第5章
昼休みの時間。櫻井千鶴は1人机に座り、持参した弁当をゆっくりと食べながら、今朝の激しい母親との喧嘩の事を思い出していた。それはそれは激しい言い合い。櫻井は言い過ぎたかもと反省をしていたが、それでも今日は母親と口を利いてやるものかと決意を固めていた。とはいえ、今食べている弁当は母親が作ってくれた物。櫻井は口を付けないのはさすがにやり過ぎだと考え、弁当を食していた。
櫻井の周りでは数人のグループを作って昼食を取る者がほとんどで、1人きりで昼食を取っている者は櫻井しかいなかった。櫻井は別に友人がいない訳では無かったが、群れるような事を好まなかった。1人でいる事が多いが、1人でいる事が嫌いではない、そんな女子高生だった。
教室の右前方に座る櫻井は、ふと後ろを振り返った。左後方に女子3人が机を合わせ、昼食を取っており、楽しそうな声が聞こえてきた。その中の1人と櫻井は一瞬目が合った。櫻井はすぐに視線を外し、再び昼食を取り始めた。気付かれていない事を祈りながら、櫻井は弁当に入っていた冷凍唐揚げを口にした。
「櫻井さん。」
彼女は櫻井の視線に気付き、すぐに側にやって来て声を掛けてきた。櫻井は慌てそうになる自分を必死に抑えた。顔を上げると、彼女は優しく微笑みながら櫻井の事を見つめていた。その美しい大きな瞳に、櫻井は思わず見入ってしまった。
「一緒に食べない?」
「ああ⋯。」
櫻井は返答に困り、分かりやすく困惑した。
「よく1人で食べてるけど、良かったら⋯。」
「ありがとう。でも⋯大丈夫。」
櫻井はすぐに視線を下ろした。
「そっか。分かった。なんかごめんね。」
彼女が謝ると、櫻井はハッとして視線を上げた。しかし、彼女はすでに後ろの席の方へ戻り始めていた。何か言われるだろうか。陰口を叩かれるだろうか。嫌われてしまっただろうか。櫻井は不安に襲われ、広げられた弁当をしまうと、教室を出た。真っ直ぐ女子トイレに向かい、空いていた個室に入ると、ドアにもたれ掛かった。教室を出てしまった事で、さらに何か言われているだろうか。櫻井は目を閉じて、深く息を吐いた。もう教室に戻りたくない。そんな心境だった。
彼女⋯藤代優実と出会ってから、櫻井の心は毎日掻き乱されていた。
5時間目、休み時間、6時間目⋯あれ以降、櫻井は藤代の事で頭が一杯だった。櫻井は藤代と会話した事がほとんど無かった。グループ学習の時間にたまたま同じグループになった時や、座席が偶然近かった時くらいにしか会話をした事がなかった。久し振りの会話が、あんな風に終わってしまった事を櫻井は心の底から悔いていた。
帰りのホームルームが淡々と進行していく。終わったらすぐに帰宅する決意を櫻井は固めた。少しすると、担任の前田教諭が帰りの号令を日直に指示した。全員が立ち上がり、帰りの挨拶を行う。それが済むと、櫻井はすぐに下駄箱の方へ向かおうと考えたが、ある事を思い出した。櫻井は今日、放課後の掃除当番の日だった。急いで帰りたい日に限ってこれだと、櫻井は軽く溜め息をついた。
掃除当番以外の者はあっという間にいなくなった。櫻井は他の当番の者数名と掃除を始めた。櫻井は掃除箱から箒を取り出し、教室内を掃き始めた。辺りを見渡すが、藤代はとっくに教室からいなくなっていた。自分が急いで帰るまでも無かったと、櫻井は少し安堵した。
しかし、窓際の床をゆっくりと箒で掃いている時だった。
「櫻井さん。」
彼女の声が聞こえた。櫻井が振り返ると、鞄を持った藤代がそこにいた。
「は、はい。」
櫻井は何を話せばいいか、訳が分からなくなってしまった。帰ったと思っていた彼女が目の前にいる。まさか自分の事を待っていたのか?一瞬で様々な考えが櫻井の頭を過ぎった。
「この後、時間あるかな?」
「えっ。」
「櫻井さんとお話ししたくて。」
予想外の展開に櫻井は驚いた。断る理由はないが、一体何故?やはり先程の自分の態度の事だろうか。櫻井は一気に不安になった。
