているようだった。
子供達の家に入ると三人が座って待っていた。
「逃げるぞ」と木村が言った。ヴィゴはマルセロに背に乗るように言った。マルセロは少し抵抗する素振りも見せたが、すぐに背中に巻き付いた。木村はヨハンを負ぶった。そして、そのまま森の中へ入った。
闇の中から、すぐ近くで木々が出でて、そして、背後の闇へ消えていった。時折、振り返りながら、ライトで背後を照らした。村の人間が気づいて追って来ている可能性もある何も見えなかったが常に何かいるような気もした。
木村とヴィゴは子供を抱えながらも、すごいスピードで降りて行った。その姿を闇に見失わないよう目を凝らした。そして、背後から迫る者にもすぐ気づくよう何度も振り返った。
そうして、しばらく山を下った。
「だれか追って来てるか」と木村が振り返って自分に聞いた。
「姿は見えないですが、分かりません」と自分はまた一通り背後を確認して答えた。
「馬鹿でなければ、こんな日に追っては来ないだろうが」
木村の言葉をきっかけに、ようやく一行の足取りは緩やかになった。
木村に代わって自分はペドロを負ぶった。ペドロはしがみつくように自分の肩に巻き付いていた。彼は嘘のように軽かった。頬が首に触れていた。それが、温かく、冷たい雨に打たれていた自分にとっては、ありがたかった。
途中でマルセロもヴィゴから下りて自分で歩き出した。彼は顔を顰めて、嘘のように黙り込んでいた。ヴィゴはマルセロが下りた代わりにペドロを自分から受け取って負ぶった。そして、いつものように表情を変えず、ただ黙々と歩いていた。
ヴィゴが先頭を歩いた。自分には、道を進んでいるかどうかも分からないが、彼はこの辺りを熟知しているようだった。
雨は止んだ。風はまだ時折強く吹きすさぶが、大分遠くなっていた。
「泥湖を渡るのは無理だろうな。雨が降るとあの辺りは酷い。少し危険だがスクラップ街を通っていくぞ。ふもとに俺がたまに使う小屋がある。そこで一度休憩しよう。明るくなれば村の奴が追って来るかもしれない。少し、しんどいが少し休んだら、すぐそこを出るぞ」歩きながら木村は一通り説明した。
そして、それからすぐにその話をしていた山小屋に着いた。自分は服を脱いで倒れこんだ。限界だった。木村は少し周りの様子を見てくると言って外に出た。
壁に寄りかかりすぐに浅い眠りに落ちた。しかし、それもおそらく一時間もせずに起こされた。
「いいから言うことを聞け」と木村がマルセロを叱っている。
「いかないよ」とマルセロも幼い声で負けじと叫んだ。彼は泣き叫んでいた。そして、ペドロも泣いていた。ヴィゴがなだめていたが、それでも聞かないようだった。
「いいか、マルセロ。こんなことをしてる場合じゃないんだ。お前の我儘は皆を危険にするんだぞ」
「じゃあ俺だけここに残ってお母さんを待つ」
「馬鹿いうな。お母さんが何故お前がここにいると分かる」
「分かるもん」
「分からんよ、馬鹿みたいなことを言うな」
「分かるよ」とマルセロは叫んで部屋の角に引っ込む。木村は追いかけてマルセロの正面に屈む。
「マルセロ、俺を信じろ。お母さんは大丈夫だ。病気が治ったら村じゃ無く、新しい家に戻って来るように伝えてあるんだ」
「嘘だよ。嘘だ」
「嘘じゃない。嘘じゃないよ。神に誓う。嘘はついてない」
マルセロは叫びはしないが、苦しそうに涙をボタボダ流していた。
「その血は誰の?」
木村の服は血まみれだった。しかし木村は押し黙って答えなかった。
「誰のなの?」
「新しい家に着いたら話そう。それまでは言わない」
「誰のなの」またマルセロは叫んだ。
マルセロはジッと木村の目を睨んでいた。二人はしばらくそのまま対峙していたが、やがて木村がマルセロの頭を撫でた。
「お前が、本当は賢くて、勇気のある子だって言うのは分かっている。俺はお前を早く安全な所へ連れて行かないといけない。それがお前のお母さんに対する俺の務めだからだ。お前のお母さんのためにもそうしないとならないんだ。分かってくれ。遅れれば遅れるほど危険になるんだよ」
マルセロは何も言わず、しばらく腕の中に顔を隠して蹲っていた。
木村が振り返った。自分はとっさに目を瞑った。足音が近づいてきて、肩に誰かの手が触れた。
「杉浦、もう出るぞ。準備しろ」
自分は目を開き、頷いた。その瞬間に起きたように振舞った。
「お前の来ている服を貸してくれ。俺は着替えないと」木村は言った。
湿っているスーツを羽織った。生臭く、シャツは体に張り付いた。腰に銃を刺した。銃はまだ緑に点灯していた。
木村が自分の隣に立ち小さく聞いた。
「あの時も緑だったな」
自分は頷いた。「えぇ、咄嗟だったのでそのまま撃ちました」
「そうか」と木村は呟いた。「まさかアーミールの集落でコピー化が進んでいるとは。一体どうなっている」
コピーがアーミールの教主として人を導いていた。確かにあの集落は歪の塊だった。
木村は自分を外に出るように促した。そして、扉の前で自分の顔を鋭く睨んでいった。
「なげやりになるな」
辺りに響かないような、静かな声だったが、その声には激しい怒りと力を感じた。
「簡単に撃つな」




