1 迷子の獣たち
雨は昼過ぎから降り始めていた。
最初はぽつぽつと窓を叩く程度だった雨粒も、山道へ入るころにはすっかり勢いを増している。
高速バスの窓ガラスを無数の水滴が滑り落ち、その向こうに見える景色をぼやけさせていた。
バスの屋根を打つ雨音は次第に強くなり、生徒たちの話し声を少しずつ飲み込んでいく。
車内の空気はどこか重かった。
少し湿ったような制服の匂い。
エアコンの冷たい風。
長時間の移動で溜まった疲れ。
修学旅行二日目。
本当なら今ごろ、旅館に着いて夕飯を食べている時間だった。
黒崎スズメは曇った窓に額を預け、小さく息を吐く。
窓ガラスがひんやり冷たい。
指先で曇りを拭ってみても、外は灰色の雨に滲んでよく見えなかった。
「うぅ ...... まだ着かないのぉ ...... ?」
隣の席から、間延びした声が聞こえる。
灰原ヒヨだった。
彼女は半分眠ったまま目をこすり、ふわふわした髪を揺らしている。
数分前までぐっすり寝ていたくせに、起きたと思ったらまた眠そうだ。
「ヒヨ、もうすぐ着くってさっき言ってたよ」
「スズメぇ ...... それ、一時間前にも聞いたぁ ......」
「そうだっけ」
「そうだよぉ ......」
ヒヨはふにゃりと笑うと、再びシートへ沈み込む。
数秒後にはもう、小さな寝息が聞こえてきた。
「寝るの早 ...... 」
スズメは苦笑する。
こういうところは昔から変わらない。
小学生のころも、ヒヨは遠足のバスで真っ先に寝ていた。
その少し前の席では、紫泉クジャクがスマホを眺めていた。
「え、最悪。全然電波入んないんだけど」
不機嫌そうに眉を寄せ、何度も画面を更新している。
「この山さぁ、終わってるでしょ。せっかく写真上げようと思ったのに」
「クジャク、そういう時でもSNSなんだな」
後ろの席から橙仙オカメが身を乗り出す。
「だって大事じゃない?今って"リアルタイム感"が命だし」
「へぇー ...... オレはそれよりレイちゃんが心配だなぁ」
オカメはしょんぼりと窓の外を見た。
「別のバスなんでしょ?ちゃんと着けてるかな」
「大丈夫だろ。お前の"レイちゃん"は子供じゃねぇんだから」
吐き捨てるように言ったのは赤原コウノだった。
彼は腕を組み、苛立った様子で足を揺らしている。
一定のリズムで鳴る靴音が、妙に耳についた。
「つーか、いつまで止まってんだよこのバス」
確かに、バスは十分以上前から動いていない。
最初は渋滞か何かだと思っていた。
けれど、さっきからまるで進む気配がない。
前方では運転手と教師の白野アサヒが何やら話し込んでいた。
普段は穏やかなアサヒも、今は真面目な顔をしている。
スズメはなんとなく落ち着かず、スマホを取り出した。
画面には兄 _____ カラスとのトーク画面が表示される。
『まだ着かない』
そう打ち込んでから、少し迷う。
送信ボタンを押そうとして、やめた。
画面の右上には、圏外の文字。
「...... だよね」
小さく呟いてスマホをしまう。
窓の外では、激しい雨が絶え間なく山を叩いていた。
暗い山道。
濡れたガードレール。
ヘッドライトに照らされたアスファルト。
その先は、雨に塗り潰されて見えない。
なんだか、世界から切り離されたみたいだった。
「...... なにかあったのかな」
ぽつりと呟いた時だった。
_____ ぐしゃり。
嫌な音がした。
湿った土が崩れるような音。
直後、がたん、と大きく車体が揺れる。
「きゃっ?!」
短い悲鳴が車内に走った。
ヒヨがびくっと跳ね起きる。
「な、なにぃ!?」
「うるせぇな ......」
コウノが舌打ちするが、その声も少し強張っていた。
運転手が慌てた声を上げる。
『皆さん、座席から立たないでください!』
その声は、どこか緊張していた。
ざわついていた車内が、一瞬で静まり返る。
スズメは息を呑んだ。
前方の窓の向こう。
ヘッドライトに照らされた道路に、大量の土砂と木々が崩れ落ちていた。
「...... え」
誰かが小さく声を漏らす。
山肌が崩れていた。
茶色い土。
折れた木。
ぬかるんだ泥。
それらが道路を完全に塞いでいる。
雨は今も容赦なく降り続け、崩れた土を黒く濡らしていた。
「うわ ...... マジかよ」
オカメが顔を引きつらせる。
クジャクもスマホから顔を上げた。
「ちょっと待って、これって ...... 通れない感じ?」
その問いに答える者はいない。
激しい雨音だけが車内に響いていた。
やがてアサヒが席を立ち、生徒たちの方を向く。
「みんな、落ち着いて聞いてくれ」
普段と変わらない穏やかな声だったが、その表情は少し硬い。
「この先で土砂崩れが起きてる。復旧には時間がかかりそうだ」
ざわり、と空気が揺れた。
「えぇー!?」
「はぁ!?」
「マジで言ってんの!?」
不満と不安が一気に噴き出す。
アサヒは両手を軽く上げ、生徒たちをなだめた。
「今、運転手さんと相談してる。たぶん一度引き返して、安全な場所まで戻ることになると思う」
「戻るってどこに?」
クジャクが鋭く聞く。
「近くの町だ。宿泊先も _____」
その時だった。
「...... 先生」
静かな声が車内に落ちる。
銀谷カワセだった。
彼は窓際に座ったまま、じっと外を見つめている。
その横顔は妙に落ち着いていた。
「なんだ?」
「...... あれ」
カワセが窓の向こうを指差した。
全員の視線がそちらへ向く。
雨の帳に滲む山の奥。
暗闇の中に、小さな灯りが浮かんでいた。
ぽつりと。
まるで。
こちらを待っていたみたいに。
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