八 巫
真神白玉神社の境内。
伊月がどこからか運んできた筵の上に、猫又の桃が横たわっている。
桃はかなり消耗している様子で、呼吸は依然として浅く、目も虚ろだった。
「目立った外傷はないようですが、だいぶ辛そうですね」
伊月が桃の状態を診ながら言った。
「やはり獣に変身した影響でしょうか?」
「どうじゃろうな。体内の霊気が極度に活性化して負荷がかかったか、あるいは霊的な経絡の乱れか――」
千世も筵の上の桃を凝視している。
「それにしても消耗が激しい。異形と接触したことも関係あるかもしらん」
「だとしても、どう対処すべきか……」
「ううむ、木天蓼でも嗅がせてみるか」
「余計に悪化してしまうのでは――」
どうにも治療の方針が定まらないようだ。
ここで、沙智の中にひとつの疑問が生まれた。
「そういえば――常世で怪我や病気をしたら、どうやって治すの?」
誰にともなく尋ねた。
「大抵は、安静にしていれば治ります」
伊月が答える。
「御存知のとおり――常世の生物の体内には霊気が流れています。怪我や病気をすることで、その霊気の流れにも異常が生じるようです。ただ、不調があっても痛みはほぼ感じない。代わりに妙な倦怠感や、力が抜ける感覚があります。しかし、素人目にはそれらの症状だけでは原因を特定しづらいのです」
まだ常世に慣れていない沙智には想像しにくい話だった。
伊月がさらに続ける。
「時間をかければ体内の霊気は健全な状態に戻ろうとする。それにつれて、怪我も病気も回復していきます。基本的には医者いらずで、楽なものですね」
「じゃあ、桃ちゃんも待っていれば、そのうち治りますか?」
「そうかもしれませんが、この苦しみ具合はちょっと、普通じゃない」
伊月は困ったような表情で桃を眺めている。
「純粋な人と獣人では、霊気の流れも違うのかなあ――」
桃の顔色が青い。
まるで、血の気が引いたようだ。
体内の霊気が乱れると、こんな風になるのか。
「ともかく、安静にするべきですね。社務所に移しましょうか」
伊月がそう言った直後、拝殿の裏手から人影が近づいてくるのが見えた。
凪と、碧太郎。
そして、その後ろから歩いてくるのは――
子供だ。
巫女装束らしき白衣をまとい、赤い袴を穿いた、おかっぱ頭の子供。
千世よりも、ずっと背が小さい。
幼稚園生か、小学校に上がりたてくらいの年頃か。
子供は無表情のまま、真っ直ぐにこちらへ歩み寄ってくる。
「依姫様――」
膝をついていた伊月は、立ち上がってそう言った。
「タマ坊」
千世も口を開く。
「タマが急に、こっちに――」
凪は困惑している。
彼女が、この子供を連れてきたわけではなさそうだった。
「タマ」と呼ばれた、おそらく少女であろう子供は、仰向けになった桃のそばまで来ると、その袖を引っ張りはじめた。
「なにをしとるんじゃ」
千世は訝しげにそれを眺める。
「多分、どこかに連れていきたいんじゃないかしら」
代わりに凪が答えた。
タマはなお、ぐいぐいと袖を引っ張るが、さすがに桃が重くてびくともしない。
「私が担ぎましょう」
伊月が言うと「手伝うわ」と、凪が桃の上体をゆっくりと起こす。
そのまま伊月が桃を担ぐと、タマは反転して拝殿の脇へ向かって歩き出した。
タマに吸い寄せられるように、その場の全員が後を追う。
拝殿の横を通り過ぎ、境内の奥へと向かう。
どこへ行くつもりなのか。
そもそも、この娘は何者なのか。
沙智は、なんとなく不安だったが、千世たちがなにも言わずにタマについていくので、自分もそれに続くしかなかった。
神社の最奥――拝殿の裏手にある一本の細い道をさらに進む。
この奥は森だ。
密集した樹木の海に囲まれると、途端に辺りが静寂に包まれた。
心なしか気温も少し下がった気がする。空気が張り詰め、荘厳な雰囲気が漂う。
