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杉浦はすぐに相川を呼び出して大会の監視を行うことを伝えた。既に大会開始まで15分を切っていた。二人はモニター室へと走った。
途中、廊下で木村とすれ違った。杉浦は一瞬迷って立ち止まると「木村さん、キゴウさんの試合が見れるかもしれません」とその背中に声をかけた。
「本当か」と木村は振り返った。
「えぇ、確実とは言えませんが」
「分かった、俺も行く」と木村は慌てて駆けてきた。
モニター室に入る。壁全面をARモードにする。VRに入らずともこの空間で様子を見ることが出来るので他の作業もしやすいし、刺激を抑えることが出来る。
「相川と木村さんはモニターチェックでお願いします。俺は中で見ます」と杉浦はカプセルに腰かけた、
「俺も入る」と木村が言った。
「木村さん、今回の大会はは高抽象度で行われるのでかなり刺激が強いです。木村さんもモニターチェックに回ったほうがいいですよ」
「いや、俺は現場主義でね」
「現場って」と杉浦が何か木村を止める文句を考えている最中に、既に木村のカプセルは閉まり始めていた。杉浦はため息をつき。諦めてカプセルを閉めた。
「監視モード、symbol2」と言うと、視界が暗転していく。
そして、暗闇にメッセージが浮かび上がる。
「今回は高抽象度バトルになります。観戦には制限が設けられます。精神耐性チェックを行います」
空間に意味不明な色の変化や音楽がしばらく流れた。
「チェック終了。制限2での視聴になります。観戦開始です」
場面は暗転し再度視界が開けると杉浦は空に浮いている。少し遅れて木村も空間に現れた。
「おぉ」と木村は遠い地面に気付いてバタバタと宙で足掻いた。
「大丈夫です。落ちませんよ」と杉浦が言い、恐る恐る木村は鎮まった。
「入れましたか」
「なんか視聴に制限がかかると言われたが」と木村。
「えぇ、精神不可が強そうな所は制限されます」
「つっぱねたよ」
「つっぱねた。どうして?」
「ありのまま見たいからな」
「危険ですよ」
成人であれば本人の希望で制限をかけないことも出来るが、木村のようにVRに慣れていない老人には大変危うい行為だった。
「不思議なステージだな」
木村は杉浦の言葉を意に返さず辺りを見下ろしている。
眼下には、少し青みのかかった白の砂漠が一面広がっていた。はるか遠くまでそれ以外は何もない。空は青く、と言っても晴れた空という訳ではなく、水彩絵の具の水色を薄く均一に塗り広げたような自然とは明らかに違う不思議な色が広がっている。地平と空の境界は淡く、空と地面が溶けあっているようにも見えた。
「時間が無いのでざっと説明します。抽象度の高い世界だとイメージ投影がしやすい反面、物理的なダメージも曖昧になるので基本的に戦闘は精神の削りあいになります。個人のもつ精神耐性がそのまま防御力になると思ってもらって大丈夫です。つまり、観戦側にも影響が及ぶような強い視覚効果の攻撃などが予想されます。そんな危険を感じましたら古典的ですが、目を瞑って、耳を塞いでください。これが一番簡単で効果的です。
ストレス負荷、精神異常値、このゲームでは合わせてSAN値と表すようですが、それが限界に達するとプレイヤーは思考がままならなくなりログアウトします。または、ステージの中で自己のイメージの物理的存在が保てなくなった場合も同様です。
バトルステージには階層がありまして今回は高階層のステージです。階層が上がるほど抽象度が増し、ゲームのイメージ補完が無くなって自由度は増えますが、その分、物理法則は曖昧になって形状補完も効かなくなるので存在を保つのが難しくなります。高抽象度のステージは安定せず、混沌として現実世界とは全く別の景色になりやすいです。なので、あまり注視しないことです。囚われると混乱します」
「了解」
「とりあえず気分が悪くなったらすぐにログアウトしてください。制限を切ってるということはそれくらい危険ですよ」
