第26章
後藤がお手洗いから戻る頃には、鈴村は凄まじいスピードでハヤシライスを食べ終わっていた。
「あのぉ、すみません。デザートのパンケーキをお願いしますぅ。」
従業員に声をかけ、鈴村は席に深くもたれ掛かった。
「お待たせしました。」
「いえいえ。これからの事ですが⋯。」
「はい。」
「後藤さんはあの家に戻ってはいけません。藤代さんの憑依レベルはそれほど危険です。」
「⋯分かりました。向こうに置いてあった最低限の荷物は持ってきましたので。」
後藤の横には大き目のリュックサックが置かれている。
「安全のため、辛抱を。」
「彼女は大丈夫なのでしょうか。」
「取り敢えず大丈夫です。」
「彼女、食事とかどうなるんですか?」
「これまではまだ自我が残っていたから、辛うじて食事が取れていましたよね?」
「そうです。食事量は減りましたが⋯。」
「あの状態は憑依が進み切った状態ですので、何も食べなくても問題ありません。生気を食べていますから。」
「せ、生気って何ですか?」
「この世に漂っている気⋯としか言い様がないのですが、そんな感じの物です。」
「漫画とかアニメとかに出てくる、オーラとか目に見えないエネルギーとか、なんかそんなんです。」
鈴村が運ばれてきた3段パンケーキにシロップをたっぷりと掛けながら補足した。
「色々あるんですね⋯。」
「後藤さんは、本当に良いタイミングで私達の所に来てくれました。もう少し遅ければどうなっていたことか。」
「どうなっていたんですか⋯?」
「止めておきましょう、飲食店ですし。取り敢えず、命に関わっていたと思ってもらって構いません。」
そう言われて後藤は血の気が引いた。
「もう少し詳しくお聞きしてもいいでしょうか。今回の憑依についてです。事務所でざっくりとお聞きしましだか⋯。」
「⋯はい。構いません。」
「繰り返しになりますが、櫻井千鶴については何も知らないんですよね?」
「知りません。聞いた事もありません。」
「櫻井千鶴と名乗る存在は、藤代さんの事を“ゆみちゃん”と呼んでいました。知り合いだった可能性があります。ですので、藤代さんの事もお聞きしたいです。後藤さんの分かる範囲で結構ですので。」
「藤代さんって、ご家族の方はいらっしゃるんですか?」
鈴村がパンケーキを切りながら尋ねた。
「お父様が。お母様はもう何年も前に亡くなられています。」
「そのお父様は今はどちらに?」
「実は今、入院しているんです。病気を患っていまして。」
「そうでしたか。お父様は優実さんの今の状態をご存知なんですか?」
「いいえ、伝えていません。とても⋯伝えられません。」
「伝えておいた方がいい状態だと思います。ですが、そこは後藤さんにお任せします。」
「⋯はい。」
「美味かった⋯。」
鈴村がパンケーキを食べ終え、満足気な表情を浮かべた。
「櫻井千鶴って、藤代優実さんの友達とかじゃないですかね。なんか友達っぽくないですか?ゆみちゃんって呼んでたあの感じ。」
「それは確かにそうだな。後藤さん、彼女の学生時代の話とか、何か藤代さんの過去の事で知っている事はありませんか?」
「学生時代の話などはした事がありません。彼女、あまり昔の事を語りたがらないので。」
「お付き合いされて、どれくらいですか?」
「3年になります。」
「藤代さんは今29歳で、後藤さんは36歳ですよね?少し年が離れていますが、何処で出会ったんですか?」
「は、恥ずかしいんですが⋯。」
「なんですか、なんですか?」
鈴村が露骨にテンションを上げる。
「街で見かけてナンパしたんです⋯。」
「ええっナンパ!?すごっ、だってナンパ成功したって事ですよね!?」
「うるさいよお前は。お2人はまだご結婚されていないようですが、先程のご自宅は藤代さんのご実家ですか?表札に“藤代”とあったので。」
「そうです、彼女の実家です。私達は普段、アパートで同棲をしていますので⋯。」
「そうですか。」
「同棲ってその、どんな感じですか?興味があって、その⋯やっぱり共同生活って、すごいなんかドキドキするじゃないですかぁ⋯。」
「黙りなさい。」
「早く元の生活に戻りたいですよ⋯本当に。」
後藤が塞ぎ込んだ。神谷は鈴村を睨み、肩に軽くパンチを入れた。
「後藤さん。彼女に異変が起き始めた頃の⋯これまでのお話を詳しく聞かせて下さい。普段は憑依の仮定をあまり聞いたりはしないんですが、今回は聞く必要がありそうてす。鈴村は口を閉じてろ、口を開くな、口という概念を捨てろ、ただ黙って鼻で呼吸してろ。」
