第36章
櫻井が扉を優しくノックした。
「千鶴⋯?」
恐る恐る、ゆっくりとドアを開ける。ベッドの上で足を伸ばして座る、藤代の姿がそこはあった。
「おやおや神谷、誰を連れて来たのかと思ったら。これは思わぬ来客だ。」
藤代が嘲笑する。
「千鶴⋯?千鶴なのか?」
「そっちに会いたいのか。」
櫻井は藤代に近付いた。
「千鶴⋯なんだろう?お父さんだ。」
櫻井は右手を伸ばし、藤代の頬に触れた。
「ゆみちゃんに触らないでっ!」
藤代がそう叫ぶと、櫻井は驚いて手を引っ込めた。
「千鶴⋯?」
「⋯お父さん。」
そう言われると、櫻井はその場に跪き、両手を重ね、喜びに打ち震え始めた。
「分かる⋯分かるぞ⋯!千鶴だな!千鶴なんだな!」
藤代の顔は、何処か気まずそうな、そんな表情を浮かべていた。
「何しに来たの⋯お父さん。」
「会いに来たんだ!当たり前じゃないか!そうだったんだな!この子の中に入っていたんだな!そうかそうか!こっちに戻ってこれたんだな!」
櫻井は涙を流し始めた。
「お父さんのお陰で、ゆみちゃんと一緒になれた。」
「違う!俺のおかげだ!」
「ご⋯ごめんなさい。」
藤代が1人で会話し始める。
「邪魔するな冥縛!」
「誰に物を言っている!」
櫻井の体が吹き飛んだ。壁に叩きつけられ、櫻井は痛みに顔を歪ませた。
「止めて!お父さんには⋯何もしないで下さい!」
「黙れ小娘が!」
「お、お願いします!」
藤代の体が激しく痙攣し始めた。
「千鶴っ⋯!」
痙攣がピタっと止まり、藤代は櫻井の事をじっと見つめた。
「中川さんを殺したんだね。」
その言葉を聞いて、部屋の隅にいた神谷は、櫻井を睨見つけた。
「中川さんは今⋯ううん⋯永遠にこっち側で苦しみ続けるよ。可哀想に。」
「殺したかったんだろうあの子を?だから刺したんだろう?」
「あの時の私は⋯どうかしてた⋯。」
「でも恨んでた。中川瑞稀を恨んでいただろう?だから、お前はこっちに来れたんじゃないか。まさか彼女の事を⋯藤代さんの事を恨んでいたとは思わなかったが⋯。」
「恨んでない⋯。」
「恨んでた。だから彼女の中に⋯。」
「止めて!」
「違う!違うんだよ!こんな事を話に来たんじゃない!お父さんはお前と⋯どれだけ会いたかったか⋯どれだけ話したい事があったか⋯!」
「何を今更⋯。」
「そうだ!あの時ちゃんと話してやれなくて、ずっと後悔してた!謝りたかったんだ!ごめんな⋯ごめんな千鶴⋯!」
「お父さん⋯。」
2人の会話を、神谷は黙って聞いていた。
「朋子を⋯何でお母さんを殺したんだ?」
「⋯お母さんは、私を私だと認めなかった。あの時⋯お母さんの事が憎くて憎くて堪らなかった!」
「そうか。もういい。朋子とも会えているのか?」
「会えてないよ。お母さんとは別の所に、私はいる。」
「そうなのか。」
「お父さん、もう帰って。お父さんには会いたくないの。」
「どうしてそんな事を言うんだっ!お父さんなあ⋯そうだ⋯お前、コーヒー好きだっただろう?まだ高校生なのに⋯無理してブラックなんか飲んで⋯。だからお父さん、カフェを開いたんだ。お前が好きなコーヒーが飲めるお店だよ⋯だから。」
「帰って!」
「何で⋯。」
「帰ってよ!」
1階、散らかったリビングに置かれたダイニングテーブルに、鈴村と黒岩は座っていた。
「おお、おお。何か凄い騒いでますね。」
「久し振りの親子の対面か。」
「神谷さん、大丈夫ですかね。」
「あいつは大丈夫だ。」
2人は天井を見上げた。
「結局、2階にいるあのおじさんの儀式は、失敗して成功した、って事なんですかね。」
「その魂が生前、怨みを持っていた者を利用する。だから櫻井始は中川瑞稀さんを利用した。しかし、櫻井千鶴が彼女の中に入る事を嫌がったのか⋯もしくは彼女ではなく、もう1人怨みを抱く者の中に入ったのか。詳しい事は分からんな。」