「了解。それで、アイツはどこにいるんだ?」
「移動しましょう」
二人はその場に浮いているが、世界の方が回って動きだす。やがて、正面に一人の青年が現れる。
「ほとんど、そのままだな」木村の言う通り、知っている人が見れば、それがキゴウだと一目で感じる姿だった。実体のキゴウも、あと4、5年経てば大体こんな姿になるだろう。
「そうですね」
「他のプレイヤーはどこにいる?」
「ちょっと見てみますか」
スクリーンが二人の前に展開され、そこにはその二人を頭上から見下ろしている映像が映っていた。画面の高度が上がっていき、かなり上空まで昇ると赤い点でプレイヤーの位置が示されるようになった。
「ここまで離れてようやく何人か見えた。かなり広いステージだな」
「そうですね。プレイヤーは600人ほど参加しているようです」
「600人、多いな。今、どんな状態だ。もう始まってるのか」
「始まってはいますが、まだイメージクリエイトは解放されていません。解放されるまでは、プレイヤーは位置取りに終始するでしょうね」
「あとどのくらいで始まる?」
「もう始まりますよ。多分、もうあと数秒で」
そう言い終わる前に、キゴウが突然飛び出した。最初は普通に走っているように見えたが、徐々に速度を上げ、次第に実体では考えられないスピードになって、まさに風のように疾走する。杉浦達の体もそれに引っ張られていく。
「早い」木村がのけ反りそうになりながら声をひりだす。
「えぇ、想像しうる限界のスピードになるのです」
遠くで爆発音が響き閃光が上がった。キゴウは急激に方向を変え、そちらに向かった。
閃光のふもとでは白い砂漠が燃え上がり、赤く滲んだ球体が浮かび上がっていた。接近すると、そのふもとは赤黒く滲み、蜃気楼のようにぼやけている。
「危険だと思いますが、突っ込んでいきますね」
キゴウはスピードを落とさず、蜃気楼に突っ込んでいった。杉浦たちも引っ張られて、侵入する。ひどい陽炎で景色が揺れ、熱風が首筋を焼いていく。
木村は、暴熱風に対して辛そうに腕を顔の前で交差させて、半分目を閉じていた。
「木村さん、入り込まないで。これはプレイヤーたちだけが感じるものです。私たちは攻撃を受けていません」
「分かっている」木村は叫んだ。
やがて赤黒く渦巻きだした空間の中心に、何かが浮いているのが見えた。
卵のような球体。それは異様な音を立てて震えると亀裂を縦横に走らせた。
その亀裂から無数の原色がランダムにグラデーションして光を散らした。突然、辺りを包む熱風が止み、卵の震えも止まった。散らばっている光が収縮し始め、卵が虹色に発光し膨張しはじめた。
「相川、制限を。木村さん、目を閉じて」瞬時に杉浦は叫んだ。と同時に、自身の目を閉じ耳を塞ぐ。鼓膜をつんざく甲高い音が響き渡った。だんだん、それは女性の悲鳴のように聞こえだして頭の中でグワングワンとループした。瞼を突き抜け光が網膜で乱反射して弾ける。色の定まらない激しい閃光が後頭部を突き刺していく。
しかし、それは一瞬で過ぎ去った。音は水に潜った時のように低く鈍いものになり、目を開けると、おぼろげな水色の霧が辺りを包んでいた。光はその中で刺激の薄い、淡い万華鏡のように変わっている。
「大丈夫ですか、木村さん」
木村は頭を押さえながら何とか、あぁと吐き出した。
「相川に頼んで、制限をはってもらいました。やはり直接観戦するのは危険すぎます」
「そうだな」
「それにしても凄い。ここまでのレベルとは」
ぼんやり残っていたオーロラも消えて、視界がやっと平常を取り戻すと、水色の霧は晴れキゴウの姿を再びとらえた。虫のように鋭いスピードで飛び回り、何かの白い煙に向かって突進している。よく見るとその霧の中に、人の顔のようなもの見え隠れする。キゴウはその顔に殴りかかっている。
「爆発させた奴か?追い詰めているのか?」
「いえ、そうでもなさそうです」
キゴウの突進は悉く交わされて、後に残った煙を裂いていくだけのようだった。煙は風のように逃げていき、キゴウはそれを追いかけ続ける。煙が通り過ぎた後の砂は黒く焼け、別の煙を出して異臭が漂った。気が付くと、キゴウの腕が赤くただれ始めている。