「言い過ぎじゃないですか?」
「⋯分かりました⋯お話します。」
塞ぎ込んだまま、後藤は神谷と鈴村に話し始めた。
「悟さん、悟さん。」
後藤は藤代が呼び掛ける声で、目を覚ました。時刻は深夜の3時過ぎ。藤代はベッドから上体を起こしていた。彼女を見て、少し寝ぼながら後藤も上体を起こした。
「何⋯どうしたの⋯?」
「ベッドが。」
「ん?」
「ベッドが揺れてる。」
後藤は藤代の言っている意味が分からなかった。
「どういう事?」
「気が付かなかった?今さっきまで、このベッド揺れてたよ?」
「⋯地震って事?」
「違う。ベッドだけが揺れてた。」
熟睡していた後藤は、そんなベッドの揺れなどまるで感じなかった。
「夢でも見たんじゃない?俺には分かんなかったよ?」
「嘘⋯凄い揺れたのに⋯。」
「ほら、布団に入って。寝よ寝よ。」
そう言うと後藤はまた布団に潜り、目を瞑った。
翌朝、後藤が目を覚ますと、隣にはもう藤代はいなかった。起き上がり、寝室を出てリビングの扉を開けると、窓際に立ち外を見つめる藤代の姿があった。
「おはよう。」
後藤の挨拶に、藤代は反応しなかった。
「⋯優実?」
藤代はそのまま固まったように、外を見続けていた。
「優実。」
「あ、おはよう。」
急に振り返り、いつものように優しい笑顔で藤代は後藤に挨拶をした。
「コーヒー淹れるね。朝ごはんの準備するから待ってて。」
「どうしたの?」
「何が?」
「いや、今。」
「今って?」
「⋯ううん、何でもない。」
藤代は何の事だか、何も分かっていない様だった。後藤は不思議に思ったが、特に何も触れなかった。後藤はそのまま一旦ソファに腰を降ろし、眠い目を擦った。
「そういえば昨晩⋯。」
後藤が尋ねようとしたその時、藤代がいるキッチンの方から何かが割れるような大きな音が鳴った。後藤は立ち上がり、キッチンに走った。
「どうした?」
後藤が駆け付けると、流し台の上で、コーヒーメーカー用の大きなガラス製の器が粉々に割れていた。藤代は割れたガラス片をただ呆然と見つめていた。
「優実、大丈夫?怪我はない?」
「⋯大丈夫。」
「滑ったの?」
「ううん、勝手に割れたの⋯。」
「勝手に割れた?」
「触ってないのに⋯いきなり割れたの。」
藤代は怯えていた。
「そんなまさか。何処かにぶつけたんじゃないの?」
「ううん、本当に⋯本当に触ってないの。いきなり割れたの。」
「そんな訳⋯。」
「いきなり割れたのっ!」
藤代がいきなり大声を上げ、後藤は驚いて体が跳ね上がった。今まで聞いた事がないような、彼女の声だった。
「わ、分かったよ。取り敢えず⋯片付けよう。危ないから向こうに行きな?」
後藤は藤代をその場から離れさせ、ガラス片を片付け始めた。藤代は力が抜けたように歩きながら、ソファに座り込んだ。
「優実、大丈夫?気にしなくていいからね。」
「コーヒー。」
「ん。」
「コーヒー、好きだったなぁ。特にブラックが。」
後藤は藤代が何の話をしているのかまるで分からなかった。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。」
藤代が笑い声を上げ始めた。普段とは異なる笑い方なのは明らかだった。
「優実どうしたの?なんか怖いよ?」
後藤がそう言うと、藤代の笑い声がピタっと止んだ。後藤はリビングを出て、彼女の方を見た。先程と同じ様に、藤代は固まったままだった。しかし、表情は満面の笑顔のままだった。後藤は思わず恐ろしくなり、一歩後退りした。
「優実⋯!」
「ごめんね悟さん、片付けて貰って。」
いきなり藤代が動き出し、話し始めた。心配そうな表情を浮かべており、後藤が知るいつもの彼女の様だった。
「どうしたの?」
「えっ?」
「何か⋯優実、変だよ。」
「どういう事?」
藤代は何を言われているのか、意味が分からないといった感じだった。
「⋯まあいいや。」
「ちょっと待ってよ。何なの?」
「こっちのセリフだよ。」
「ごめん悟さん、私、本当に何を言われてるのか分からないの。」
「優実、疲れてるのかもね。昨晩もベッドが揺れるとか言ってたし。」
「そんな事言ってないよ?」
「言ってたじゃん。夜、俺の事を起こしてさ。」
藤代は困惑しきっていた。
「い、言ってないよ。ベッドが揺れるって何?」
「だからこっちのセリフだってば。」
「⋯分かんない⋯全然⋯分かんない⋯。」
藤代は頭を抱え込んだ。後藤もどうすればいいのか分からず、取り敢えず気にしなくていいと言葉を掛け続けた。




