第31章
神谷と黒岩が錦糸町にある影降衆の事務所に出向いていた頃、鈴村は1人で祓禍衆東京支部の事務所にいた。2人が朝から不在のため、鈴村は事務所番をしながら、昨日目にした祓禍録を手に取り、じっくりと夜哭深層獄冥縛について記されたページを見つめていた。鈴村はこの強大な悪霊についての情報に改めて目を通し、小さく息を吐いた。
するとインターフォンが鳴った。鈴村は書物を棚に戻し、ドアに向かった。
「おはようございます。」
ドアの向こう側から男性の声が聞こえてきた。後藤の声だった。鈴村がドアを開けると、笑みを浮かべた後藤が立っていた。
「あれ後藤さん、おはようございます。」
「いきなり押し掛けて、お邪魔ではなかったですか?」
「全然大丈夫です。どうぞどうぞ。」
後藤を事務所内に案内すると、鈴村はすぐに給湯ポットの所へ向かった。
「神谷さんと黒岩さんは?」
「朝から出てまして。私1人でお留守番なんです。」
「どちらに向かわれたんですか?」
「ええっと、影降衆の事務所です。」
鈴村は温かい茶が注がれた器を、自分のデスクの上に置き、後藤にそこへ掛けてもらった。自分はというと、黒岩のデスクに深く腰掛けたのだった。
「影降衆⋯また知らない単語が出てきました。」
「私達の逆です。」
「逆?」
「祓禍衆は悪霊の類を祓う事を目的としています。影降衆は悪霊の類を降ろす事を目的としたクソ野郎変態集団です。」
「そんな組織があるんですか?」
「表向きは怪しい宗教団体みたいな感じですが、内情はもっとヤバい奴らなんです。害虫以下ですね。」
「捕まえられないんですか。そんな連中⋯。」
「霊的事象に物的証拠は出ません。事実上、あいつは害虫達は何もしてないんです。儀式とか言って祈ってるくらいじゃないですかね。仮に降霊が成功して、誰かに憑依させたとしても、彼らがやったという証拠はないし、裁きようがない。本当にふざけた奴らなんです。」
「まさか⋯その影降衆が優実に悪霊を?」
「まだ分かりません。が、その可能性があるかもなんで、だから神谷さん黒岩さんが朝から影降衆の事務所に突撃訪問してる訳です。」
「なるほど。」
黒岩はずずっと茶を一口飲むと、若干顔をしかめた。昨日とは違う反応をした後藤の様子に、鈴村はすぐに気が付いた。
「⋯それで後藤さん。何かあったんですか?」
「ああ、そうなんです。分かった事があるんです。」
「昨日の今日でもう何か分かったんですか?」
「はい。鈴村さんの事です。」
「え。」
後藤は姿勢良く座ったまま、鈴村に微笑みを投げ掛け続けていた。鈴村は当然違和感を感じ、警戒心を強めた。
「何の話ですか?」
「ほら、昨日教えてくれたじゃないですか。鈴村さん、昔憑依された事があるって。」
「⋯それがどうかしたんですか?」
「分かったんです。鈴村さんに憑依した悪霊の正体が。」
後藤の瞳がキラキラと輝いている。
「後藤さん。」
「知りたいでしょ、子供の時に自分を苦しめた奴の正体を。」
「どうして後藤さんが知っているんですか?」
「教えてくれたんですよ、優実が。」
「ほほぉ⋯後藤さん⋯あなたは何を言っているんでしょうか⋯。」
鈴村は緊張感で体を強張らせ、拳に力を込めた。椅子に深く腰掛けていたが、僅かに姿勢を前に起こし、後藤の事を注視する。
「花喰、だそうですよ。とても貧弱な女々しい悪霊⋯だと言っていました。そんな雑魚に取り憑かれたんですよ、鈴村さんは。ひひ。可哀そうに。ひひひ。とっても。ひひひひ。お辛い思いを。ひひひひひ。したんでしょうねぇ。」
後藤がケタケタと笑いながら肩を大きく揺らし、顔もガクガクと激しく前後に振り始めた。鈴村は彼の瞳の中に、彼ではない何かを見た気がした。
「ひぃぃぃぃっっ。」
