第11章
激しくなりそうな動悸を必死に抑え、櫻井はデンモクをぐっと握り締めていた。藤代との距離はゼロ。櫻井は彼女の顔を見る事が出来なかった。
「ちーちゃん?大丈夫?」
「うん。」
嘘だった。体温の高まりを全身で感じていた。
「ちーちゃん。」
藤代が自身の左手を、櫻井の太ももに置いた。櫻井は驚き、びくんと体を揺らした。
「えっ⋯。」
櫻井は藤代の方を向いた。彼女の美しい顔が目の前にあり、自分の事を見つめている。
「ちーちゃんってさ、キス、した事ある?」
櫻井の鼓動がどくんどくんと跳ね上がる。これまでの人生で、最も自分がどうにかなってしまうような瞬間だった。
「⋯ない⋯ないよ。」
「私もない。」
そう呟くと、藤代の顔がゆっくりと櫻井の顔に近づいて来た。そして唇と唇が触れ合う寸前、藤代が顔を止めた。お互いの吐息が、お互いに触れ合う。
「ちーちゃんがいいなら⋯しても⋯いい?」
藤代が店内に流れる音楽で掻き消えそうな小声で、櫻井に尋ねた。櫻井はこれは本当に現実なのか分からなくなっていた。しかし、流れに身を任せる事にした。櫻井はごくんと唾を飲み込むと、ゆっくり頷いた。
「声で⋯聞きたい。」
藤代が呟く。
「⋯いいよ。」
櫻井が答えた。それを聞くと、藤代はゆっくりと自分の唇を櫻井の唇に重ねた。2人は目を瞑り、唇を重ねたまま、しばらく固まった。櫻井は今自分が何をしているのか、理解出来ていなかった。
少しして藤代が唇を離すと、2人は見つめ合った。
「これが⋯女性との⋯キス。」
藤代が言葉を漏らした。櫻井は何を話せばいいのか分からなくなった。
「ちーちゃんがコーヒー飲む前で良かった。私、ブラックコーヒー苦手なの。」
藤代が優しくはにかんだ。
「その⋯な⋯なんで⋯キス⋯したの?」
「私とキスしたくなかった?」
「そんな訳ない。」
櫻井はハッキリと答えた。藤代に告白したようなものだった。
「ちーちゃんは、私の事、好き?」
ここに来て櫻井は冷静になり、藤代の言葉を受け止めた。
「⋯好きだよ。私⋯ゆみちゃんの事が⋯好き。」
「ふーん。」
「ふーんって⋯。」
次の瞬間、藤代は再び櫻井にキスをした。今度は短いキスだった。櫻井は不意を突かれ、黙り込んでしまった。
「私も好きだよ。ちーちゃんの事。」
その言葉を聞いて、櫻井は自然と涙を流していた。
「ちょっと、泣かないでよ!」
「⋯ごめん。」
藤代は涙を流す櫻井の手を取った。
「付き合おっか。私達。」
櫻井にとって夢のような言葉だった。急展開に頭が混乱していたが、その言葉の意味は理解していた。
「⋯うん。」
櫻井がそう返事をすると、2人は緊張の糸が解けたように声を出して笑い合った。
「じゃあ⋯ちーちゃん。」
「う、うん。」
「歌って。」
「え。」
帰宅し、放心状態になりながら、櫻井は自室のベッドに腰掛けた。体の力が抜け、そのままピクリとも身動きせず、口も半分開いていた。あの後、藤代に言われるがまま、櫻井は適当なアニソンを入れて何曲か歌唱した。上手だよと藤代は褒めてくれた。彼女も自分が知らない様々な曲を歌唱してくれた。そして時々、唇を重ねた。何度も何度も。藤代がブラックコーヒーが苦手な事を知り、櫻井は結局ブラックコーヒーを一口も飲まなかった。彼女の唇の柔らかさが、今でも脳裏から離れなかった。
櫻井は我に帰り、ベッドにうつ伏せで沈み込むと、枕に頭を埋めて、両足をバタ付かせた。櫻井はまた涙を流しそうになりながら、歓喜に湧いた。信じられない夢みたいな事が起こった。あの藤代優実と付き合う事になった。恋人同士になった。櫻井はさらに大きく両足をバタつかせた。
藤代も同じ頃、自室のベッドに腰掛けていた。初めてのキスを思い出し、そして櫻井の事を想った。藤代は次の瞬間、大きく高笑いをした。
