六 社
「神社へ行ってみるか」
翌朝、あばら屋で起床した沙智に、千世はそう言った。
「神社?」
「この辺り一帯は、『真神』――狼の神が幅を利かせておる。それを祀る社が山の上にあるんじゃ」
「オオカミ――」
猫の妖怪に出会ったと思えば、次は狼の神様か――
沙智は否応なしに御伽噺の世界の深みへと、誘われていくようだった。
「異形退治に関しては、少し様子を見たい。如何わしい猫も現れたことだし、どうにもキナ臭さが増してきとるからの」
それには沙智も同意だった。
「神社の者が、山の状況を把握しているかも知りたいし、あすこには役立ちそうなモノや人がある。今後この『白玉』で暮らすならば、沙智も顔を見せておいて損はないぞ」
この里の一帯は「白玉」と呼ばれているらしい。
ともかく、すぐに異形を狩りにいくぞ、ということにならず、沙智は安堵した。
神社へと続く道は、なかなかに険しいものだった。
あばら屋から体感で三十分ほど歩き、狭い山道へと入る。
鬱蒼とした霧深い山林。石も敷かれていない、獣道一歩手前の山路をひたすらに上っていく。全く山慣れしていない、都市部に住む文化系の学生だった沙智には少々、厳しい道行きだった。
少しずつ道が広くなってきたあたりで、幅広の石が敷かれた簡素な階段が姿を現す。その石段は、間もなく目的地に着くことを知らせていた。
石段を登り切ると、そこには確かに、小さな神社があった。
前方には小さな拝殿や社務所のような建物が見えるが、鳥居が見当たらない。
参道の脇には犬のような石像が鎮座している。これは件の狼の神様なのか、その眷属なのかは、沙智には判らなかった。
頭上には青空が広がっている。心地よい風が沙智の髪を揺らした。
神社に着いて、まずは参拝するのかと思いきや、千世は真っ直ぐに社務所らしき建物に向かった。
社務所の入口の引き戸を開け、「御免」と呼びかけると、ほどなく白作務衣をまとった眼鏡の男性が出てきた。
「ああ、これは、千世和尚」
「息災じゃったか、メガネよ」
「ええ、お陰様で。ご無沙汰しております」
メガネと呼ばれたこの男は、この神社の神主だろうか?
それにしては袴などを穿いていないし、施設の管理人かなにかか、などと沙智が考えていると、男が口を開いた。
「失礼ですが、そちらの方は――」
「これは沙智という。儂が世話をしておる娘じゃ」
「そうでしたか」
眼鏡の男性は膝をつくと、綺麗な所作で沙智へ一礼した。
「お初にお目にかかります。僕は『伊月』という者です。ここ『真上白玉神社』で雑用や、使い走りをさせていただいております」
存外に丁寧な挨拶をされ、沙智は恐縮した。
「あっ、その――沙智、と申します」
千世についてきただけなのだが、やけに丁重に扱われてしまった。
ひょっとして、千世は結構、偉い人なのだろうか?
沙智の緊張した面持ちを見て、伊月は柔らかい笑みを浮かべた。
「この沙智は、おそらくメガネと近い時代の者かと思うのだが」
「おや――そうなんですか」
伊月は、沙智の顔を眺める。
「僕は昭和の生まれです。浮世では未熟ながら教職に就いていました」
それならば、確かに沙智が暮らした時代とかなり近い。
「常世では慣れないことも多いでしょう?」
伊月が沙智を気遣うように言った。
「はい、そうですね――」
なにせ、千世の怪しげな霊術や、猫又をこの目で見たのだ。
「僕も、来たばかりの時は随分と困りました。ですが、馴染んでしまえば、なかなかに良い所ですよ」
伊月は、言葉遣いもそうだが、千世や桃などと比べると雰囲気が「普通」だと感じられる。権兵衛も、常識人ではあるのだが、やはりどこか「昔の人」らしき空気を醸し出していた。
「ところで千世さん。今日はどのような御用で?」
伊月が用件を尋ねる。
「うむ、沙智坊の顔見せというのもあるが――このところ、山でちょっとな」
「山で?」
「異形が出て、人夫が襲われたとかいう噂話を聞いての」
「異形――ですか」
伊月は、少し困惑したような表情を見せた。
「お前さんらは、知らなんだか」
「そうですね。そんな話はこれといって」
「ふむ、ならば大事ではなさそうか」
千世は腕を組んで、なにやら考えている。
「宮司に話して参りましょうか?」
「いや、儂が行ってこよう。どこにおる?」
「拝殿の辺りか、裏手のほうかと」
それを聞いた千世は、
「沙智よ、儂は少し話をしてくる。メガネに色々と教えてもらうがよい」
と言い残し、社務所を後にした。
◆
「沙智さんは、常世へ来たばかりなんですね?」
「はい――昨日、一昨日くらいに」
「そうですか。しかし来てすぐに千世さんと出会うとは、なかなかに稀有な巡り合わせだ」
