第34章
中川は体の至る所にアザを作り、リビングの床に力なく倒れていた。殴打された痛みで、体が全く動かない。再びガムテープを口に巻かれ、この場から動くなと櫻井から指示されたが、そう言われるまでもなく、彼女に体を動かす力は、もう残ってはいなかった。櫻井は鍵を掛けて、何処かへと出て行ってしまった。しかし、どうする事も出来ない。中川はただ呆然と、自分の顔の少し前に置かれた、白い骨壺を眺めていた。
櫻井千鶴⋯元クラスメイト、自分の背中を包丁で刺して、その後すぐに飛び降り自殺を図った女の子。あの時の激しい痛みと恐怖を、中川は忘れた事は無かった。ほんの数ミリ刺された箇所が左にズレていたら、おそらく即死だったと医師から説明され、顔面蒼白になった事も、彼女はハッキリと覚えていた。
背中を刺された時、一体何が起こったのか、中川は理解出来ていなかった。手術が終わり、入院してしばらくしてから事の顛末を聞かされた。あなたの後ろの席に座っていた櫻井千鶴が、いきなり包丁であなたの背中を刺したのだと。そして、彼女は自殺したのだと。
中川は当然、櫻井千鶴に激しい憤りを覚えたが、彼女が死んでしまった以上、その怒りの矛先をどこにぶつければいいのか分からなかった。しかも、自分を刺して自殺する前に、なんと自分の母親を殺していたという。あの子は母親を鈍器か何かでぶん殴って撲殺した後に、学校にやって来たのだ。中川はゾッとした。とんでもない奴をいじっていた。ただの陰キャじゃ無かった。ただのビアンじゃ無かった。なんて恐ろしい女。なんて気色の悪い女。中川は櫻井千鶴の事を、心の底から軽蔑した。
だから中川は、入院中、櫻井千鶴の父親がスーツを来て、自分の病室に土下座をして謝罪しにやって来た時、怒りを感じて見下した態度を取った。とんでもない女の父親。こいつだって、とんでもない男に決まっている。当人が死んだからって、絶対に許すものか。娘と妻を失った哀れな奴⋯知った事かと、中川は鬼の形相で櫻井始を睨み付けた。
そして今、あの男は自分にとんでもない事をしている。犯罪も犯罪、大犯罪だ。しかし、身動きが取れず、声も出せない以上、どうする事も出来ない。一体あの男は自分の事をどうするつもりなのか⋯中川は恐怖と痛みを感じながら、ただ床に横たわり続けていた。時計を見ると、時間は既に深夜12時を回っている。
玄関の方からガチャガチャと音が鳴った。ドアが開き、早足で櫻井が部屋に入って来た。彼は見下すように中川の事を見た。
「何か話したか?千鶴と。」
そう言われると、中川は目の前の骨壺から目線を逸らした。
「申し訳なくて、掛ける言葉もないか。」
櫻井は中川に近付き、乱暴に彼女の頭を掴んだ。
「下に車を停めてある。車まで降りろ。俺は常にお前の真後ろにいる。逃げ出したり、声を出した瞬間に、千鶴がしたように、お前の背中に包丁を突き刺す。今度は、確実に心臓を狙って。」
中川は櫻井を睨み付けたが、すぐに顔面を殴られた。
「分かったか?」
中川は痛みに涙を流したが、彼女からの反応が無かったため、櫻井は再び彼女の顔面を殴った。ついに中川は、ゆっくりと頷いた。
「手間を取らせるな。」
そう言うと、櫻井は彼女の脚を縛っていたロープをナイフで解いた。
「さあ立て。」
櫻井は中川の腰に手をやり、無理やり立たせた。中川は立ち上がると同時にぐらつき、壁に寄り掛かった。そして、その瞬間放尿し始めた。履いていたジーンズが濡れ、床に滴る。その行為は、彼女なりの抵抗の表れだった。
