第30章
「やこ⋯く⋯しん⋯何ですか?」
「夜哭深層獄冥縛。」
神谷は事務所内にある棚から、一冊の分厚い本を手に取り、ペラペラとめくりながら、目的のページを探した。表紙には『祓禍録 其の参』の文字があった。
「わりかし有名な悪霊だ。知らないのは勉強不足だな、後輩。」
「うぐぐ、すいません⋯。」
神谷はとあるページを開いたまま、本を鈴村に手渡した。左側のページには、その悪霊をイメージしたイラストが描かれている。真っ黒な全身に、赤く浮き出た血管が体の隅々に浮き出ている。下半身は獣のような体毛で覆われ、まるで鋭利なナイフのような長い尻尾が生えている。上半身は細身の成人男性のような肉体をしており、頭部と顔はまるでライオンのような見た目をしていた。
「気持ち悪っ。誰が書いたんですか、このイラスト。」
「昔、祓禍衆にいた人だろうな。イメージだよイメージ。」
「なんかすっごい文章書いてますね。私、活字苦手なんですけど。」
禍々しいイラストの横ページには、夜哭深層獄冥縛についての詳細が記されていた。
【夜哭深層獄冥縛は、江戸時代初期に初めて確認されたとされる悪霊である。その特徴は、被害者の記憶・感情・思考の一部を欠損させる深層侵蝕と、周囲の人間の認識を歪ませる外周支配にある。夜哭深層獄冥縛による憑依現象は数多く報告され、その度に甚大な被害が出たとされる。憑依対象者の近辺にいる者達を妖術で惑わせ、巧みに操った。人を操り家屋で火災を起こし、死者が確認された事例も存在する。夜哭深層獄冥縛の出現例は全国的に散発したものの、祓禍衆による数多の呪祓いによって、明治時代初期までには世祓いしたと報告されている。】
「人を操る⋯本当にそんな事出来んの!?やべー奴じゃないですかコイツ。でも、世祓いしたって書いてありますよ?あ、そういう事か。」
「そう。誰かが、わざわざ降ろした可能性がある。」
「このやべー奴を?」
「人を操れる悪霊なんて、こいつくらいしか聞いた事がない。」
「⋯影降衆ですかね?」
鈴村がその名前を出した瞬間、事務所に緊張が走った。
「だとしたら最悪だ。降霊が成功した事になる。そんな事滅多にないのに。」
「もしそうだとしたら、いつ以来だったか⋯。」
黒岩はぼんやりと天井を見つめながら、眉間にしわを寄せた。
「まあ、直接聞いた方が早いですよね。」
「えっ、神谷さん行くつもりですか?」
「仕方ないだろ。」
「ええっ、私嫌なんですけど⋯そんな⋯なんか⋯敵の本拠地に行くような事⋯何されるか分かったもんじゃないし。」
「何もしないよ。したら終わりだ。それがあいつらの強みだから。」
「でもでも⋯。」
「黒岩さん、明日朝一で影降衆の事務所に行ってきます。」
「錦糸町か。」
「そうです。」
「私も行こう。鈴村は事務所で留守番しててくれ。」
「⋯いいんですか?」
「今回は案件か案件だ。私と神谷で行く。」
「⋯分かりました。」
翌日、朝の9時半頃。神谷と黒岩は既に目的地へと歩いていた。影降衆東京支部の事務所は、錦糸町駅から徒歩15分程の所にあり、白い外壁のその建物は2階建ての大きな集会所のような所だった。その斜め前にはコンビニがあり、到着した神谷と黒岩はコンビニに入るとホットコーヒーを購入し、入口前でそれを口にしながら、斜め前に建つ白い建物を見つめた。
「黒岩さん、ここに来たのいつ以来ですか?」
「多分⋯18⋯19年前くらいかな。」
「久し振りですね。」
「来たくないよ、こんな所。」
「俺もです。」
2人は愚痴を言い合いながらホットコーヒーを啜り、少しの間時間を潰した。10時を過ぎると、2人は歩み始め、目的のビルへと近付いた。入口の引き戸扉を開けると、正面に小さなテーブルが置かれており、その上には色とりどりの花を生けた花瓶が置かれていた。その花瓶の上の壁にはインターフォンが設置してあり、『御用の方は、こちらを押して下さい』というシールが貼られていた。神谷は気怠そうな顔をしながら、インターフォンのボタンを押した。すると、すぐに男性の声で返事が返って来た。
『はい。』
「どうも。神谷と申しますが。」
『神谷様⋯えーっと⋯ご予約はされていますか?』
「いえ、飛び込みです。」
『⋯ご要件は何でしょうか?』
「私は祓禍衆東京支部から来た者です。」
神谷がそう言うと、少しの間返事が止んだ。
『申し訳ありません、お名前をもう一度頂戴してもよろしいでしょうか。』
「神谷と申します。連れも1人います。」
「⋯少々お待ち下さい。」
インターフォン越しのやり取りが終わり、神谷と黒岩はその場で静かに待機した。やがて奥の扉が開き、黒いスーツ姿の男性がやって来た。