「毒だ。煙に毒があるぞ」木村が叫んだ。「アイツ、気づかないのか」
「いや、どうでしょうか。それならその方がいいのですが。毒だと気づいてしまうと自滅効果でダメージが大きくなってしまうので」
キゴウは何度も毒の中に突っ込んでいっては空振りを続けた。その度に、毒を吸って、次第に顔も赤く腫れていく。
「何やってるんだアイツは。何も戦略がないのか」と木村の苛立ちが出る。
その後も、キゴウは意味もなく同じことを繰り返し続けた。
「混乱しているのかも知れませんね。初めの攻撃でもう決着はついていたのかも知れません。あれほどのイメージを見せられ、ストレスで思考する力を失った。ただ、間合いを取らせず、ひたすら相手に張り付いて、新たな攻撃を想像をさせる余地をなくそうとしているのかもしれません。それ以外に対策を考えることが出来ない。しかし、あの攻防一体の毒の霧で、それもいなされてしまっている」
「アイツがそんなに追い込まれているのか」と木村。
「えぇ」確かに平常のキゴウを知っていると、こういう姿は想像も出来なかった。しかし、人間はこういうものだ。追い詰められた時はどんな人間も愚かになる。
やがてキゴウは膝をついた。皮膚はただれ、焼けてはだけた背中からは湿疹が浮き出ている。見ているだけで痛々しいその姿に木村が思わず顔を顰めた。煙は消えて、中から女と思われる長髪の人間が出てきた。彼女は満面の笑顔でキゴウを見下ろした。追い打ちをかけることはしない。あくまで、その姿をあざ笑うように見ているだけだった。
「何故止めを刺さない」と木村が言う。
「おそらく、キゴウさんのダメージを別の人間に見えるようにしているんでしょう。そうすれば自らの毒の強さを誇示して、相手の自滅効果を狙えますから」
杉浦は一応一番理に敵う説明をしたが、正直な所、彼女の笑顔からは、そのような計算を感じられなかった。這いつくばるキゴウを、子供のようにはしゃいで観察している。そういうふうにしか見えない。
「キゴウは強かったんじゃないのか」と木村が言う。
「えぇ、強くなければそもそもこの試合に出場できていません。ポイント制限がありますから。ただ、キゴウさんは最近急激に倒錯境界症の症状が悪化しました。倒錯境界症はゲームと現実の境界を失う事です。それは、現実でゲームの振る舞いをしてしまうのと同じように、ゲームのダメージを現実のものとして捉えてしまうことに繋がります。キゴウさんの精神耐性は今ほとんどなく、もしかしたら最初から戦えるコンディションでは無かったのかもしれません」
「そうか。そうだな」
木村はキゴウに近づき、背中に触れようとしたが、その手は彼の体をすり抜けた。木村はそれでも背中の辺りに手を浮かべて呟いた。
「もう休め」
杉浦はどこか安心した。これでこの少年が持っている何か頑な意志のような物が崩れてくれると良い。仕事が楽になる。子供は早く社会に慣らされてしまったほうが随分と楽だ。周りも本人も。
その時、ギリギリと何かが軋むような音が聞こえ始めた。物のない砂漠で、鈍いその摩擦の音は奇妙だった。よく耳を澄ませて音源を探ると、キゴウの口元から血が流れていて、小さく震えているのを見つけた。
彼の表情はまるで変わっていた。別人のようだった。目を見開き歯を食いしばり女を睨みつけている。彼がこんな顔をするなんて。横に座る木村も驚いた様子でその顔を見ている。
キゴウの肩の皮膚から血が滲み出て少し泡立っている。
突然、彼の体は飛び跳ねた。ただその体はバランスを保てず、腕も上がらず、無様に頭から女に突っ込んでいく。しかし、そのスピードは尋常ではなかった。
女を煙が包む前に、キゴウがその体にぶつかった。女はバランスを崩しながらも体を回転させ衝撃を受けながし、キゴウの肩に何か黒い漆喰のようなものを突き刺した。