「だらしない奴だ。千鶴も笑っている。」
櫻井は骨壺をリュックサックにしまうと、中川に包丁を突きつけた。
「さあ、歩け。」
素足のまま中川は玄関を出た。階段から下を見下ろすと、黒いワンボックスカーが停まっているのが見える。周りには誰も歩いておらず、さらに近くある建物のどの部屋も、灯りは点いていないようだった。櫻井は包丁の先を、中川の背中にぴたりとくっ付けていた。その圧を感じ、中川は彼の指示に従うしかなかった。アパートの廊下をあっという間に過ぎると、静かに階段を降りていく。殴られた脚を引きずりながら、中川は用意された車へと近付いていく。
「止まれ。」
櫻井はワンボックスカーの後ろ扉を開けた。がらんとしたその空間に、彼は包丁で指示を出した。
「乗れ。そして、座れ。」
中川は恐る恐る車に乗り込み、ゆっくりと体育座りをした。直ぐ様、櫻井が持参したロープを使って、彼女の脚をぐるぐる巻きにした。そして、思い切り拳を中川の溝内に入れた。
「んぐっ。」
苦痛の声をガムテープの下から漏らすと、中川はその場に倒れ込んだ。扉を閉め、櫻井が直ぐ様運転席へと乗り込む。そして、バックミラー越しに中川の事を見た。
「もしも、誰かに見られたら解放するつもりだった。本当だ。でも、誰もいなかったな。お前の日頃の行いが悪いからだろう。」
櫻井はエンジンキーを入れ、アクセルを踏み込んだ。中川は自分の運命を考えたが、どう転んでも悪い方向にしか行かないだろうと、口の中が切れたせいで流れ出した血の味を感じながら、そう思った。
櫻井始の人生は、その日を境に大きく変わってしまった。娘の千鶴が、妻の朋子を自宅で殺害し、その後学校のクラスメイトを包丁で襲った後、教室から身を投げて自殺した。警察から説明を受けても、その内容は彼の頭の中に入って来なかった。とても事実とは思えず、きっと何かの間違いだと考えた。しかし、警察署内の霊安室で安置された娘と妻の遺体と対面した時、櫻井の中で何かが壊れてしまった。
朋子は、後頭部を鈍器のような物で殴られていた。倒れた後も、馬乗りになられ、何度も何度も後頭部を殴り続けられたようだった。その為、後頭部の損傷が激しかったが、幸い顔には傷1つ無く、まるで眠っているかのような死顔だった。
千鶴は、校舎の3階から落下した。それも頭から。強固なコンクリートの地面に衝突し、前頭部と顔面が一瞬で弾け、それと同時に首の骨も折れた。全身が叩きつけられ、様々な箇所を骨折し、内臓が傷付いたが、頭を叩き付けた時点で、ほぼ即死であった。その死顔はあまりにも痛々しく、生前の面影は、ほとんど存在しなかった。
しかし、それだけでは無い。櫻井は、千鶴は飛び降りる直前に、クラスメイトの女子児童を包丁で襲ったと警察から説明された。その女子児童は背中を刺され、重体だという。
何故、千鶴はそんな事をしたのか。母親を殺し、同級生を襲い、自らの命を絶つ。正気の沙汰ではない。何が娘をそうさせたのか。数日前から、千鶴は朋子と喧嘩をしたようで、家族間の雰囲気は悪かった。そのせいなのか。しかし、では何故同級生を襲ったのか。そもそも、自殺する理由がまるで分からない。
櫻井は無力感を味わう他なかった。娘の事を、何も分かっていなかったと自分を責めた。仕事の忙しさを言い訳にせず、もっと娘と話せばよかった。何やら交際関係の話で朋子と揉めていたようだが、もっと気遣いが出来たのではないか?同性愛の話を朋子から聞いた時に、もっと親身になって話し掛ければよかったのではないか?