後藤が雄叫びを上げたかと思うと、棚にしまわれていた書物が一斉に宙へと舞い上がった。デスクに置かれていた書類や筆記用具もあらゆる方向に舞った。鈴村は立ち上がろうと体を起こしたが、後藤が凄まじいスピードで彼女の上に飛び乗り、椅子に沈めた。後藤の右手は鈴村の首を押さえ込み、両足を椅子の肘掛けに乗せ、中腰のような姿勢を取った。鈴村はギリギリと強い力で首を押さえつけられ、椅子から動けなくなった。
「かはっ⋯。」
苦しみの声を上げた鈴村を、後藤はギョロリと至近距離からのそぎこんだ。
「ひひっひひっひひひひひっ。」
「ぐっ⋯。」
鈴村は後藤を睨み付けたが、首を抑え込まれる力があまりに強いだけではなく、目に見えない圧を感じ、体の自由がまるで効かなかった。
「離せや⋯このカスが⋯。」
「神谷はいないのか⋯置いていかれたのか⋯そうかそうか、お前は足手まといなんだな?だからこんな所で1人で油を売っていたわけか。」
「このっ⋯。」
鈴村が力を込めた瞬間、後藤の右手はさらに強く彼女の首元を絞め上げた。
「あぐっ⋯。」
辛うじて呼吸は出来たが、鈴村は呼吸をする事に精一杯であった。苦悶の表情を浮かべる彼女の顔の輪郭を、後藤は左手でゆっくりと撫でた。
「お前は経験者だろう?だから理解しているはずだ。無駄だと。無駄無駄⋯お前達がやろうとしている事は本当に無駄なんだ。祓えばいいと思っているのか?祓ったところでなんになる?住む家が変わるだけだ。家はいくらでもある。しかも、家の鍵は全てこちらの手の中にあるんだぞ。」
鈴村は必死に体を動かそうと、力を込めたが、僅かに体がフルフルと震えただけだった。
「なんだ、鈴村明日香⋯怯えているのか?怖いのか?泣きそうなのか?可哀想に可哀想に⋯。」
後藤の左手の親指が、鈴村の唇に触れる。
「クソ野郎。ナメクジ野郎。変態野郎。」
鈴村が言葉を捻り出す。
「友人がこの間お前に聞いたらしいな。『抱いてやろうか?』と。お前に邪魔され、祓われた鬱憤が溜まっていると言っていた。」
鈴村の唇に置かれた親指が、ゆっくりと下に降りていく。そして後藤の左手は、鈴村の胸に触れた。彼の指先に力が入る。
「いい胸をしてる。安心しろ、お前はただ体をよがらせて、喘ぎ声を上げていればいい。」
鈴村はこらえていた涙をついに流した。
「⋯死ねよ⋯この⋯童貞野郎⋯。」
鈴村明日香、23歳。東京都葛飾区出身。両親は現在も葛飾区在住。父は会社員、母はパート勤務。4つ上に姉が1人おり、昨年結婚した。優しく温厚な家族の元に、彼女は産まれ落ちた。明るく活発な彼女は幼少期の頃から自由奔放。部屋で遊ぶよりも、外に出て走り回るような子供だった。友達も多く、いつも皆の中心にいた。正義感が強く、いじめられている友達のためなら、男子相手でも果敢に立ち向かった。負かされる事もあったが、彼女は何度でも立ち上がった。
そんな鈴村に人生の転機が訪れたのは、彼女が13歳の時。当時中学1年生だった彼女に、突如異変が襲った。人格の変化、口にする話したことの無い言語、暴れ回るような異常行動、激しい自傷行為⋯明らかな憑依現象だった。
そんな彼女を救ったのが、当時25歳の神谷だった。鈴村の呪祓いは無事完遂され、彼女は救われ悪霊から解放された。鈴村は混濁した意識の中で、神谷の事を知覚していた。そして、理解していた。この男性が自分の事を救ってくれたのだと。
「おじさん。」
「おじさん?お兄さんだよ、お兄さん。」
「どうやったら⋯。」
「ん。」
「どうやったら、おじさんみたいになれる?」