その女の背後から、鉛の塊のような者が飛んできた。腕から刃渡りが2メートル以上ある刀が伸びて、煙の女の後頭部を突き刺した。しかし、刃は確かに頭を貫いたが、女の頭は煙になってすり抜けた。刺した鉛の剣はただれて折れた。
それではっきりとしたが、女は煙に隠れていたのではなく煙になっている。
人間の体細胞を変化させるイメージは容易ではなく、世界でも一握りの人間にしか出来ない。仮に出来たとしても、そこから存在を保つのが難しい。高抽象度の世界では尚のこと、煙になった途端に形を保てなくなって、そのままログアウトしてもおかしくない。戦闘時でも煙の女が顔を極力実体化しているのもそれを防ぐためだろう。脳を保護をしていれば、形への自信は保ちやすい。しかし、煙になった後、人型にその機能を再び戻すには人の細胞組織を正確に把握し、イメージできてないと不可能だ。彼女のように自在に姿と機能を保てるのは一言でいえば異常だ。
世界2位のプレイヤーが毒を得意戦略にしていると聞いたことがある。二番手となるとプレイヤーポイントは30万にまで達している。キゴウのおよそ100倍だ。もし彼女がそうなのであればレベルが違いすぎる。最初からキゴウに勝ち目はなかった。キゴウは早々にそれを察して、ただただ突っ込んでいたのかもしれない。
女の標的はキゴウから鉛の者に切り替わったが、鉛の者は次々に長く新しい刃を創造して女の実体化している部分に切りかかった。肉は煙に変わり、かろうじて再度の頭への攻撃だけは逃れているが、それ以外の部分は実体化してもたちまち斬られ煙に戻った。別のプレイヤー達も突貫してきて、次々に参戦し、煙を畳みかけた。刃が幾重にも別れた刀や、巨大なこん棒。銃。かまいたちのような風を放つ者。武器はそれぞれだったが、互いに同士討ちしないように上手く立ち回りながら煙を追い詰めていく。
このチャンスに一時的に共闘し煙を消滅させようとしている。確かに彼女が世界二位のプレイヤーであるならば、他のプレイヤー達はこの機を逃すと勝てないだろう。一瞬で武器のイメージを作りながら、絶え間なく攻撃を繰り広げているの見ると、仕掛けているプレイヤー達もかなりのレベルに達しているようだ。
攻撃を受ける度、煙はすり抜けていき無意味なようにも見えたが次第に煙全体が薄まってきている。絶え間ない攻撃に心が折れかけているのだろうか。その動きも少しづつ鈍くなる。
仮に煙の女が自滅効果で肉が切られる恐怖を持った時は、刃は実体の肉を切り裂き彼女に直接的な痛みを与えるだろう。それを恐れて煙のイメージに偏り過ぎれば人の形状に戻ることが出来なくなり、煙はそのまま消滅する。バランスが難しく、難易度の高いイメージを持続しなければならない。相手の攻撃を受けながら極限の集中力でそれを続けるのは神業に近い。どうやら反撃をする余裕もない。これは攻めているプレイヤー達のほうが大分分が良さそうだった。
鉛の刃が再度、女の後頭部に刺さった。頭は霧化せず血が噴き出した。イメージが保てなくなったのか。しかし、背後からの攻撃で受け手に認識がされなかったためか、刃は顔を完全に貫くまでに至らなかった。相手に攻撃を認識させ、自滅効果を持たせないと硬い防御力を持つ人間を貫くのは難しい。
一瞬固まった頭が、少し薄くなり霧に変わろうとした。その時、刺さった刃は発光し先端で大きな爆発を起こした。爆音と共に煙が弾け、大きな水蒸気が上がり、視界が遮られた。
一瞬の間。かまいたちの男が風で水蒸気を晴らした時、霧の女の顔は彼女を突き刺した鉛のプレイヤーの腹にべちゃりと纏わりついていた。
その顔に向かって別のプレイヤーが切りかかった。鉛がその刃を切り払い反撃した。そこにまた、周りのプレイヤーが絶えまなく迫った。鉛はいくらか攻撃を受けながらも必至に身を守ろうとした。
腹にくっついていた女の顔は鉛に守られ、想像の猶予を得ていた。彼女はその機会を逃さなかった。吠えるように口を開き、その中から白い液体が飛散して、濃い煙が立って辺りを包んだ。鉛の男の悲鳴のようなものが響いた。
すぐに煙は晴れたが、視界が開けた時に状況は一変してしまっていた。斬りかかっていた男たちは何人かは白い液体を浴びて、そしてそれは鎧や肉を溶かしていた。