「それが藤代優実だった⋯って訳ですね。恋人なのに恨んでたの、意味分かんないです。」
「鈴村。」
「はい。」
「恋愛ってのは、色々あるんだよ。」
「何かあったんですか、黒岩さん。」
また2階から激しい物音が響いた。
「冥縛は、櫻井千鶴の魂に引っ付いて来たって事ですよね?なのに偉そうにしてる。とんでもない奴。」
「悪霊なんてそんな物だ。人を利用して、人に棲み着く。問題は冥縛ってところだなあ。」
鈴村は立ち上がり、窓のカーテンを開けた。家の正門前に、何十人もの人集りが出来ている。皆、表情が無く、じっと鈴村の事を見つめた。鈴村は不気味になって、すぐにカーテンを閉じた。
「黒岩さん、私達ここから無事に出られますよね?」
「大丈夫だよ。多分。」
「多分って!」
「だから誰も冥縛を降ろしたがらないんだ。面倒だから。」
「千鶴!お父さんと一緒に行こう!」
「帰ってってば!」
「櫻井さん。」
神谷が会話に割って入った。もう限界だと判断したのだった。
「うるさいっ!邪魔するなっ!」
「邪魔してるのはお父さんでしょ!?私はゆみちゃんと一緒!お父さんは関係ないっ!帰って!二度と来ないで!」
「千鶴ぅぅぅぅぅっっ〜!」
「帰れ老いぼれ!帰れ帰れ!あっはっはっはっ!」
冥縛が手を叩いて、大声で笑い散らかす。
「櫻井さん、ここまでです。あなたが降ろしたのは千鶴さんではない。こいつなんです。千鶴さんがそこにいたとしても、彼女は冥縛と共にいる。あなたの知っている千鶴さんじゃない。」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。」
櫻井はフルフルと震え、涙を流していた。
「哀れで可哀想な奴め。安心しろ。お前の娘は俺が大事に扱ってやるわ!」
「行きましょう、櫻井さん。あなたは罪を犯している。分かっているでしょう。」
櫻井は、もはや心が折れていた。神谷は崩れ落ちる櫻井の腕を掴み、無理矢理立たせた。
「神谷!お前はまだ殺さない!とっとと帰れ!お前とは面と向かってやり合わないとなあ!あっはっはっはっ!」
「ご心配なく。そのつもりだよ。」
その後、4人は無事、藤代家を離れる事が出来た。神谷達が家を出る頃には、家の前に集まっていた人集りは無くなっていた。
藤代家を出たその足で、神谷達に連れられ、櫻井始は警察に出頭した。心が折れ切ってしまったのか、娘に見放され諦めたのか⋯何を思ったのかは分からないが、彼は中川瑞稀の殺害を自供したのだった。
翌日、秩父山地の森の中。地面の下から、中川瑞稀の遺体は発見された。腐敗が進んでおり、身元の確認には時間を要すると判断されたが、中川本人である事は、もはや明白であった。
そして櫻井始が藤代優実と接見した日から、都心を中心に暴行事件や強姦事件、謎の不審火による火事が多発し始めた。
事務所に置かれた小さなテレビの中では、また都心で起きた謎の連続火災を伝えるニュースが流れていた。
「これ⋯本当に冥縛の仕業なんですか?」
「証明する方法はない。間違いないと思うが。」
神谷は雨の降る曇天の空を、窓から見上げた。
「神谷、他所から助けを呼ぶか?」
黒岩が重い口を開いた。
「いえ、俺と鈴村でやりますよ。そっちの方がやりやすい。俺と鈴村が死んだらお願いして下さい。」
「ちょっと!なんて事言うんですか神谷さん!」
「いや、ありえるから。」
そう言われ、鈴村は内心、心拍が上がった。
「わ、私で大丈夫ですか?」
「何だ珍しい。冗談だよ、ビビってるのか?」
「嫌だなぁ、そんな訳ないじゃないですか。」
鈴村は笑いながら、手を振った。
「怖い目に遭ったんだもんな。無理もない。すまん。」