しかし、もう何もかも遅いと、櫻井は悟った。妻と娘は死んだのだから。
数日後、千鶴が襲った女子児童=中川瑞稀は、奇跡的に命を取り留めた。櫻井は彼女が入院する病院に出向き、土下座をして謝罪した。中川の両親は激怒し、本人も憤怒の表情浮かべた。それでも彼は、頭を下げる他なかった。治療費は櫻井が負担した。それが父親としての責務だった。
千鶴と朋子の通夜を翌日に控えた朝、櫻井の家に訪問者が現れた。藤代優実という千鶴のクラスメイトだった。通夜・告別式は隠密に済ませようと家族葬の予定であったが、目を真っ赤に腫らし、泣きじゃくる藤代は、自分も参列させてくれないかとお願いをしてきた。櫻井は、彼女から告げられる前に気が付いていた。この子が千鶴の恋人であろうと。
「ちゃんと⋯お別れをしたいんです⋯。」
「君は⋯千鶴の⋯。」
「⋯恋人です⋯。」
藤代は今にも消えそうな声で呟いた。
「千鶴はどうして⋯。」
櫻井も、声が震えた。
「千鶴はどうしてっ、こんな事をしたんだっ!?」
声を荒げるつもりは無かったが、思わず感情が高ぶり、櫻井は藤代に詰め寄ってしまった。彼女も関係しているとしか思えなかった。しかし、彼女は大粒の涙を流しながら謝罪を繰り返すだけだった。もうそれ以上、櫻井は何も掛ける言葉が無かった。
藤代は通夜・告別式に参列した。彼女は終始涙を流した。最後のお別れの際、藤代は恋人が眠る棺にすがり、ただ大声を上げて泣き叫んだ。エンバーミングを施された恋人の顔を見つめながら、藤代は出棺の時まで名前を呼び続けた。『ちーちゃん』と。
櫻井は、ここまで自分を想ってくれる恋人が娘にいたという事に驚いた。同時に、朋子が難色を示していた同性愛について、もっと理解を持つべきだった、千鶴から話を聞けばよかったと、深く恥じた。
「藤代さんは、自分の人生を生きなさい。」
櫻井は、藤代に声を掛けた。
「⋯私⋯千鶴さんがいないと⋯無理です⋯。」
「千鶴の分まで自由に生きて。娘の事を想ってくれるなら、それが何よりの供養になります。」
「⋯でも⋯。」
「君は生きなければならない。」
その後、櫻井は躁鬱病と不安障害を患い、勤めていた会社を退職した。とはいえ人の目もあり、患わずとも退職は避けられなかった。妻が殺害された場所にも居られなかった。住んでいたマンションも引き払い、一人暮らし用のアパートへと引っ越した。そして櫻井はしばらくの間、そこに引き籠った。全てを失った櫻井は、娘への後悔を、1日足りとも忘れる事はなかった。
家族を失って1年後のある日、櫻井の住む部屋に、1枚のチラシが投函された。そのチラシはいわゆる宗教勧誘のチラシであったのだか、そこに大きく書かれたある文字に、櫻井は目を惹かれた。
【今は亡き、大切な人に、会いませんか?】
昔の櫻井であれば、見もせずにゴミ箱へと捨てていたであろうそのチラシを、彼は凝視して離さなかった。気が付けば後日、櫻井はチラシに記載されていた場所へと足を運んでいた。ビルの入口を通ると、丁度受付と思われる場所に、2人の人物が話し込んでいた。
「こんにちは。いかがされましたか?」
その内の1人の男性に尋ねられた櫻井は、持参したチラシをゆっくりと差し出した。
「このチラシを見て来ました。」
「そうでしたか。それはどうもありがとうごさいます。」
「ここに書いてある文章はどういう事ですか?」
櫻井は震える指で、大きく記載された例の文章を指差した。すると男性は優しく微笑み、
「文字通りの意味ですよ。」
と答えた。
「丁度良かった。今、時間がありまして。よければお話をさせて頂きますが?」
そう言うと、五十嵐英樹は櫻井を建物の奥へと案内した。
1階奥にある、応接室のような場所に通された櫻井は、そこで五十嵐と2人切りになった。ソファ席に案内され、そこに腰掛けると、五十嵐はミネラルウォーターが注がれた透明のグラスを櫻井の前にそっと置いた。
「この場所は、ご自宅から近いんですか?」
五十嵐が櫻井の前の席に腰掛け、尋ねてきた。
「近くはありませんが、遠くもありません。」
「そうですか。」
五十嵐は目の前のテーブルに置かれた、櫻井が持参したチラシを見た。
「まさか、チラシに効果があったとは驚きました。私は必要ないと言ってるんですが、広報の人間達が、どうしても配りたいといつも言うのでね。ほら、こういうチラシってあまり見られないイメージなので。」
「そうですね。」
「藁をも縋りたい、という感じですか?」
「えっ?」
「いや、失礼。あなたを見ると、そんな気がしまして。申し遅れました、五十嵐英樹と申します。」
「⋯櫻井始と申します。」
「櫻井さん。あなたは何故、ここにいらしたんですか?」
五十嵐はストレートに核心を突いた質問を、櫻井に投げ掛けた。櫻井はチラシに目をやった。