「お待たせしております。」
「どうも、こんにちは。いきなりお訪ねして申し訳ありません。」
「祓禍衆の方、ですよね?」
「そうです。神谷と申します。」
「黒岩と申します。」
「⋯ご要件は何でしょうか?」
「今、我々が対応している事案に、そちらが何か関係しているのではないかと思いまして。それでお話をお伺いに来た訳です。」
「何の話か分かりませんが?」
神谷と黒岩は、無言でその男の事をじっと見つめた。
「本当に分かりませんか?」
「分かりません。」
すると、黒岩がその男に近付いた。
「五十嵐は何処にいますか?」
「何の話ですか。」
「とぼけなくていいです。あなたは新人さんでしょうが、私は彼と昔からの顔見知りでして。ここにいるのは分かっているんです。黒岩が来ていると伝えてもらえますか?無駄なやり取りをしている時間は無いんです。」
男は黒岩の圧力に負けたようで、目を伏せると、また奥の方へと戻っていった。そして2〜3分ほどすると、また2人の元へ戻って来た。
「お待たせしました。ご案内致します。」
男に連れられ、神谷と黒岩は建物の奥へと案内された。白い廊下を少し歩き、男が突き当たりの扉を開けた。部屋の中には大きなテーブルが置かれており、そこに五十嵐英樹が座っていた。彼の後ろには大きな窓があり、日差しが差し込んで、まるで後光が指しているようだった。
「これは珍しいお客様ですね。」
五十嵐はそのまま神谷と黒岩に挨拶をした。その表情は優しく微笑んでいた。
「突然すいません。」
「これは神谷さん。ご無沙汰しています。黒岩さんもお久し振りですね。とうぞ掛けて下さい。」
男の前に設置された白いソファに神谷と黒岩はゆっくりと腰掛けた。黒岩は五十嵐の事をじっと見つめた。ここまで2人を案内した男は、気付かぬ内にいなくなっていた。
「突然の訪問、驚きました。」
「我々だって用がなければ来ませんよ、こんな所。」
「神谷さんとお会いするのはいつぶりですかね。しばらく見ない間に、何と言うかこう⋯威厳のような物が出ましたね。」
「老けただけです。」
「何を仰るんですか、まだまだお若いのに。老けたと言うのは、私や黒岩さんの事を言うんですよ。」
五十嵐は黒岩を見つめた。黒岩は真顔のままだった。
「それで⋯今日はどんなご要件でしょう。祓禍衆の重鎮が2人も揃って。」
「五十嵐、お前、降ろしたか?」
黒岩は大きく目を見開いたまま、五十嵐にぽつりと尋ねた。
「⋯何を?」
「いい。そういうのいいから。答えてくれ。」
「黒岩さん、怒ってますか?」
「怒ってないと思うか?」
「意味が分かりません。何の話をしているのですか?」
「質問の答えを。」
「何もしていません。」
「でも、普段から儀式はしてますよね?」
神谷がさらに追及した。
「儀式だなんてそんな⋯大袈裟です、神谷さん。皆で祈っている、それだけです。」
「他の人達にもお話を伺いたいんですが。何処にいますか?上の階ですか?」
「誰もいません。いつも皆が揃っている訳ではないですから。」
「五十嵐。今、私達が相手をしている悪霊がいる。予測が正しければ、それはおそらく強力な悪霊だ。しかし、その悪霊は既に世祓いされている。何故、今この地に存在するのか。」
「我々が降霊したのではないか、と黒岩さんは仰りたいんですね。」
「非常に危険な存在だ。一刻も早く祓わねばならない。」
「⋯その悪霊の正体は何なんですか?」
「知っているだろう。」
「いえいえ、知りませんよ。」
黒岩と五十嵐は真っ直ぐに睨み合った。
「夜哭深層獄冥縛。」
「冥縛⋯冥縛ですか。有名どころですね。もし降霊出来たとしたら素晴らしい事です。是非、お目にかかりたいものだ。」
「不愉快ですね。」
神谷が落ち着いたトーンで怒りを現した。
「我々には我々の思想がある。神谷さんに、とやかく言われる筋合いはないですよ。」
「誰かを傷付け、不幸にする上で成り立つ思想などくたばって欲しいものです。」
「世の中ってそんなものでしょう?」
「五十嵐。」
「冥縛の事について話せる事は何もないですよ、黒岩さん。私は何も知りません。」
「儀式はしたのか?」
「私はしていません。」
五十嵐は優しく微笑んだ。
「“私は”、か。組織の誰かがしたという事だな。」
「いえいえ、違います。そういう意味ではありません。我々は関係ありませんよ。本当です。」
黒岩は厳しい眼差しを五十嵐に向けたが、五十嵐は目を逸らさず、余裕の様子だった。
「では、誰が降霊を?」
神谷が口火を切った。
「それは、お2人が頑張って探すしかありませんね。今や降霊を望む者達は、我々だけではありませんから。」