木や苔の緑、木立の間からのぞく象牙色の日光、朽ち葉と一体になった土の色の全てが混ざり合い、それらが巨大な神霊となって、畏れ敬えと語りかけてくるようだ。視界の彩度が低下し、沙智は軽い目眩を起こしたような錯覚を覚えた。
ここは、本当の神域だ――
理屈なしにそれが解るほど、この場所は特別だった。
タマが突然、歩みを止める。
そこには、青い縞をもつ銀白色の岩が鎮座していた。
これは――前に千世が見せてくれた「霊石」だ。
丁度、千世の背丈ほどの大きさの岩だった。
こんなに大きい霊石もあるのか、と沙智は驚いた。
「これは、祭神か?」
千世が尋ねた。
「いえ――この神社で祀っているのは真神のはずです」
桃を担いだ伊月が答える。
「いずれにしても、この岩はずっとここにあるのです。神社の名にある『白玉』とは、これのことかも知れません」
「お前は神社の人間であるというのに、なにも知らんのか」
千世が煽り立てるように言うと、
「いやあ、記録がほとんど残っていないんですよ」
などと、なぜか照れたような顔で伊月が答えた。
「それはそれとして――」
千世がタマのほうを見る。
「なぜここへ猫を連れてきたのだ?」
そう聞かれたタマは、急に目の前の大岩を蹴り始めた。
「依姫様?」
伊月は、タマの謎の行動に戸惑っている。
他の者も、どうしてよいか分からず、ただその場に立ち尽くしてしまう。
まさか岩を蹴ることが、この神社の参拝方法なのか、と沙智は一瞬思ったが、さすがにそんなわけはないだろうと、己の思いつきを振り払った。
「タマ、どうしたの?」
凪が尋ねると、タマは今度は岩に両の掌を当てて、押しのけようとする。
当然、重すぎるようで、全く動く気配はない。
「岩を除けたいの?」
再度、凪が尋ねると、タマは頷いた。
「除けるといっても、このでっかいのをねえ――」
五人で押せば動くだろうか。
しかし女子供が多い。人力で大岩を動かすことは難しいかもしれない。
「そもそも、御神体らしきものを動かしてよいものか……」
伊月は考えあぐねている。
タマは未だ、岩に身体を押しつけて、ふんふんいっている。
なんとも奇妙な光景だ。
すると、しばらく考え込んでいた千世が、
「この岩、ぶち壊してもよいかの?」
などと、いきなり物騒なことを言いだした。
「いえ、それはさすがに――」
伊月が異を唱える。それはそうだろう。
このような神域で、いわくありげな岩を壊すなど、普通は抵抗がある。
そもそも、それが原因で山の神に祟られなどしたら、どうするのだろうか。
昔、真神が怒って、人を山から追い出したという話を伊月から聞いていたので、また同じようなことが起こるのではないか、と沙智は思った。
そこで、先ほどまで岩に取り付いていたタマが、再び足で蹴り出した。
「ふむ」
その様子を見て、千世は我が意を得たりといった表情で、
「やはり、壊してよさそうではないか!」
と、嬉しそうに言った。
「えぇ……」
沙智は難色を示す。
祟られたくないのである。
「しかし、タマ坊が『やれ』と言っておるし」
千世はなぜか沙智の肩に手を置いて、薄笑いを浮かべている。
「なにも言ってないけど……」
「目を見れば分かる」
「分かんないよ」
大体、この岩を壊したところで、どうなるのか。
「どう思いますか、凪さん」
伊月が、ずっと黙って見ていた凪に話を振る。
「どうって言われても……」
「依姫様が、ここまではっきりと意思表示をするのも珍しいのでは」
「そうなんだけど……」
「いずれにしても、この岩の下になにかがあるのは間違いなさそうです」
伊月は好奇心が芽生えたのか、徐々に千世の意見に寄ってきている。
千世はタマを指でつつきながら、
「だったら、やってしまっても構わんじゃろ。神社で一番偉い者も構わんと言っておるし。岩なんぞ、また拾ってくればよい」
こんな大きな岩を、どうやって拾ってくるのか。
それに「神社で一番偉い者」とは――?
まさか、このタマという娘が、そうなのか?
