03 第三弦
それは夏の終わりの、薄曇りの日だった。
その日は私の靴が無くなった。うっかり履いたままだったステージ用のシューズから、出勤する時に履いてきた靴に履き替えようとしたら、もうそこに無かった。さっきまで、本当にさっきまでここにあったのに。
ステージに関係のないものが失くなるのは初めてだった。弓とか松脂とか、楽譜に譜面紙、クロス、替えの弦、肩当てだとか。とくに楽譜はよくやられて、私がすぐに気づかないよう一枚だけ抜かれていたりした。
それらはしばらくすると、いつも地下のどこそこで見つかった。見つかるには見つかるが、いま使いたいのに、という場面で巧妙にバッグやケースから抜かれてしまう。
粘着質な相手のようだから、自分では地下へ取りに行かないように、と楽団マネージャーから釘を刺されていた。けれどマネージャーは今日は非番で、靴無しでは家に帰れない。どうしよう。
その日はどうしてもうまく指が回らない速弾きの楽譜があって、ホールでの全体練習のあとも練習室に残っていた。そこまで長くやるつもりは無かったけれど、気づけばすっかり日が暮れていた。
集中していたのだろうか、いつの間にか周囲がしんとしていて驚く。今日は劇場も休館日だし、午後から天気が崩れると朝から予報が出ていた。それで皆、早々と引き上げたようだった。
きっとユリウスは私に声をかけてくれただろうけど、集中していて気づかなかった。
トンと屋根に何か強く当たる音がする。
トン……トン……と建物を打つように、雨がぱらつく音が始まった。音楽ホールを内包するこの古い洋館は、ホール以外も天井が高くて、自然の音色がよく響く。雨音が強まってくると、雨のリズムは厚みを増し、それはすでに音楽だった。
雨は好きだ。けれど水滴や湿気は、楽器にとって大敵だ。この強めの雨の中、歩いて帰ることは絶対に避けたい。そもそも歩くための靴もない。
今月そんな余裕ないのに、とため息をついて、タクシーを呼ぼうと、のろのろと重い腰を上げた。
楽器も守りたいし、ステージ用のシューズを雨のなか歩いて履き潰すわけにはいかない。これだってもう何度も失くなっているのだ。
私は自分の荷物を全部まとめて両手に持って、練習室から関係者出入り口に続く通路を進む。出入り口前の小窓から警備員に鍵を返そうとしたが、電気はついているのに誰もいなかった。
警備室前の電話を使い、タクシー会社に電話をかけるがつながらない。やっとつながったと思ったら、この後に大雨が来るそうで、タクシー運転手もみんな家に帰ったから配車できないと言われた。もうひとつのタクシー会社も同じ回答だった。この国ってそういうとこある。
観念して建物の地下に向かった。靴を取り返しに行くのだ。
ずいぶん古い石と木でできた階段を降りていく。地下はお客の目につかないフロアだから、改装がされていない。大荷物だから滑らないよう足元に気をつけないと。
今日はもうみんな帰っているから、犯人と出食わすこともないだろう。いや待って、もしや警備さんが犯人ということは無いだろうか。
疑心暗鬼になりながら地下フロアに降りた。地下はほとんど倉庫と化していて、人などいないはずなのに、ひとつだけ灯りのついた小部屋があった。警備さんかなと思い、私は何の気なしにその半開きになった扉の内側を覗く。
覗いた瞬間、覗いたことを後悔した。
「来るのが遅い」
私に声をかけ、そこに立っていたのは、異形の大男だった。
「皆もっと早く辿り着いたぞ」
私は声が出ない。
大男は黒い影に包まれていて、陽炎のように姿が揺れている。
「まあ致し方なかろう。人の仕業と思われても。音楽の世界で女が成り上がれば嫌がらせは日常だ。私の時代もそうだった」
男は自分で自分の言葉に頷いている。口ぶりからすると、過去に生きた人間なのだろうか。
「しかもお前は異国人なのだろう。私も異人は初めてだ」
男が私の方に少しずつ近づいてくる。私は膝が笑い始めた。黒い影は、探していた私の靴をこちらに差し出しながらこう言った。
「女よ、選べ。神の音楽に近づくか、凡庸のままで終わるのか」
揃えて差し出した靴を、私が一向に受け取らないから、影は指の力を緩めて、その場にぽとりぽとりと私の靴を落とした。
黒い影は、私の答えを待たずに、話を続ける。
「私と契約するがいい。ためしに体を貸してみろ。私に認められなければ、この楽団で第一奏者になどなれないぞ」
そんなことを言われて、異形にほいほいと自分の体を貸せる訳がなかった。声も出せず、身じろぎもできずにいると影は甘く囁いた。
「少しだけ聞かせてやろう。特別に」
瞬間、頭の中を聞いたこともない音楽が駆け巡った。




