第2話
「……あの、クラウス様。お茶が、こぼれそうですけれど」
「ッ!?」
執務室のソファで向かい合って座ってから数分。
私が淹れた温かい紅茶の入ったカップを持ったまま、クラウス様はカチコチに固まっていた。
前髪を上げ、素顔を晒した私を直視できないらしく、視線はあらぬ方向を彷徨い、カップを持つ手はプルプルと小刻みに震えている。
彼はお茶をテーブルにガチャンッと置くと、光の速さでスケッチブックに文字を書きなぐった。
『申し訳ありません! 女性とお茶を飲む経験が皆無な上、目の前にとんでもない絶世の美女が現れたため、脳の処理速度が追いつかずフリーズしていました!』
「絶世の……ふふっ。買い被りすぎですわ」
私がくすくすと笑うと、彼は耳まで真っ赤にしてさらにペンを走らせる。
『事実です! 王都の貴族たちは目が節穴なのですか!? なぜ貴女のような美しい方が、あのような分厚い眼鏡と野暮ったいドレスで隠れていたのですか!』
その不器用で真っ直ぐすぎる言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
「……私の幼なじみだった、アリシアの指示です。彼女は『自分が一番可愛く、周りから愛される存在』でなければ気が済まない性質でした。私が彼女より目立つことを極端に嫌がったため、私はずっと、あの地味な格好を強要されていたのです」
私が淡々と過去を語ると、クラウス様の筆の動きがピタリと止まった。
スケッチブックの影から覗く氷青の瞳に、スッと冷たい怒りの色が宿るのがわかる。
『……そんな身勝手な理由で、貴女の美しさを封じていたと? しかも、その女が貴女の婚約者まで奪ったというのですね』
「ええ。でも、私はむしろ感謝しているのですよ」
私は紅茶を一口飲み、心からの笑顔を向けた。
「あのまま王太子妃になっていれば、私は一生、我儘な親友の引き立て役として、そして無能な王太子の実務を裏で肩代わりするだけの『便利な道具』として飼い殺しにされていました。こうしてクラウス様のようなお優しい方のいる辺境へ来られたのですから、私にとっては最高の結末です」
私の笑顔を見た瞬間、クラウス様は再び「ヒュッ」と息を呑み、バンッ!と顔をスケッチブックに伏せてしまった。
『(あああああ! 笑顔の破壊力が凄まじい!! 待って、俺の妻になる人、性格まで最高すぎませんか!? 神よ!!)』
(……心の声、全部スケッチブックに漏れてますよ、クラウス様)
完全に限界オタクの様相を呈している氷の貴公子様に和みつつ、ふと、私の視線は彼の執務机に積まれた「書類の山」に引き寄せられた。
それは、見覚えのある……いや、私が王都で毎日毎晩処理し続けていた、領地経営や予算管理の書類である。
「クラウス様。あちらの書類、随分と溜まっているようですが……」
私が尋ねると、彼はスケッチブックから顔を上げ、ずーんと効果音がつきそうなほど落ち込んだオーラを放ちながらペンを動かした。
『……お恥ずかしい話です。俺は魔獣討伐など、剣を振るうことしか取り柄がなく。数字や文官とのやり取りがどうにも苦手で……溜め込んでは、執事に怒られているのです』
(……なるほど。前線の武将タイプね)
私は立ち上がり、机の上の書類をパラパラとめくった。
税収の計算、冬営の物資手配、魔石の採掘量の管理。どれもこれも、王都で私がやっていた規模に比べれば、非常にシンプルでわかりやすい。
「あの、クラウス様」
『はい?』
「私、こういう計算や事務処理、三度の飯より大好物なんです。……もしよろしければ、私がやってもよろしいですか?」
私がそう提案した瞬間、クラウス様の瞳が「えっ!?」と限界まで見開かれた。
私は早速ペンを握り、溜まっていた書類の山を猛烈なスピードで捌き始めた。
(ああ、楽しい! 誰かに邪魔されることなく、自分のペースで仕事に没頭できるなんて最高!! しかもアリシアに『また地味なことして〜』と嫌味を言われることもない!)