霧に取りつかれた鉛の男が立ち尽くしていた。しかし、男の顔はすげ変わり、その場所にはあの女の笑顔があった。元の男の顔はその右手に掴まれている。鉛は剥がれ、生身の顔になっていた。
煙は男の死体と、その鉛の鎧も乗っ取ったようだ。
「あいつはどうやったら倒せるんだ。不死身じゃないか」それまで押し黙っていた木村が愕然と声を漏らした。
「普通のプレイヤーであれば、人型を一度失うと再生するのに膨大な時間と集中力がいります。しかし彼女は霧と人型を凄いスピードで切り替えている。傷を再生するのも早く相手の体を乗っ取ることまでやってのけました。心を折るか、または想像の余地が出来ない速さで消滅させないことには不死身かもしれません」
女は右手の首を掲げた。浮かんだプレイヤーの顔は一瞬笑ったように見えたが、それは溶けかけて歪んだだけで、すぐに苦痛を浮かべながら腐敗した。目の焦点が飛んで、ギリギリで保たれていたプレイヤーの意識がその瞬間にログアウトしたことが杉浦にも分かった。
視覚制限がかかり、その顔に黒い煙のような影がかかってよく見えなくなった。ただ、ログアウトした後もそれは蠢いていた。
霧の女は、ノソノソと歩くと、うずくまり毒に苦しんでいるキゴウの前で立ち止まった。
キゴウが女を見上げた。
女は右手に持つ物を、キゴウに押し付けた。キゴウの顔も黒い影に包まれて、何が起こっているのかはよく見えない。キゴウの体は痙攣し、うつぶせに倒れこみ、体から蒸気が上がった。
それまで、様子を見ていたプレイヤー達が再度、女に切りかかっていった。そこからはただ混沌だった。名づけようのないイメージの氾濫、景色は歪み、音も定まらず、何が起こっているのか、瞬間にあるもの全てが移り変わり、ほとんど認識は不可能だった。それは、それらの攻撃がほとんど攻撃として意味を成さないのと同じことだ。しかし、その混乱はしばらく収まらなかった。
やがて、一人、一人と倒れていく。その倒れた体には薄く白い視覚制限がかかるが、何となく起きていることは分かる。人間が腐敗して、その体から水蒸気があがり、少しづつ溶けて、そこから、また毒が拡散していく。毒を治療しようとあがいているものもいたが、毒のイメージに負けて、結局倒れこんでしまい視覚制限がかかった。
ステージに毒の霧が充満し始めた。酸味の強い腐臭もこもり始める。
体に液体がついて毒に感染した男が、決着を急いで攻撃を仕掛けてようとしている。が、攻撃に行く前に刃が煙に変わり立ち消えてしまった。まともなイメージが作れなくなっているのだろう。それは、集中力の欠如と抱いている恐怖を示していた。
恐怖を感じた時点でこのゲームでは負けに等しい。毒が回る前に責める、そう感じている時点でその毒は治療できない。そして、その人間の恐怖が自滅効果になってステージ上の毒を強くしていく。被害者が増えるほど、毒性は強く、残酷に上書きされていく。プレイヤー達が積み重ねた自滅効果は、もはや簡単には覆せない。女はただひたすらに向かって来る者をいなすことだけに集中し、攻撃が届かぬ間に攻めるている者達がことごとく朽ち果てていく。
やがて砂漠そのものが腐敗しはじめた。そこでようやく杉浦は煙の女の戦略に気付いた。彼女は初めからステージそのものを自分の場所に作り変えようとしていたのだ。
今、戦闘に参加していないプレイヤーも毒の蒸気の充満したこの世界で彼女を倒すのは難しいだろう。戦略も想像力も、他のプレイヤーに勝っていてゲームを支配している。特にその想像力、彼女は他のプレイヤーとは次元の違うレベルにある。
女への波状攻撃は少しづつ数が少なくなり、やがて止んだ。プレイヤー達は距離をとり打開策を探って様子を見ているが、それを見つけられなければ、彼らもやがてステージの毒が回り何も出来ずにログアウトすることになる。
女は、煙化を完全に解いて、悠々と歩きだした。砂漠は溶けて沼のようになり、景色はどんよりと濁った白濁に染まってしまった。彼女は嬉しそうに回転して踊った。ポチャポチャと地面の白い液が飛び跳ねる。彼女はしばらく満足そうに踊っていた。
