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第32章

 夜道を藤代が裸足のまま、蛇行しながら駆けて行く。小走りにしか見えない走り方をしているのに、そのスピードば異常な程早く、彼女を追う後藤は、必死になってそのスピードに食らいついた。藤代は時折スキップをするような軽快な動きをしながら、夜道をぐんぐんと進んでいく。後藤が耳を澄ますと、どうやら彼女は何か鼻歌を口ずさんでいるようだった。




「優実!」




後藤の呼び掛けに応じず、藤代は門を抜け、鍵が閉まっているはずのドアを開け、ある一軒家に入っていった。そこは彼女の実家だった。後藤も彼女の後に続いて家に入る。上の階から足音が聞こえる。すぐさま靴を脱いで、階段を駆け上がった後藤は、声が聞こえてくる部屋の方を目指した。部屋のドアを開けると、ベッドの上で藤代が仁王立ちをして、後藤の事を待ち構えていた。




「優実⋯。」




藤代がゆっくりと口角を上げると、部屋の温度が急激に下がり、後藤の口元から白い息が上がり始めた。




「優実優実優実⋯喧しい奴だ。」




「誰だ⋯一体⋯一体お前は誰なんだ⋯?」




「藤代優実よ、何言ってるの?悟さん。」




「違うっ!ふざけるなっ!お前は⋯お前は優実じゃないっ⋯!」




「じゃあ⋯誰でしょう?」




藤代が口を開き、舌を出した。その舌はどんどんと伸び、まるで蛇のようにうねうねと動き、それ自体が生き物のようだった。舌は藤代の下腹部に到達し、その辺りを弄るように撫でた。後藤は恐ろしさのあまり、顔を歪め、がくっと1歩後退りをした。




「優実じゃ⋯優実じゃないっ⋯!」




「じゃあ、何に見える?」




怯え切っている後藤に向かって、藤代の中にいる存在が嘲笑う。




「一緒にいるこの小娘に感謝しなくちゃいけない。こいつのおかげで戻って来られたようなもんだ。」






神谷は後藤の頭部に触れていた両手をぱっと離した。事務所にあった縄で両手両足を縛られ、壁にもたれ掛かるように座り込む後藤は、すっかり気を失っていた。鈴村がティシュで雑に拭ったために、鼻の下には血がまだこびり付いている。




「神谷さん、どうですか。」




「⋯まあ、大丈夫。」




鈴村と黒岩は後藤から少し距離を取った位置に立ち、後藤の頭を“覗く”神谷の事を見守っていた。




「何か見えましたか?」




「ふわっと、記憶が。ふわっとな。」




「そうですか。」




そう言うと、鈴村はその場に座り込んだ。




「無事で良かったよ、本当に。」




黒岩が鈴村に言葉をかける。




「もう明日香ちゃん、大ピンチでしたよ。首絞められるし⋯何より私のおっぱい!おっぱい触られたんですよ!セクハラですよセクハラ!ほんっとに信じられないっ!」




「それだけ騒げるなら大丈夫だな。」




「神谷さん、後藤さんの鼻⋯大丈夫ですかね?全力でぶん殴っちゃったんですけど⋯。」




「折れてないとは思う⋯けどヒビまでは分からん。まあ仕方ないだろ。正当防衛だ。」




「後藤さん⋯操られたって事ですよね、これ。」




「やはり、冥縛めいばくか。操るとはいえ、まさかここまで人を動かせるとは。侮っていた。」




黒岩は腕を組みながら、険しい表情を浮かべた。




影降衆えいこうしゅうは何にも成果無しですか?」




「ほぼグレーだとは思うがな。」




「やっぱりあいつらが⋯。」




「うーむ。」




神谷が声を上げた。




「どうしたんですか?」




「冥縛をどうやって降ろしたのか。」




「それは⋯何か儀式でしょう?よく分かりませんけど。」




「それはそうなんだけど⋯むう。」




神谷が事務所内をウロウロと歩き始めた。すると、後藤が大きく息を吐いた。3人が彼に視線をやると、後藤は寝起きのように目を細め、辺りを見回した。鈴村はすぐに立ち上がり、警戒心を強めた。