「玉依姫様――これは僕が勝手にそう呼んでいるだけ、なのですが」
伊月がようやく桃を地面に下ろし、木の幹を背にして座らせながら言った。
「この方は、私や凪さんより以前から――それもかなりの大昔から、この神社にいらっしゃる、と思われます」
そうなのか――
常世では人は年をとらない、とは聞いたが、この娘はずっとこの姿のまま、真神白玉神社を守っているというのか。
「タマについて、あたしもそこまで詳しくは知らないけど――もしかすると、この神社ができる前から、この山にいるかもしれないのよ」
凪が補足する。
ならば、この神社の主はタマなのか。
「神主とは違うわね。今はあたしが一応、宮司役をやってる。タマは真神の巫女なのよ。着ているものでわかるでしょう」
沙智には、違いがよく判らなかった。
「おおい、そろそろやるぞッ」
千世が痺れを切らしている。
「危ないから、タマ坊は一旦退いておれ」
タマは凪に連れられて、岩から離れた。
沙智も「危ない」という言葉に反応して少し後ろに下がる。
伊月だけは、興味深げに岩のそばで様子をうかがっている。
千世は懐から札を一枚抜き取り、深く息を吸った。
やはり、本当に壊すつもりなのか。
「当たったらすまん――」
なにやら不吉な言葉を残し、千世は札を岩に押し付けた。
札に描かれた文様が、淡く青く発光する。
やがて、ミシミシという音が岩から聞こえてきた。
千世が後方に飛び退くと、音は次第にメキメキと響きを変え、次の瞬間には、岩は呆気なく割れてしまった。
凪と伊月が驚いている。
それを尻目に千世は、
「ふむ、やはり使えるな。破片が飛び散ることもなさそうじゃ」
などと、霊符の効果に満足した様子で言った。
割れて崩れた岩を見て、伊月はまたも興奮した。
「おおッ! こんなこともできるとは――」
「しっかと見たか、『破磐の術』の力を」
これも、沙智と千世が事前に開発していた霊符のひとつだった。
霊符の作成には、文様を描く為の顔料となる石――霊石が必要になる。
それを楽に掘り出すために、術の力でどうにかできないかと千世が言い出したのをきっかけに、ふたりで編み出したのが「破磐の形」だ。
「この霊符を描いたのも沙智じゃ。こやつは少々ぼうっとしておるが、このような格別の才を持っておる」
沙智は急に褒められて、少し照れくさかった。
しかし、自分の技術がなにかの役に立っているという事実が、少しずつ自信につながってきている。それが嬉しかった。
「しかし――」
伊月が手を顎に当てながら言う。
「本当に岩が割れてしまったわけですが、さて、どうしたものか」
「うむ、これを見よ」
千世が散らばった岩の残骸を足で除ける。
それを見て、伊月も大き目の破片を取り除くのを手伝った。
「こ、これは――」
砕けた岩の下には、円盤状の石らしき物体が隠されていた。
円盤には多数の幾何学模様が描かれ――否、彫られている。
これは明らかに人工物だ。
「こりゃ、七宝の文様か? 鱗の柄も見えるな」
千世が早速、円盤の分析を始めている。
「文字は――彫られていませんね。円と多角形で構成された紋様の集合体です」
伊月も分析に加わる。
沙智は遠目に円盤を眺めたが、それがなんなのかは当然分からない。大きいマンホールの蓋、くらいにしか思わなかった。
皆が円板に夢中になっていると、後方から声が聞こえた。
凪が呼んでいる。
沙智が振り返ると、タマが桃を再び引っ張ろうとしている。
「急にまた、この娘を引っ張り始めたのよ」
桃を運べ、ということなのだろうか。
「伊月先生って、珍しいモノを見ると夢中になっちゃうのよね。あなた――沙智だっけ? あたしと一緒に、この娘を運べる?」
沙智は凪の言葉に頷いて、桃の脚をつかむ。
凪は背中側に回り、脇の下に腕を入れた。
「落とさないようにね。せえのッ、よいしょ――」
ふたりは桃を持ち上げ、千世たちのほうへ移動した。
タマもついてくる。
円盤のそばに至ると、タマは「その上に下ろせ」とばかりに無言で指で示した。
「なにが始まるのかしら……」
沙智の隣に立つ凪が、円盤の上に仰向けに寝かせられた桃を見ながら言った。
「まさか――」
千世が右手を口元に当てながら言う。
「猫又を生贄に、真神を呼び出すつもりか?」
「そんなことしないわよ! 多分……」
凪は否定したが、この状況を見る限り、如何にもそんな雰囲気ではあった。
皆が見守る中、タマは首にかけていた紐を外した。
「勾玉――か」
紐の先には、淡い緑色の石らしき装飾品が結ばれていた。
タマは緑の勾玉を手に収めると、桃の下腹の辺りに押し当てた。
すると――
円盤に彫られた文様が青く光り始めた。
その様は、霊符の文様が光る様子によく似ている。
やがて、桃の身体の表面も淡く光り出す。
周りの者は皆、固唾を呑む。
しばらくすると、タマは勾玉を桃の身体から離し、再び服の中へと戻した。
「ああ……」
身体の発光が収まった後、桃がゆっくりと起き上がった。
「な、なんだい、これは――体が、動く」
どうやら、タマの施した儀式によって、桃の体調が回復したようだ。
「やるではないか、タマ坊!」
千世はタマの頭を撫でた。
タマはただ、虚空を見つめている。
「あなた、本当に大丈夫?」
凪が桃に尋ねる。
「へ、平気みたいだねぇ」
桃は自分の身体のあちこちを確認している。
「全体、なんだかわからないけど――世話になったらしいね」
驚きつつも、少し罰の悪そうな表情で、桃は言った。
「と、ともかく――」
伊月が思い出したように発言する。
「一旦、社務所に戻りませんか? 諸々、報告もありますし。今後どうするかも話し合わなければ」
一同はそれに同意し、境内へと歩きだした。