静けさの中で、またあの音が聞こえてきた。煙の中で小さく震える影から聞こえる。その子供は前と同じように、女を見上げ睨みつける。キゴウはいつの間にか青年の姿から実体時の姿に戻っている。そして、腐敗した体で、女のほうに這いずって行く。
「まだいたんだ。弱いのに、凄い生きるね」と女は顔以外を煙に変えて言った。初めて聞くその声は甲高く、喋り方はどこか大げさで幼稚だった。
「あのね、私ね、どうして君が、この試合に出ているのか不思議だったけど、なんとなく分かったよ」煙の顔は揺れながら、笑っている。
「もう、決着はついたよ。このステージは私のものだよ。残った後の人達は勝手に死ぬよ。だけど、それまでは退屈だね。退屈だから、おしゃべりしようか。もしかしたら、そのまま君も上位に残れるかもね」彼女は一度しゃべりだすと返事も聞かず、楽しそうに立て続けに話した。「ここまで凄いステージを作れたのは初めてなんだよ。君のおかげでもあるね。やっぱり想像力が豊かな人達が集まると、凄いね」わざとらしく、あざとい話し方で、素人の芝居のようだった。
「自分が何が一番怖いかって思った時にね。こういう風に、毒で腐って、体液が漏れて、汚くなっていくのが最悪って思ったんだ。それで、これを思いついたのね」
「これを作るのにね。ずっと、ホラーゲームに潜っててね。元からホラーゲームは好きだったんだけどね。バイオハザードの70のね。人間の缶に溶けていく死体とね。分かる?廃墟のビルを抜けた先の?分からない?そこの人間缶の所でね、一緒にずっと潜ってたんだ。死体と。何回も飛び込んで、わざと死んでね。難時間もぶっ続けでそれを繰り返してね。強制ログアウト時間になる度に何度も再ログインしてね。辛かったけど、気持ちよく感じ始めるようになったよ」
彼女は満足そうにキゴウを見下ろした。明らかに幼稚な話し方と身振りに「こいつ、ガキか」と木村が苦々しげに呟くのが聞こえた。
その時、キゴウの歯ぎしりが止んで、小さく声が聞こえた、
「ん、何?」と女が腰を曲げてキゴウを覗き込む。
杉浦も耳を澄ませる。かすかな、キゴウの吐息のような声が聞こえる。
「もう少し違うよ」
「どういうこと?」
「違うよ」
杉浦は、キゴウが一瞬微笑むのを見えた。俯きながら、いつもの感情の無い薄い微笑だった。
女は少し警戒するように目を細めた。ふと、これまでとは違う、何か別の臭いが鼻に突いた。そして、しばらくすると女が顔を顰め、鼻を抑え不思議そうな顔をする。
「臭い。何これ」
木村が呟いた。「死臭だ。本物の」
キゴウの刃が刺さっている肩が歪な音を立てて何度か動いた。すぐに制限がかかり、そこは黒い影になり、辺りの死臭も薄くなる。もはや影でも煙でもない、黒く塗り潰された視覚制限の円が広がり、キゴウの姿を完全に隠した。音も消える。何か異様なことが起こっている。キゴウの方をみる女の表情がそれを示している。
黒塗りが縦に伸びた。女は銃を創造してそれを撃った。撃ちまくった。黒い円が地面に倒れる。しかし、またゆっくりと立ち上がった。また撃たれ、立ちあがる。そしてゆっくりと女に近づいていく。
突然、女が吐き出した。吐しゃ物が顎から垂れる。妙に生々しく哀れな姿を晒す。
「毒が、どうして」女の体が完全に実体化して辺りを見渡した。周りには彼女が築いた死体が転がっていた。その顔に表情はなく、もうほとんど溶けていた。いつの間にか辺りのプレイヤーは全員ログアウトしていたようだ。であれば、その自滅効果も消えていて毒は弱まっていくはずだった。それなのにステージはさらなる腐敗へ変貌し、視界は籠った白い煙で曇り、死臭の輪郭がより強くなっていく。
杉浦は呆然とその景色を追った。まさかキゴウの一人の自滅効果が、オリジナルを侵食してしまったのだろうか。
女はまた吐いた。皮膚が赤みを帯びて少しづつ剥がれ、血が滲んでいる。彼女は胸を掻きむしり、やがて立てなくなった。何も吐く物が無くても地面に向かって嗚咽する。ドロドロと腐った砂漠に頬を付け、彼女の皮膚が焼けて煙を上げた。
