最終話 それでも、続いていく
最初に感じたのは、重さだった。
体が、自分のものじゃないみたいに重い。
指先を動かそうとしても、うまくいかない。
視界はぼやけていて、音も遠い。
それでも——
「……起きた?」
誰かの声がした。
かすれている。
たぶん、泣いていたんだと思う。
焦点が、ゆっくりと合っていく。
見慣れた顔があった。
家族だ。
何かを言おうとして、喉が引っかかる。
うまく声にならない。
「……水」
やっと、それだけ絞り出す。
誰かが慌てて動く気配。
そんな小さなことが、妙に現実的だった。
そこからは、時間がかかった。
すぐに元通り、なんてことはない。
体は言うことを聞かないし、頭も鈍い。
リハビリ。
検査。
説明。
同じような日々が、ゆっくりと続く。
気がつけば、季節が一つ変わっていた。
ある日。
スマホを触れるくらいには回復した頃だった。
何気なく、メールを開く。
溜まっていた通知の中に、一つだけ気になる件名があった。
会社からだ。
嫌な予感しかしない。
開く。
文章は短かった。
事務的で、感情がない。
要約すれば——
長期就業不能により、雇用契約を終了する。
それだけだった。
「……ああ」
思わず、声が漏れる。
まあ、そうなるよな、とは思った。
むしろ、想定内だ。
驚きは、ない。
ただ。
少しだけ、空っぽになる。
ベッドの上で、天井を見上げる。
白い天井。
あの場所と似ているようで、全然違う。
「……クビ、か」
呟く。
誰に言うでもなく。
不思議と、怒りは湧かなかった。
納得もしていないけど。
ただ、そういうものか、と思った。
さらに、数ヶ月後。
体もだいぶ動くようになってきた頃。
ニュースを見て、少しだけ手が止まった。
見覚えのある会社名。
元いた会社だ。
内容はシンプルだった。
内部告発。
長時間労働、違法な管理体制、隠蔽。
いくつもの問題が、一気に表に出たらしい。
結果。
炎上。
そして、倒産。
「……そっか」
それだけ言った。
特に感想はない。
驚きも、喜びも、あまりない。
ただ、そうなるだろうな、と思っただけだ。
リモコンを置く。
画面はそのまま、別のニュースに切り替わる。
もう関係ない。
本当に、それだけのことだった。
数日後。
外に出られるようになって、少しずつ日常に戻り始めた頃。
駅前で、声をかけられた。
「……久しぶり」
振り向く。
そこにいたのは、元同僚だった。
少しやつれた顔。
でも、どこかで見覚えのある表情。
「生きてたんだな」
「まあ、なんとか」
軽く返す。
少しの沈黙。
ぎこちない空気。
それから、同僚がぽつりと呟く。
「……会社、ああなったな」
「みたいですね」
「俺、あの後すぐ辞めたんだ」
「へえ」
「で、あいつらのやってたこと、全部バラした」
淡々とした口調。
でも、その奥にあるものは軽くない。
「……そうですか」
それ以上は、何も言わなかった。
同僚も、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……あの時さ」
視線を落としたまま、言う。
「辞めればよかったんだよな」
その言葉は、後悔だった。
誰に向けたものでもない。
ただ、自分に向けたもの。
俺は少しだけ考える。
それから、ゆっくりと言った。
「辞めてもよかったし、続けてもよかったと思いますよ」
同僚が顔を上げる。
「どっちでも」
続ける。
「自分で決めてれば」
静かに言った。
同僚は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ驚いたような顔をしていた。
それから、苦笑する。
「……相変わらずだな」
「そうですか?」
「いや、なんか……」
言葉を探すようにして。
「前より、ちゃんとしてる」
曖昧な評価だった。
でも、悪くなかった。
「そうですかね?」
軽く流す。
しばらくして、同僚は手を振った。
「じゃあな」
「はい」
短い別れ。
それだけで、十分だった。
一人になって、少しだけ立ち止まる。
人の流れ。
車の音。
ざわざわした日常。
全部が、普通だ。
特別なものは何もない。
でも。
「……まあ」
小さく息を吐く。
「こんなもんか」
悪くない、とは言わない。
良いとも言わない。
ただ。
続いている。
それだけで、十分だった。
仕事は、すぐには見つからなかった。
当たり前だ。
ブランクもあるし、体も完全じゃない。
それでも、いくつか応募して、落ちて。
また探して。
そんなことを繰り返していた。
ある日。
駅前の掲示板をぼんやり眺めていたときだった。
「……あの」
声がした。
丁寧で、少しだけ不慣れな響き。
振り向く。
そこに、女性が立っていた。
見覚えがあるような、ないような顔。
でも——
その口調だけは、やけにはっきりと覚えていた。
「……お仕事は、見つかりましたか?」
一瞬、言葉に詰まる。
それから、少しだけ笑った。
「いや、まだ探してる最中です」
正直に答える。
女性は、ほんの少しだけ頷いた。
「……そうですか」
間。
ほんの少しの沈黙。
それから、彼女は続けた。
「私も、その……」
言葉を探すように視線を泳がせる。
「探しているところでして」
「へえ」
軽く返す。
少しだけ、空気が和らぐ。
なんとなく。
本当になんとなく。
わかる。
「じゃあ」
俺は言った。
「一緒に探します?」
深い意味はない。
ただの提案。
でも。
彼女は、少しだけ驚いた顔をして。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その返事は、前よりもずっと自然だった。
丁寧だけど、どこか柔らかい。
風が吹く。
人が行き交う。
特別なことは、何も起きていない。
ただ。
少しだけ、未来が続いていく気がした。
完璧じゃない人生を、選び続ける。
後悔も、失敗も、たぶんこれからもある。
それでも。
それでもいいと、思えた。
それが——
自分の人生だった。
[完]