境内の端に置かれた木製の腰掛けに座り、沙智は伊月と言葉を交わしていた。
「正直、色々ありすぎて頭がパンクしそうです」
「はは、あの方といると、そうかもしれませんね」
伊月にとっても、千世はなかなかに癖のある人物らしい。
「あの……千世ちゃんって、何者なんですか?」
沙智は、気になっていることを尋ねた。
「彼女はね、実のところ、僕もよく知りません。なんとも謎の多い方です」
伊月は千世と顔見知りらしいが、深いところまでは分からないということか。
「権兵衛さん――木樵屋っていうお店をやっている人ですけど」
「ええ」
「あの人も、千世ちゃんと親しそうですけど、詳しくは知らないみたいでした」
「そうですか。千世さんは、ご自分のことはあまり話されない」
伊月は、なんとなく寂しそうな目で言った。
沙智は境内を眺めた。
浮世にある一般的な神社と比べて、ここはだいぶ地味というか、自然に溶け込んでいる印象だ。敷地もだいぶ狭いが、それがかえって神々しさを感じさせる。
「この神社って、狼の神様を祀っているんですか?」
「ええ。千世さんに、お聞きしましたか」
「はい」
「――真神白玉神社のマカミとは、まことのかみ、と書きます。真神は、かつて日本に生息していたニホンオオカミが神格化したものといわれている」
伊月は腰掛けから立ち上がった。
「また、白玉とはおそらくは霊石、あるいは白翡翠のことだと思われます。この辺りの山には、霊石や翡翠の鉱脈が多くある。昔は採掘が盛んだったようです。しかしある時、この山の神――真神が、お怒りになった」
沙智は、無言で伊月の話に耳を傾ける。
「人々が石を掘りすぎたのか、はたまた山を好き放題に荒らしたのか――なにが原因かは判りませんが、真神は山から人を追い出したそうです。その怒りを鎮めるために、この神社が建てられたといわれています」
「はあぁ」
いかにも、ありそうな昔話だ。
「まあ、伝説などでは、よくありそうな話ですよねえ」
伊月も同じような感想を口にした。
「ただですねぇ――」
伊月は拝殿の方向へと振り返る。
「単なる伝説と違うのは、その真神が本当にいる、というところです」
「本当に――?」
『狼の神が幅を利かせておる』――
千世の言葉は、やはり実際に神が存在するという意味だったのか。
「人は古来より、豊作は神の恵み、凶作は神の怒り、などと考えていた。また、豊穣や凶荒などと同じく、嵐や洪水、日照りや落雷などの人にはどうすることもできない自然現象は、神様が司っているのだ、とすることで納得していたんですね。当時の人が見た世界のありさまや、社会に関わるあらゆる局面から、神という概念が生まれ出た」
伊月の解説が始まった。
「それは、なんとなく分かります」
「ただ、ここ――常世においては全く違って、神とは単なる概念ではない。神の姿をこの目で見られるんですよ。様々な事象から遡って神が作られたのではなく、純然たる事実として、始めから神がいるのです」
やはり――そうなのか。
桃のような猫又も存在するくらいなのだ。神が実際にいても不思議ではない。
否、もちろん不思議ではあるのだが――沙智は、そろそろ常世の道理に順応するべきなのだろう、と思い始めた。
「この山に霊石などの資源が豊富に眠っているのは、真神の莫大な霊力――加護があるからだと僕は思います。ひょっとして、常世に存在する霊場や神域といった場所は、どこもそうなのではないかと想像すると、興味が湧いてきませんか?」
伊月はどうやら、常世の歴史や文化というものに強い関心があるらしい。その辺りは、元教師ということも関係しているのだろうか。
一方、沙智は、神様がいるのなら、自分の目で見て絵に描いてみたいと思った。
「ああ、素晴らしいですね。沙智さんは絵を描くのが好きなんですか?」
「はい――特に、画家志望とかではないんですけど」
「そうですか。まあ、こんな世の中ではね」
「あ、でも、千世ちゃんの手伝いで、御札を描いてみたりはしてます」
「ほう、それはますます興味深いですね!」
伊月は眼鏡を押し上げながら、興奮気味に言った。
「実は、千世さんとは、形や霊石なんかの研究結果を交換したり、議論させてもらったりする間柄なんですよ。もっとも僕は、霊術のようなものの才能はからっきしですが」
「沙智坊の描く札は、後の売れ筋商品じゃ!」
いつの間にか千世が戻ってきていた。
「こないだは、どでかい風を起こして、ウチの小屋が壊れてしもうたわい」
「なんと――凄いですね。いやあ、僕も見てみたい」
伊月は本当に興味津々といった表情だ。
「それでな、そろそろ護符などの開発を進めようと思うのだがの」