「お話⋯私と?」
「うん。」
「藤代さん、部活は?」
藤代はバスケット部に所属していた。
「辞めたの。」
「辞めたの?」
「うん。昨日で辞めちゃった。」
「どうして⋯?」
「うーん。別にこれといって理由はないんだけど⋯なんかやる気が起きなくなっちゃって。」
「⋯そうなんだ。」
「だから、いい?櫻井さんも帰宅部でしょ?」
「そうだけど。」
「じゃあいいよね?この後、私に付き合ってよ。」
櫻井はどうしても藤代に聞きたい事があった。
「あの⋯どうして私なの?」
そう尋ねられた藤代は真っ直ぐに櫻井の事を見た。
「櫻井さんに質問があって。」
そう藤代が答えると、櫻井は全身が熱くなった。自分が見透かされている様な気がした。
「じゃあ掃除終わるの、廊下で待ってるからね。」
そう言うと藤代は廊下の方に歩いて行った。他の掃除当番のメンバーがチラチラと自分の事を見ている事に、櫻井は気付いていた。この場に残るのも気が引けると感じた櫻井は、箒を素早く動かし始めた。
掃除の時間が終わり、担当のクラスメイトはあっという間にいなくなった。櫻井は鞄を持ち、ゆっくりとドアから廊下を覗いた。教室から少し離れた廊下の窓際に、藤代は立っていた。覗いた櫻井に気付き、藤代はすぐに笑顔になった。櫻井は緊張しながらも、ゆっくりと藤代の元へと近づいた。
「掃除終わった?」
「うん。」
「そっか。じゃあどうしようか。」
「その⋯いいの?」
「何が?」
「ほら、私。藤代さんと同じグループじゃないし⋯。」
「グループ?」
「私といる所、もし誰かに見られたりしたら⋯何か言われない?」
「言われるって何を?」
藤代がじっと櫻井の事を見つめてくる。
「ああ、陰口的なやつ?」
「そう⋯。」
「もしそんな事言ってくる人がいたら、私その人と縁切るよ。」
その言葉に櫻井は嬉しくなったが、すぐに照れを隠した。
「取り敢えず学校出ようよ。櫻井さんって電車通学?」
「そう。」
「私と同じだ。じゃあ自転車とかじゃないよね?」
「うん。」
「分かった。じゃあさ、駅前のカフェ行こうよ。私、あそこの新作が飲みたかったんだ。」
そう言うと藤代は櫻井の有無を聞かずに歩き出した。櫻井は藤代の後についていくしかなかった。
下駄箱で靴に履き替えている最中、櫻井はつい我慢が出来ずに質問した。
「ねえ藤代さん。私に聞きたい事って何?」
藤代は丁度上履きを脱ぎ、靴を取り出している所だった。
「それ、今聞くの?」
「だって⋯気になるから。」
藤代は靴に履き替えると、真っ直ぐ櫻井の方を向いた。
「櫻井さん、時々私の事、見てるよね?」
藤代の核心を突く言葉に、櫻井は彼女の事を見たまま動けなくなってしまった。やっぱりその事だった。彼女は気が付いていた。体が熱くなり、汗が噴き出しそうな感覚を櫻井は感じた。
「どうして見てるのかなと思って。ずっと聞きたかったの。」
「そ、それは⋯。」
「あ、やっぱり見てるよね。」
否定が出来なくなり、櫻井はさらに追い詰められた気がした。
「その⋯と、特に理由がある訳じゃ⋯ない。」
「そうなの?」
「⋯うん。」
無理がある。櫻井はどう話したらいいのか自分でも分からなくなっていた。
「ふーん。」
藤代は軽く頷いた。すると、ゆっくりと櫻井の方に近づいた。
「な、何?」
「櫻井さんって、可愛いよね。モテるでしょ。」
「はっ!?可愛くないよ!モテないよ!全然!」
「嘘だ。」
「本当だよ!藤代さんの方が可愛くて、モテるでしょ!」
そう言うと櫻井は無言になり、まだ自分が失言した気がして赤面した。それを見て藤代が小さく声を出して笑い始めた。
「櫻井さん、やっぱり可愛いよ。」
笑顔の藤代を前に、櫻井は彼女に一瞬で見惚れてしまった。
「取り敢えず、カフェ行こ。ね!」
駅前のカフェには行きたいとは思っていた。だが、まさか彼女と行く事になるとは想定もしていなかった。櫻井は未だに夢見心地の中、急いで靴に履き替えた。