「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ。」
家に藤代の声が響き渡った。
「そっか。こういう感じなんだ。」
藤代は制服から部屋着に着替えると、1階のリビングに降りた。そして部屋の隅に備えられた仏壇の前に座った。仏壇には母親の小さな遺影が飾られており、藤代はその遺影の事をじっと見つめた。
「近い内に私にも分かりそうだよ、お母さん。」
「何かあったの?」
夕食の時間、母親の朋子が突然尋ねた。
「何かって、何が?」
「機嫌良さそうじゃない、千鶴。最近友達と放課後遊んでるみたいだし。」
「別に何もないよ。」
「彼氏でも出来たか。」
父親の始が白米を頬張りながらボソッと呟いた。
「違うよ。そんなんじゃない。」
「あっそう。」
「別に構わないけど、節度は守りなさいよ。」
「だから違うってば!」
「最近どうだ?学校は?」
「なーにも問題ないよ。」
藤代はキッチンで洗い物をしながら拓也と会話していた。
「問題ないのか。それは良いな。」
「でしょ?」
「問題ないのが1番だ。それに尽きる。」
「最近、楽しいんだよね。」
「良い事でもあったのか?」
「そういう訳じゃないけど、何て言うのかな。自分の思い通りに物事が進んでる感じ、かな。」
寝る支度を終えた櫻井は、自室のベッドで横になりながらスマートフォンをいじっていた。画面には今日の帰りに撮影した藤代との自撮り画像が写っている。嘘じゃない。彼女が“彼女”になった。櫻井はまじまじと画像を見続けていた。そして左手でスマートフォンを持ったまま、右手を徐々に自分の下半身へと這わせていった。寝間着ズボンの下に手を入れると、下着越しに右手の指でなぞった。画面を見つめ、声を抑えながら、櫻井は右手で触り続けた。小さく吐息だけを漏らしながら、今度は右手を下着の下へと忍ばせる。櫻井は藤代の事を思いながら、そのまま果てるまで行為を続けた。
行為が終わり、ベッドの上で息を整えていると、スマートフォンに藤代からのメッセージが届いた。櫻井は机の上にあったウェットティッシュで右手を念入りに拭くと、すぐに内容を確認した。
『今日は話さなかったんだけど、確認したい事があるの。』
『確認したい事?何?』
『私達が付き合ってる事、周りには内緒にしてていいかな?学校では友達として接する、みたいな。』
櫻井はこれから訪れるかもしれない障害を考えたが、今はその事を忘れる事にした。今は難しい事は考えたくなかった。
『うん。それで大丈夫だよ。私達たけの秘密だね。』
『そういう事!』
『分かった!』
『そういえばさ⋯』
『何?』
『私達今日、何回くらいキスしたんだろうね。』
『恥ずかしいから止めて!』
櫻井はメッセージを送ると、ふと素朴な疑問が浮かんだ。何故藤代は、自分の事を好きになってくれたのか。こんな地味な私の事を。
藤代は湯船に浸かりながら、櫻井にメッセージを送っていた。ある程度メッセージのやり取りが終わると、藤代はスマートフォンを浴槽の横に置き、ぼんやりと天井を見上げた。急展開ではあったが、結果的に良しとしよう。藤代は自慢げに微笑みを浮かべると、おもむろに乳房を触った。
「そうだ忘れてた。買いに行かないと。」
焦りはしない。でも準備はしなければ。その時のために。藤代は湯船から立ち上がった。浴槽から出ると、洗面イスに座り、鏡に写る自分と見つめ合った。何かを考えると、藤代は剃刀を手に取った。
部屋着姿になり、浴室から出た藤代は、1人リビングの真ん中に立った。拓也は既に寝室で眠りについている。櫻井との関係を知ったら、拓也はどんな反応をするのか。藤代は容易に想像がついた。そして冷たい目つきで仏壇を睨み付けた。