千世の言葉を聞いて、伊月は腕組みをする。
「護符ですか」
「誰にとっても役立ちそうだし、売れそうじゃろ?」
「ええ、確かにそうですね。しかし、護符となるとなあ――」
「難しいわなあ」
「そうですねえ――」
伊月と千世は、ふたりしてううむ、などと唸っている。
「護符を描くのって、難しい?」
沙智が問う。
「そうじゃなあ――まず、形の手がかりがない」
千世は人差し指を立てて、目を細めた。
「霊符の場合は簡単じゃ。火を起こす、水を流す、風を呼ぶ――これらはいってしまえば単純な現象。炎や水の見たまんまを描けばよいのじゃからな」
「ああ――」
「しかし護符においては、結界やら開運やら治癒といった効果が期待されるが、それをどう描けばよいか、ピンとこんじゃろ」
「確かに……」
「浮世の護符といえば、なにやらよう分からん文字や絵をぐしゃぐしゃ、っと書いておる代物だが――常世においては、札に文字を書いても意味がない。それは世界の言葉ではないからじゃ。万物の根源たる霊気に働きかけることはできん」
どうも、護符を描いて売るというのは簡単ではないらしい。
「今日、ここに来たのは、なにかしらの糸口を探るためでもある」
千世は、意見を求めるかのように伊月を見つめた。
「ううん、そうだなあ」
伊月も考え込んでいる。
「そういえば、以前お話になっていたお師匠様は――なにか言っておられませんでしたか?」
千世には師匠に当たる人物がいるのか――
あのような不思議な術、千世が自ら編み出したとなれば、とんでもない天才だろうが――考えてみれば、誰かに教えてもらったというほうが自然だ。
「霊術は少し教わったが……儂には経や炊事や掃除を覚えろと言うばかりで、役に立つ法術などは大して習っておらん。肝心なことは教えぬのじゃ、アレは」
千世は眉間に皺を寄せて言った。
「そうですか――」
伊月が少し残念そうな顔で相槌を打つと――
「――先生!」
拝殿のほうから突然、声がした。
沙智が声のほうを見ると、浅葱色の袴を穿いた長い黒髪の女と、白い犬がこちらに駆け寄ってきた。
「今、碧太郎が!」
女は息を切らしながら、緊迫した様子でこちらへ近づく。
年は、二十歳前後か――沙智よりは上に見えた。
「凪さん、どうしました?」
伊月が尋ねる。
「さっき千世から、山に異形が出るらしいって聞いて、念のために碧太郎に見にいってもらったの。そしたら――」
「凪」と呼ばれた女は、息つぎをしてから言った。
「今、ワンワン吠えながら帰ってきて――なにかあったみたい」
女の傍らにいる犬は、今なお急かすように吠えている。
「それは――千世さん」
伊月が千世を横目で見る。
「うむ、例の異形が出たかもしれん。確かめにいくか」
千世は真剣な表情を見せる。
「あたしも行くわ!」
凪が前に出る。
しかし、千世はそれを手で制した。
「お前さんはタマについておれ」
「でもッ」
「状況がわからん。異形が神社に来るかもしれん。その時、タマを守るのは、お前さんしかおらんじゃろ」
タマとは誰のことだろうか――
沙智がそんなことを考えていると、千世に袖を引っ張られた。
「坊は一緒にいくぞ」
「ええっ」
「異形など、滅多に見られるものではないぞ。色々と見ておけば後の糧となる。見聞を広め、よろず屋の商品作りに役立てるのじゃ!」
「そんな無茶な――」
「元より異形退治はするつもりであったし、お前さんが描いた霊符もあるのだ。なぁに、この儂がいるのじゃから心配いらん!」
いくら千世が異能の使い手とはいえ――
得体の知れない化け物相手に戦いを挑むのは、無謀ではないか。
伊月もそう思ったようで、
「危険です! 千世さんはともかく、沙智さんは異形はおろか、この山にさえ慣れていないでしょう」
と、千世をたしなめた。
「ならばメガネ、お前もついて来い。たとえ逃げるにしても、結局は山を下らなければならんのじゃ。それに、碧太郎もおる。儂らを呼びにきたということは、手に負えんほどの事態ではないじゃろ」
千世は伊月の言葉を一蹴し、そのまま背を向けた。
下りの石段へ向った千世が「ゆくぞ」と声をかけると、碧太郎と呼ばれた犬が後に続き、あっという間に追い越していった。
伊月はそれを見て、少しの間、迷っていたが、やがて、
「仕方ないですね――行きましょう。沙智さんは、僕のそばを離れないようにお願いします。落ち着いて、ついてきてください」
と言って、千世たちの背中を追いかけた。
沙智も、その後を追った。
胸がざわざわと波立つ。
駆け出した碧太郎の姿はとうに見えなくなり、その咆哮だけが、境内にこだましていた。