凄まじい勢いで書類の山が減っていく光景を、クラウス様と、いつの間にか部屋に戻ってきていた老執事が、口をポカーンと開けて見つめていた。
『女神……いや、有能な文官の神が降臨した……!!』
「お、お嬢様……! 辺境の救世主でございます……っ!!」
書類仕事を終えた私を、クラウス様は涙ぐみながら(スケッチブック越しに)拝み倒し、老執事は私の手を取って「どうか末長く当家をよろしくお願いします!」と咽び泣いた。
私はここでようやく、「自分の能力が正当に評価され、感謝される喜び」を知ったのである。
――一方その頃。
私が抜けた後の祖国・王都では、いよいよ『破綻』の足音が近づいていた。
「な、なんだこの書類の山は!!」
王太子の執務室。
そこには、私が辺境で片付けた量の比ではない、天井まで届きそうな書類の塔が築き上げられていた。
「どういうことだ! セレナがいた時は、机の上は常に片付いていたはずだろう!!」
「殿下……。セレナ様は、これらの書類をすべてお一人で、しかも殿下が遊び歩かれている深夜に徹夜で処理しておられたのです」
宰相が、冷ややかな声で告げた。
王太子は信じられないものを見るように書類の山を睨みつける。
「ば、馬鹿な! あんな地味で陰気な女に、これほどの高度な予算管理や諸外国との外交文書の作成ができるはずがない! どうせ誰かにやらせていたのだろう!」
「いいえ。すべてセレナ様の直筆であり、彼女の采配です。……殿下。今月末までに隣国へ提出しなければならない条約の更新書類がまだ白紙です。これを逃せば、莫大な違約金が発生いたしますぞ」
「わ、わかっている! 今すぐ私が目を通す!」
王太子は焦って書類を手に取ったが、そこに書かれている複雑な関税の計算式や法制の専門用語が、彼のスッカスカの頭で理解できるはずもなかった。
「殿下ぁ〜♡」
そこへ、フリルまみれのピンクのドレスを着たアリシアが、無邪気に執務室へ駆け込んできた。
「見てください! 殿下のお金で、王都で一番高価な宝石を買っちゃいました! すごく似合うでしょう?」
「あ、ああ……似合っているよ、アリシア。だが今、私は忙しいんだ。少し後にしてくれないか」
「え〜っ!? どうしてですかぁ? セレナがいた時は、殿下はいつでも私とお茶をしてくれたじゃないですか!」
アリシアは不満げに頬を膨らませた。
彼女のその言葉が、王太子の胸に決定的な事実を突き立てる。
(……そうだ。セレナがいた時は、俺には自由な時間があった。俺が優秀だったから仕事が早く終わっていたわけではなかったのか……?)
「アリシア。君はセレナの幼なじみだろう? 少しはこの事務仕事を手伝ってくれないか。予算の計算だけでもいい」
「えー? 私、そういう地味なこと大嫌いです! セレナみたいに陰気になっちゃいますよぉ。それより、明日の夜会にはどんなドレスを着ていきましょうか?」
可愛くおねだりをするアリシアの顔が、この時初めて、王太子の目に「ひどく頭の悪い、底抜けの浪費家」として映った。
「……殿下。実は、殿下の個人資産はすでに底を尽きております。このままアリシア様の浪費が続けば、王家の国庫に手をつけることになりますぞ」
「なっ……!?」
宰相の非情な宣告に、王太子は顔面を蒼白にした。
セレナという優秀な「実務担当兼ストッパー」を失った王家は、見栄っ張りな無能王子と、欲しがるだけの強欲令嬢のタッグにより、急速に経済的・社会的な泥沼へと沈み始めていたのである。
――そんな王都の悲惨な状況などつゆ知らず。
「せ、セレナ嬢。これをお受け取りください」
フロストブルク城では、クラウス様が珍しくスケッチブックを使わず、蚊の鳴くような小さな、しかしひどく魅力的な低い声で、私に大きな箱を差し出していた。
中に入っていたのは、彼の瞳と同じ、美しい氷青色のシルクドレスだった。
私が今まで着せられていたくすんだ色のドレスとは違う、私の白い肌と瞳を最も美しく引き立てる最高級の品だ。
「これは……?」
なにかとクラウス様を見つめると、赤面して「…ッ!」と息を詰まらせたクラウス様は高速でペンを走らせた。
『(声が出なかったのでスケッチブックで失礼します)……君には、もうあんな地味な服は着てほしくない。俺の妻になる人には、誰よりも美しく飾ってほしいのです』
真っ赤な顔でスケッチブックを掲げるクラウス様に、私は胸の奥がキュンと鳴るのを感じていた。
「ありがとうございます、クラウス様。……さっそく、着替えてまいりますね」
私が本当の意味で『美貌の令嬢』として覚醒する瞬間が、すぐそこまで来ていた。