「ここに書いてある【今は亡き、大切な人に、会いませんか?】⋯とは、どういう意味ですか?」
「文字通りの意味です。」
五十嵐は自信満々に答えた。あまりにも真っ直ぐな答えに、櫻井は戸惑いを隠せなかった。
「櫻井さんは、大切な方を亡くされたんですね。」
「⋯はい。」
「そして、その方に会いたい。」
「⋯はい、そうです。」
「失礼ですが、どなたを亡くされたんですか?」
「家族を⋯妻と娘です。」
「そうですか⋯それは⋯なんと⋯言葉もありません。心中お察し致します。」
「⋯いえ。」
「世の中は理不尽です。理不尽で構成されている。そして、我々はその構成された囲いの中で生きている。残酷な事実です。」
語る五十嵐に、櫻井も質問で返した。
「あなた方は⋯宗教団体という認識でいいんでしょうか?」
「宗教団体ではありません。」
「では、どうような組織なんですか?えっと⋯。」
「名は影降衆と言います。」
初めて聞くその名を、櫻井も小声で繰り返した。
「我々は、すがる事を恥ずべき事ではなく、救いや希望だと考えています。助けを求める事は、人の性。決して責められる事ではないのです。」
櫻井は五十嵐の言葉に、怪しさを感じつつも飲み込んだ。自分が思っていた通り、ここはそういう人々が集まる場所だろうと察しがついた。
「具体的に、どのような事をなさるんですか?」
「櫻井さんは、どのような事をなさりたいんですか?」
五十嵐が食い気味で、言葉を被せた。
「失礼、質問を質問で返してしまいましたね。」
「私は、妻と娘に会いたい。」
「そうですか。」
「笑わないのですか?」
「何故です?」
五十嵐の表情からは、嘘や嘲笑するような意図は感じられなかった。
「櫻井さんは、幽霊を信じますか?」
「⋯信じなければ、今、生きていません。」
「それは良かった。幽霊は存在しますからね。」
「⋯なぜ存在すると断言出来るのですか?」
「周知の事実ではありませんか。この世界には霊魂という存在は実在する。公の場であまり話されることではありませんがね。そうだ、聞いた事があるでしょう。祓禍衆という名の組織を。」
「はい。」
「彼らは、そういった類を祓う者達が集う組織ですよ。」
「幽霊を祓う、と?」
「幽霊だけではありません。」
「それだけではない?」
「もしも、この世界に幽霊という存在が実在するなら⋯実在するならですよ?自ら死を選ぶ者達が、この世界に溢れ返ると思いませんか?」
「それは⋯分かる気がします。」
「櫻井さんが仰る通り、こんな理不尽な世界から解き放たれたい者達は大勢いる。ならば、死を選べばいい。簡単な事ですよ。現世を離れ、霊魂のみの存在となる。ですが⋯皆、そのような選択を取らない。解放されるというのに。何故だと思います?申し訳ない、また質問で返してしまいましたね。」
「⋯分かりません。」
「その理由を、皆、潜在的に理解している。高次の存在は、霊魂だけでは無いという事を。そうですね⋯例えば、悪霊や悪魔と呼ばれる存在がそうでしょうか。もしも幽霊が存在するなら、そういった存在も⋯。」
「悪霊や悪魔が存在すると言いたいんですか?」
「存在するんですよ、櫻井さん。」
五十嵐は乾いた笑い声を発した。
「ですが、これだけは話しておきたい。悪霊⋯悪魔⋯この呼び名は我々人間が付けた、いわばあだ名のような物です。高次の次元・存在の彼らに対して“悪”と名付けるなんて、我々人間は無礼だとは感じませんか?彼らの悪行とは?そんなもの、人間の物差しで測っただけの出来事です。我々は彼らこそが、より高次の存在であると考えているのです。」
「仮にそのような存在が“悪”ではないとしても、何故彼らがその⋯高次の存在であると考えるのですか?」
「至極単純な理由です。彼らは、我々人間には想像もつかない程の強大な力を持っているからです。」
「物を浮かせたり、とかですか?」
櫻井が半笑いで尋ねた。
「それも、あります。」
五十嵐はテーブルに置かれた、櫻井が持参したチラシを手に取った。そしてそのチラシをヒラヒラと揺らしながら、櫻井に見せた。
「彼らの力があれば、我々は幸福に暮らしていける。今は亡き、大切な人にも会う事が出来る。彼らに不可能はない。彼らにあやかる事が出来れば、不可能な事などない。櫻井さん、あなたは亡くなったご家族と再会したいのでしょう?」
「⋯はい。」
「会えますよ。会えます。」
「⋯しかし。」
「会えるのです。」
五十嵐の瞳が輝いている。こうやって勧誘されるのかと、櫻井はふと思った。
「あなたが思う、怪しい宗教団体は、あなたが思う以上に力があります。ご家族と再会出来る。私が断言します。」
「では⋯具体的に、どうやって?」
「それは、ここに所属してからのお楽しみですよ。」
五十嵐が、これまでで1番の満面の笑みを浮かべた。




