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音楽記号:人間を木で叩くように  作者: 1文字以上(十左近ジュウ)
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05 開放弦


 もっと弾きたかった。もっと創りたかった。その無念が、形となって、またここに戻ることができた。


 だが私は実の体を持たない。生身のお前たちを借りなければ存分に音を具現化することができない。それでここに居座って、人間と契約しながら、音楽を練り上げ、紡ぎ上げてきたというわけだ。


 ここまで詳らかに話してやったのはお前が初めてだ。お前は私の音楽を崇拝したからな。



 ◇



「女よ、選べ。神の音楽に近づくか、凡庸のままで終わるのか」


 影はまた同じ質問を繰り返す。


 影の音楽と人生を耳にして、恍惚とした気持ちと恐ろしい気持ちが混ざり合って溶けていく。しかし私はふっと冷静になった。影に問い返す。


「何か条件があるのではないですか。長い間、この楽団で第一奏者になった者はいないと聞いています」


 影は少し間を置いて、ひときわ揺らめいてから答えた。


「お前にも1人は殺してもらう。さもなくば、神の音を本当には得られない。媒体となる者においても、等しく人では無くなる、これをもって私の音楽は完成する」


 影は私に甘言を吐き、畳み掛ける。


「さあ、私に体を開け渡せ。そうすれば、最高の音楽をお前に与えることができる。欲しくないのか?」


 黙り込む私に影は後押しをする。


「今までも、何人も、この楽団の者が私と契約した。思い返してみろ。以前はこの楽団もずいぶん華やかだったろう」


「私を媒体として選んだ基準は何なのですか」

「決まっている。楽団で一番音楽を理解している者だ。栄誉であろう?」


 その言葉は私が欲しくて欲しくて堪らなかったものだった。神の音楽を操る影に私は選ばれた。私の心は揺らいで、高揚して、影の暗黒に吸い込まれそうになった。


「迷うことはない。私は神の音楽を得たことを一度も後悔していない。なに、1人だけでいいのだ。お前にも後悔はさせないよ」


 私は迷った。そして迷った自分を恥じた。


 かつてまだ戦争や紛争が日常だった頃、その誘いはまだ飛び越えられる条件だったのだろう。けれど私がこれまでの人生で長く培ってきた倫理観は、神の音楽との交換を以てしても、捨て切れるものではなかった。

 少なくともこの四半世紀、影は媒体が見つからなかった、それが答えではないか。私は決めた。


 断りの言葉を震えながら口にする私に、影はひどく落胆した様子だった。


「特別に許してやろう。だが、すぐにここを立ち去れ。私と契約しない者など不要だ。すぐに立ち去れば命までは取らないでおいてやる。お前は私の音楽を崇拝したからな。それは記念にくれてやる」


 私の腕にある、走り書きの採譜を一瞬だけ明々と照らすと、影も灯りも地下の闇に消えていった。



 影が消えてから、ようやく私は震えが始まった。今までの不思議な出来事は、私がうたた寝でもして見た夢なのではないかと疑ったが、腕にはしっかりと採譜が残っている。ペンの後が消えないよう、そっと上着を着て、私は壁に手をつきながら、よろよろと地下の階段を上がる。


 警備員室にはまだ誰もいなかったが、入館受付台にあった宅配用のビニルで楽器ケースをぐるぐるに巻き、履き潰しを覚悟してステージシューズのまま通用口の扉を開ける。

 そして私は豪雨の中を一目散に駅まで走った。


 それからすぐに私は楽団を去った。



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