鈴村が中学2年生に進級する頃には、祓禍衆の存在を理解し、彼女はいつかそこに所属すると決めていた。学校が終わり放課後になると、鈴村は神谷がいる祓禍衆東京支部の事務所へと通った。最初は当然、何しにきたんだと帰りなさいと諭されたが、鈴村の心は折れなかった。何度も何度も足を運び、自分は本気だという事を神谷と黒岩にアピールし続けた。
「君はまだ子供じゃないか。それにね、これはカッコいい仕事なんかじゃないよ?福利厚生なんてあってないようなもんだし、時間外労働だってあるし⋯何より危険だよ。場合によっては死ぬかもしれない。君なら分かってくれると思うんだけど。」
神谷は何度も鈴村を諭した。
「分かってます。」
「だから止めときな。」
「おじさん⋯まさか⋯私が女だからですか?差別ですよ差別。女性蔑視。」
「いやいや、まさか違うよ。難しい言葉を知ってるね。」
「じゃあ私が中学生だから?ガキだからって事?」
「⋯うん、まあそう。その通り。」
「でも、子供が憑依されたりするんですよね?」
鈴村のその返しに、神谷は思わず黙り込んだ。
「おじさん、私みたいな美少女が押し掛けてるんですよ?素直に喜んでくれればいいのに。」
「君はあれだね⋯変わってるね。」
「私⋯。」
鈴村は神谷にしっかりと伝えた。
「神谷さんみたいになりたいんです。だからお願いします。私を弟子にして下さい。」
神谷は自分を真っ直ぐに見つめる制服を着た彼女に、ぽつりと呟いた。
「取り敢えず、おじさんって言わないで。」
「気にしてたんですね。」
「あと⋯。」
「はい。」
「本気なら自分を大切にする事を覚えて。何より強くならなきゃいけない。弱かったら祓いなんか無理。」
「⋯雑魚には無理ってことですか。」
「そう。君が雑魚じゃお話にならないってこと。」
「私は⋯。」
鈴村がより一層拳に力を込めた。
「私は雑魚じゃねぇんだよっ!」
鈴村は右足を思い切り振り上げ、後藤の股間を蹴り上げた。自分の首元を絞める後藤の手を払い除け、彼の額に思い切り頭突きをかました。衝撃で後藤の体が椅子の上で揺れると、鈴村は両足で彼の腹部を思い切り蹴った。後藤はそのまま後ろに吹き飛び、黒岩のデスクの上で後ろ1回転すると、鈍い音を立てて床に落下した。解放された鈴村も、激しく咳き込むと椅子と一緒に横へと倒れた。しかしこれで終わりではない。鈴村はすぐに立ち上がり、涙を拭った。すでに体制を整えた後藤は大きく跳躍し、天井に張り付いていた。
「ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
笑い声を漏らしながら、後藤は体をくねらせ、仰け反るように天井から鈴村を見下ろした。
「よくも私の美乳を触りやがったな、この野郎。」
鈴村は嫌悪の表情を浮かべながら、左手で印を結び、祓いの言葉を唱え始めた。
「南無鎮魂、南無清浄、三度を呼ばれし時、汝は消ゆ。南無鎮魂、南無清浄、三度を呼ばれし時、汝は消ゆ。南無鎮魂、南無清浄、三度を呼ばれし時、汝は消ゆ。」
左手のポッケに鈴村は手を伸ばし、持参していた黒色の数珠を取り出すと、それを右手で強く握り締めた。鈴村が2、3歩ほど歩き、部屋の中心に移動すると、後藤は体を捻って、獣のようにいきなり鈴村に向かって飛び掛かった。鈴村は大声を上げて咄嗟に右手を勢い良く突き出した。彼女の拳は後藤の顔面に直撃してめり込み、そのまま床へと彼を叩き落とした。
「いったぁぁぁぁぁああぁぁあいいいっっっっ!」
鈴村が思わず右手を庇った。後藤はというと、鼻血を垂らしながら、大の字になって気を失っていた。鈴村が後藤の中に感じた気配は、もう既に無くなっていた。焦るように鈴村は自分のデスクの引出しを開けると、1枚のお札を手に取り、それを後藤の胸に貼り付けた。鈴村は途端に体の力が抜け、その場に座り込んだ。
「⋯これはボーナスを貰わないと割に合わない。」




