第7話 選ぶと言うこと
圧力が、満ちる。
白い空間の奥から、見えない何かが押し寄せてくる。
重い。
音はないのに、耳鳴りのような感覚がする。
——最終警告。
——対象個体、未処理。
——強制執行準備。
言葉にならない言葉が、空間を満たす。
女神は、その中心に立っていた。
動かない。
逃げない。
ただ、そこにいる。
「……時間切れ、ですね」
俺は、静かに言った。
女神は答えない。
ただ、まっすぐ前を見ている。
その視線の先には、何もないはずなのに。
確かに“何か”を見据えている顔だった。
——最終確認。
——処理を実行せよ。
圧力が、さらに強くなる。
空間が歪む。
白が、ざらつく。
あの黒い裂け目が、再び現れようとしている。
今度は、さっきよりも深い。
強制的に、すべてを持っていくための“穴”。
女神の指先が、わずかに動いた。
震えている。
でも、その震えは——
もう、恐怖だけじゃない。
俺は何も言わなかった。
ここで言うべきことは、もう全部言った。
あとは。
彼女が、選ぶだけだ。
長い、ほんの一瞬。
その中で、いくつものものが通り過ぎた気がした。
規定。
評価。
恐怖。
役割。
そして——
「……私は」
女神が、口を開いた。
声は、小さかった。
でも、はっきりしていた。
圧力の中でも、消えない声だった。
「私は」
もう一度、繰り返す。
言葉を、確かめるように。
その目は、まっすぐ前を向いている。
逃げていない。
「本案件の処理を」
一語一語、丁寧に。
「放棄します」
静かに、言い切った。
その瞬間。
空間が、止まった。
圧力が、一瞬だけ凍りつく。
——規定違反を確認。
——重大違反。
——資格剥奪プロセスを開始。
声が、冷たく落ちてくる。
容赦はない。
当然だ。
それが“ルール”だから。
女神の身体が、わずかに揺れた。
光が、崩れ始める。
輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
まるで、消しゴムで削られていくみたいに。
「……ああ」
小さく、息を吐く音。
女神は、自分の手を見ていた。
透け始めている指先を。
「……本当に、なくなるんですね」
その言葉は、不思議と穏やかだった。
恐怖もあるはずなのに。
それでも、どこかで納得している。
「そうみたいですね」
俺は答える。
軽く。
いつも通りに。
女神は、少しだけ笑った。
ほんのわずかに。
「……怖いです」
正直に言う。
「でしょうね」
「後悔するかもしれません」
「するでしょうね」
全部、否定しない。
女神は、少しだけ目を細めた。
「……それでも」
続ける。
「選びました」
その言葉には、もう迷いはなかった。
透けていく身体の中で、その意志だけがはっきりと残っている。
白い空間が、少しずつ崩れていく。
維持していた“何か”が、解かれていく感覚。
「……ありがとうございます」
女神が、こちらを見て言った。
「何がですか」
「選択というものを、教えていただきました」
少しだけ首を傾ける。
「別に、教えたつもりはないですけど」
「それでも、です」
女神は静かに言う。
その口調は、最初と同じくらい丁寧で——
でも、意味はまったく違っていた。
形式じゃない。
自分で選んだ言葉だ。
身体の崩壊が、進む。
肩のあたりが、もう半分ほど消えている。
それでも、女神は立っていた。
「……貴方は」
最後に、問いかける。
「戻られるのですね」
「はい」
短く答える。
「変わらず」
「変わらず」
繰り返す。
女神は、ほんの少しだけ安心したような顔をした。
「……それで、良いと思います」
その言葉には、もう“誘導”はなかった。
ただの肯定。
それが、少しだけ不思議だった。
「……あの」
女神が、もう一度だけ口を開く。
「はい」
「もし」
一瞬、言葉を迷う。
そして、続ける。
「どこかで、またお会いすることがあれば」
その言い方は、どこか曖昧だった。
神としての再会じゃない。
もっと、別の意味での。
俺は、少しだけ考えて。
「その時は」
答える。
「また、お話しましょう」
軽く言う。
女神は、一瞬だけ目を丸くして——
それから、笑った。
今度は、はっきりと。
「……はい」
頷く。
その瞬間。
光が、ほどけた。
女神の姿が、完全に崩れる。
白い空間が、音もなく割れていく。
すべてが、静かに終わっていく。
最後に残ったのは——
ほんの少しの、柔らかい気配だけだった。
暗転。
ピッ、ピッ、という音が、やけにうるさい。
重たいまぶたを、ゆっくりと開く。
白い天井。
見慣れないはずなのに、どこか現実的な光。
喉が、ひどく乾いている。
体が、思うように動かない。
それでも。
「……戻った、か」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分で確認するように。
あの白い空間は、もうない。
女神の姿も、どこにもない。
残っているのは。
少しだけ重い体と。
それでも、確かにここにある現実だけだった。