「⋯ここは⋯。」




後藤は状況が理解出来ず、何がなんだかといった様子だった。




「⋯痛い⋯。」




鼻の痛みで、後藤は顔を歪ませた。




「後藤さん。」




「神谷さん⋯皆さんも⋯一体何が⋯私はどうしてここに⋯痛っ⋯。」




「後藤さん⋯ですか?」




鈴村が恐る恐る声を掛けた。




「鈴村さん⋯。」




「ごめんなさい後藤さん、私が後藤さんの鼻に全力鈴村パンチを叩き込みました。」




「⋯パンチ?」




「何も覚えていませんか?」




神谷が尋ねると、後藤は視線を落とした。




「何も⋯覚えていません。何故こうなっているのか⋯。」




「最後の記憶は?」




「昨日家に帰って⋯それから⋯分かりません⋯思い出せません⋯。」




「後藤さんは冥縛に操られたんです。で、ここに来て私を襲ったんです。」




「鈴村さんを襲った!?そんな⋯大丈夫でしたか?」




「大丈夫です。だから鈴村パンチを放った訳です。」




「⋯なるほど。すいません⋯何も理解が出来なくて。」




「一応、後藤さんにも軽い呪祓いをしておきました。その過程で、申し訳ありませんが頭を少しだけ覗いてしまいました。」




「⋯いえ、大丈夫です。何がなんだかですから。」




「そのおかげで、少し気になる事が。」




神谷の言葉に、皆が注目した。




「どうした?神谷。」




神谷は先程、辛うじてうっすらと確認出来た後藤の記憶を思い返していた。




『一緒にいるこの小娘に感謝しなくちゃいけない。こいつのおかげで戻って来られたようなもんだ。』




「櫻井千鶴の母親は亡くなっている。彼女が殺害した。」




「そうです。」




「多分⋯まだ登場人物がいる。」






「いつになったら、面と向かって闘うつもりだ?」




ベッドの上で肘を付きながら、横になる藤代の中にいる者は、ニヤニヤと笑みを浮かべながら神谷に尋ねた。いつから風呂に入っていないのか、彼女の身体は独特の体臭を放ち、髪の毛もボサボサだった。神谷は壁にもたれ掛かるように座り、じっと悪霊の事を見つめた。




「言われなくても近い内に闘うよ。安心してくれ。」




「時間があればいいな。」




「ないのか?」




「さあ、どうだろうな。」




下品な笑い声が響く。




「後藤さんを操って、ウチの鈴村を襲ったな?」




「ああ、そうだ。」




悪霊は嬉しそうにしながら、目を光らせた。




「楽しかったぞ。あともう少しの所で、あの小娘を味わえたのに。惜しい事をした。」




神谷は気になった事を、正直に問うた。




「あれはお前なのか?」




「分かる、分かるぞ神谷。お前が気になっている事が。」




「藤代さんを離れて後藤さんに憑依したのか、それとも藤代さんの中にいながら後藤さんを操ったのか。」




「お前が気になっているのはそこだろうな。」




「で、どっちなんだ。」




「この女の身体を離れると思うか?」




「⋯そうか。」




神谷は小さく返事をしたが、内心は焦りを感じた。マズイ、これはマズイ。やはり、こんな事が出来る悪霊は初めてだと。気が付くと藤代は姿勢を戻し、ベッドの上であぐらをかきながら神谷の事を凝視していた。