キゴウの黒塗りが取れた。彼も肉が腐敗し始め、苦しそうに倒れこんでいた。しかし、彼はさらに這いつくばって女に近づいていく。女は足掻くが、逃げることが出来ない。キゴウは立ち上がって彼女のすぐ近くまで歩くと、それを見下ろし、掠れた声を出した。
「本当に、それが一番怖いの?」
女は目を見開いて大きく首を振った。体が溶けていき、粘りの強い液体のようになって蠢く。女は口を異様に開け鋭い悲鳴を上げた。見ると背中に切り傷が出来て、そこから肉が裂け始めている。その姿はまたすぐに黒く塗りつぶされ見えなくなった。
「ログアウト出来ない」黒塗りの円の中から、悲壮な声が聞こえた。
「助けて、ログアウト出来ない」
「毒を止めて」
「本当に、ログあ、助け」その後の言葉はコポコポと液体が泡立つ音で遮られた。
木村の怒鳴る声が隣で聞こえた。杉浦は、ハッと我に返った。
「どうなってる、ログアウトしないぞ」
「ログアウトさせろ」木村が叫ぶ。彼は天を見上げて叫んだ。
「おい、相川、聞こえるか。コイツをログアウトさせろ。おい、危険だ。聞こえるか」
それも虚しく響き、彼はさらに無意味なことに、キゴウの隣に顔を近づけ叫ぶ。
「おい、キゴウ、毒を止めろ。おい」
※
ステージの毒が悪化していく。また、景色が変色して滲みだした。今度は空間そのものが溶けていくようだった。不思議な音が轟いている。低い音だ。精神に直接沁みこむような。何かが溶けていく音を何百倍にも増幅させて、反響しているような。その渦の中に飲みこまれているような。「何だこれは」と呟くと、木村の画面は黒くなり、次には青い殻が前にあった。混乱しながら、手でかき乱すと、殻は開いた。そこで、ログアウトさせられたことに木村は気付いた。
モニター室で吐き気を催しながら何とか立ち上がる。
「おい、相川。何見てる。早く、この試合を止めさせろ」
「その権限はありません」
「馬鹿野郎。そんなこと言ってる場合じゃねぇ。どうやる。どうすれば止められる」木村は杉浦のカプセルを叩いて「おい、杉浦、やめさせろ」と叫ぶが、当然それは無駄なことだった。
※
「助けて」と女の声が、聞こえてきたような気がした。細かく震えていた黒塗りの円はそれを機にピクリと動かなくなった。
黒塗りは剥がれ、女の姿が見えるようになった。自身が吐いた液体を頬を付けて、うつぶせに倒れていた。
キゴウがじっとそれ見下ろしていた。
これは、何かのバグだろうか?空間が歪んでいる中で、杉浦は頭を抱えながら何とかその光景を追っていた。
キゴウがふと顔を上げる。その視線の先から、歩いてくる人影があった。その背後は闇だった。キゴウが歪めた空間がその人間の背後に行くとただの黒に変わっていく。
人影は、両手を広げた。途端に黒が迫ってきて辺りを飲み込み、数秒後に忽然と砂漠が広がった。
ステージが元の砂漠に戻って、嘘のような静寂が辺りを包んだ。ただ、違うのは風景が色味を失くしてモノクロになってしまっていた。
毒の女が口を開けて、舌を出し、むき出しの眼球で空を見上げていた。舌をわずかに動かし、何か言おうとしているが声は出ていない。片方の目から頬が影の黒に隠れて見えない。その姿の陰影は遥か昔に一度だけ見たことがある白黒映画のように美しかった。
気づくと、先ほどの人影はその隣に立っていた。
それは、ゆっくりと女の隣に座ると頭を抱えて抱き起した。女の下半身は枯れて千切れ、砂になり地面に散った。顔は口を金魚のようにパクパクとさせていたが、やがて、固り動かなくなった。人影が女の飛び出している目に手をかざす。その掌が外れた後には、瞼が閉ざされていた。女の顔は崩れ落ち、白くなって地面に消えた。
その人は立ち上がった。目を凝らしたが、顔は影で見えなかった。
「準決勝進出上位2名。 symbol2 ghoust 」
無機質なアナウンスが砂漠に響き渡った。そこで視界が暗転し、ゲームが終わった。