「神谷さん、謝らないで下さいよ。大丈夫ですから、本当に。」
「なら、今日だ。」
「えっ。」
「今日やる。」
神谷は鈴村と黒岩に宣言した。
「今日ですか?」
「そうだ。」
「どうやるんだ?」
黒岩が尋ねた。
「まずは冥縛を祓います。櫻井千鶴はその後です。冥縛を祓えば、彼女も一緒にいなくなる可能性もありますが、多分それはないでしょう。肉体に憑依する時は一緒だったにせよ、今は見た感じ完全に独立した状態です。別々にやります。そのつもりでいた方がいい。」
「そうか。」
「鈴村。」
「はい。」
「2人でやる。」
「それは分かってますよ。」
「そうじゃない。同時祓いでいく。」
「同時祓い⋯。」
祓禍衆が呪祓いを行う場合、必ずメインとなる祓い師を1人決める。その者が祓いを行う事になり、他に誰かがいたとしても、その他は皆サポート役に徹する事になる。10人の祓い師がその場にいたとしても、1人が祓いを主導し、他の9人は裏方役になるのである。同時祓いは文字通り、2人で祓いを主導し、進めていく事である。
「私、同時祓いなんかした事ありませんよ。」
「頑張って。」
「頑張って!?」
「出来るだろ。お前なら出来る。」
鈴村に緊張が走る。これまで神谷と同時祓いをした事はない。つまり冥縛は、それ程までに強大な相手だという事だった。
「で、黒岩さんには結界をお願いしたいです。」
「あの家でするんだろ?」
「そうです。今なら近所迷惑なんて考えなくていいでしょうし。」
「分かった。私に任せろ。」
黒岩はそう言うと、固定電話を手に取り、電話を掛けた。
「お疲れ様です、黒岩です。及川さん、お着付けの出番ですよ。」
黒岩が電話をしていると、鈴村が事務所内をウロウロと歩き始めた。
「落ち着けって、鈴村。」
「こう見えて落ち着いてます。」
「ウロウロしながら貧乏揺すりしてる奴が、落ち着いてるとは思えないな。」
「神谷さんの足を引っ張りたくないんですよ。」
鈴村は、らしくない真顔で神谷に伝えた。
「俺は、お前を足手まといだと思った事はない。」
神谷もまた、真剣な眼差しで鈴村を見た。
「何のために祓禍衆になった?」
「困っている人を助けるためです。」
「俺も同じだよ。だからやるんだ。2人で。」
「⋯分かりました。」
「及川さんが来る。」
電話を終えた黒岩が、2人に告げた。
「連絡ありがとうございます。」
「私、ちょっと集中してきていいですか?」
「うん、いいよ。」
そう言うと鈴村は、応接室に閉じ籠もった。黒岩は心配そうに、鈴村を見送った。
「鈴村でいいんだな?神谷。」
「はい。」
「お前がいいなら、いい。」
「黒岩さん⋯。」
「相手が伝承の冥縛だとしたら、相手が悪い。私は部下を守る義務があるんだ。特に、鈴村はまだ若い。若い芽を摘むようなマネはさせたくないんだ、お前にも。」
「俺とあいつなら、やれます。」
神谷は断固として、鈴村との同時祓いにこだわった。神谷と黒岩の間に、無言の時間が流れたのだった。
すると、固定電話が鳴り響いた。黒岩はすぐにそれを手に取った。
「はい。あ、どうも後藤さん。実は今日これから⋯ええ⋯ええ⋯ええっ⋯。」
「鈴村!」
神谷がいきなり応接室の扉を開けた。鈴村はソファに深く座り込んでいたが、驚いてその場に飛び上がった。
「びっくりしたぁ!ノックくらいして下さいよ!」
「緊急自体だ。後藤さんから電話があった。」
「後藤さん⋯鼻大丈夫かな⋯で、何ですか?」
「冥縛が⋯家から抜け出した。」
「ええっ嘘でしょ!」
「あまりにも彼女が心配で家の前に行ったら、2階の窓ガラスが割れていたそうだ。多分、抜け出した。確認しに行ってくるが⋯。」
「や、ヤバいじゃないですか。」
すぐ近くで落雷が鳴り響いた。鈴村が女の子らしい叫び声を上げた。