「初めてだろう、こんな事が出来る奴は。」




神谷は焦りを悟られまいと、無表情で視線を送り返した。




「これまでお前が相手にしてきた奴らとは、格が違う。分かるだろう?」




「そうだとしても、諦める訳がない。」




神谷はゆっくりと立ち上がった。




冥縛めいばく、それがお前の名だな?」




「お前達が勝手に名付けた名だ。知ったことか。」




「誰がお前を降ろした?」




神谷は最も知りたい事を尋ねた。




「そうか、それが知りたいんだな。だが、知った所で何になる?」




「興味があるんだ。どんな阿呆がお前をこの世に降ろしたのか。」




「そんな事より早く闘わなくていいのか?この女の身体が保たんかも知れんぞ?」




そう言うと冥縛は自身の胸を両手でわざとらしく触った。




「⋯教えろ。誰なんだ。」




神谷は引き下がらなかった。




「⋯知った所で、どうにもならん。」




「ならいいじゃないか。」




冥縛は頭を柔軟するかのように、ぐるりと回し、口を開けたまま猛獣のようにうめき声を上げた。部屋の温度が一段と低くなるのを神谷は感じた。




「俺はオマケみたいなものだ。」




冥縛は小さくそう呟いた。神谷にとって、その言葉だけでもはや充分だった。






「いらっしゃいませ。」




神谷と鈴村に向かって、カウンター内にいる男性が声を掛ける。2人がやって来たのはレトロな雰囲気が漂う、小さなカフェだった。他に客はおらず、神谷と鈴村はカウンター前に備え付けられたイスに、並んで腰掛けた。




「こちら、メニュー表でございます。」




差し出されたメニュー表には、様々なコーヒーの種類が掲載されている。




「⋯ケーキがある。」




鈴村はメニュー表からチョコレートケーキの存在を察知した。




「数量限定です。まだありますよ。」




「⋯じゃあ⋯取り敢えずそれを1つ。あ、神谷さんも?」




「俺はいい。」




「じゃあ、やっぱりチョコレートケーキ1つで。」




「かしこまりました。」




「あと本日のコーヒー、ってやつを2つ下さい。」




「本日はエチオピア産の豆を使用しております。ベリー感とフローラルな余韻をお楽しみ頂けます。」




「それでお願いします。」




「かしこまりました。少々お待ち下さい。」




男性はカウンターの中でコーヒーの準備をし始めた。棚にしまわれたコーヒー豆を適量取り出し、手引きのミルで豆を挽き始めた。ジャリジャリという音がリズムよく流れる。




「オシャレなカフェですね。」




「ありがとうございます。」




「このお店は長いんですか?」




「ここを始めてから、かれこれ5〜6年でしょうか。」




「そうなんですね。」




そう言うと、神谷は食器などか並べられている茶色の棚の上に置かれた小さなフォトフレームに目をやった。鈴村もその存在に気が付いていた。




「それ。」




神谷がそれに視線をやり、さらに尋ねた。




「ご家族ですか?」




3人の人物が写る小さな写真。店員の男性は、現在よりも若く見える。その隣に男性の妻か、1人の女性が立っており、2人の間には小さな女の子の姿も見える。仲睦まじい、1枚の家族写真だった。




「ああ⋯ええ、そうです。」




男性は豆挽きの手を止め、挽き終わった豆を取り出した。フィルターにそれを入れると、専用のポットでお湯を注ぎ、器にコーヒーを入れ始めた。




「何年前の写真ですか?」




神谷の言葉に、男性は一瞬、動きを止めた。




「何年前?」




「失礼しました。写真のお顔を見ると、今よりもお若く見えるので。」




「⋯そうですね⋯かなり前の物です。」




「娘さんですか?かわいー。」




鈴村がぼぞっと声を出した。




「ありがとうございます。こちら、本日のコーヒーでごさいます。」




2人の前に温かいコーヒーが置かれた。




「今、チョコレートケーキもお持ちしますね。少々お待ち下さい。」




男性は裏に戻ると、すぐにチョコレートケーキが置かれた皿を1枚持ってきて、鈴村の前に置いた。




「失礼ですが、このカフェの店長さんですか?」




神谷がコーヒーに口を付ける。




「ええ、そうです。個人経営で、私の店です。」




「そうですか。このお店を開く前は、何を?」




質問が次々と振られ、男性は唾を飲み込み、違和感を感じ始めていた。




「⋯何故です?」




「ご家族は、今どちらに?」




「だから何故です?」




男性がほんの少しだけ語尾を強める。鈴村は男性を見つめながら、チョコレートケーキを頬張っていた。




「その写真に写っている⋯お子さんのお名前を教えて頂けませんか?」




「お断りします。」




男性は不信感を露わにし、神谷と鈴村から距離を取って、近くにあったコーヒーグラスらを拭き始めた。




「千鶴さん、ではありませんか?」




神谷のその言葉に、男性が硬直する。




「⋯あなた達は?」




「お聞きしたい事があります、大至急。」




自分の事をじっと見つめる2人の人間に、櫻井始は警戒心を露わにした。

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