四 身過
翌朝、沙智が目を覚ますと、木樵屋に権兵衛の姿はなかった。
板の間には膳が置かれており、汁物と少量の飯、塩漬けにした茸などが用意されていた。
どうやら権兵衛が作ってくれた朝食らしい。
沙智は、たかが他人の自分にここまで親切にしてくれるのを不思議に思った。
常世では当たり前のことなのか、権兵衛が奇特な人物なのかは判らなかったが、ありがたく朝食をいただいた。
千世は先に起きて、すでに朝飯を平らげていたようだ。
沙智が飯を食べ終わり、食器などを片付けていると、
「食ったか。では、一度ウチに戻るぞ」
と、待ち切れない様子で千世は立ち上がった。
あばら屋へ帰る道すがら、千世は沙智を横目で見ながら言った。
「しかし、よく寝ておったな。慣れぬ場所でもあれだけ眠れるとは、お前さんもなかなか肝が太い」
それは、沙智もそう思った。
だが常世という見知らぬ世界で、あれだけ安眠できたこと自体は幸運だった。
千世や権兵衛という先達がそばにいたことや、無事に食事にありつけたことで、だいぶ気が休まったのだろう。
「権兵衛は図体のわりに控えめなところもあるが、なかなかに使える男じゃ。困り事などがあれば頼るとよい」
ふたりは朝もやの中を、あれこれと話しながら歩き続けた。
あばら屋に着くなり、千世は裏手にある小屋から葛籠を運んできた。
「これが、儂の商売道具じゃ」
葛籠が家の板の間に置かれ、蓋が開けられると、中には筆や硯、乳鉢と乳棒、墨らしき黒い塊と、鮮やかな水色の縞が入った銀白色の石などが入っていた。
沙智の視線は、その初めて見る石に奪われた。
「綺麗だけど、なんだか変わった石……」
「うむ。その石は常世の理を象徴する、まさに要といえるモノ」
千世は、石を指でつまむと、沙智の眼前にかざして見せた。
「これは『霊石』という。この石の中に『霊気』が閉じ込められておる」
「霊気――?」
「常世では、いたる所に霊気が存在する。空中にも風のように流れておるし、土中や水中にも流れたり溜まったりしておる。その霊気が、この石に凝縮されておるのじゃ」
千世は石を指でもてあそびながら言った。
「では、その霊気とはなにをするものぞ、ちゅう話だが――霊気は万物を形づくる、あるいは司る根本であると儂は考えとる」
「はあ」
なんだか話が難しくなってきた。
「この常世では霊気の影響によって、大岩が動いたり、滝が逆上るなど、元来有り得ない振る舞いをみせることもある」
そんな超常現象のようなことがあるだろうか――
否、沙智は昨夜、それを目の当たりにしたのだ。
「ひょっとして昨日、提灯が燃えた時――あれもその、霊気が原因?」
「そのとおり。霊気を操れば、ああいったことも起こせるわけじゃ」
千世が昨日、火炎を呼び起こしたのは、手品かなにかとも考えたが――
「じゃあ、あの御札を使って霊気を操った、ということ?」
「うむうむ。なかなか察しがよいではないか」
「おお……」
沙智は高揚していた。
まったく不可思議だが、事実、この目で見たのだ。
常世は、やはり沙智が今まで暮らしていた世界とは違う。
改めて、それを実感させられた。
「ついでに言えばな、この霊気ちゅうもんは、儂らの体にも流れておる。霊気はいわば常世における命の根源じゃ」
嘘のような話が、次から次へと出てくる。
「じゃあ、もし、その霊気の流れが止まったら――」
「死ぬ――わけではない。よほどのことがない限り、霊気の流れは止まらぬが、なにかしらの理由で体内の霊気が外部へ一気に散逸したり、霊気の『溜まり』が起こると、やっかいなことになる」
「溜まり?」
「そう……霊気というのは常に流れておるのが正しき状態らしい。その流れが止まると、大抵は良くないことが起こる」
つまり体内の霊気は、浮世――元いた世界における「血液」のようなものか。
「ま、霊気については差し当たり、それだけ知っておけばよい。しばらく常世で暮らせば、自ずとそういった理にも馴染んでくるじゃろうて」
そう言うと千世は、水差しのような容器から、硯に水を注いだ。
そして小さな漆黒の塊を手に取り、墨をすり始めた。
「そこにある霊石――空色の模様が浮き出ている今の状態、それは石の中に霊気が満ちている証」
千世は墨をすり終えると、小粒の砂利ほどの大きさの霊石を乳鉢に入れ、乳棒で細かく砕き始めた。
かなり柔らかい石のようだ。
やがて粉状になった霊石を見て「こんなもんか」と呟くと、粉末を少しだけ硯に入れ、墨汁と混ぜ合わせていく。
「こうして霊気をまとった石と墨を混合することで、墨汁に霊気が定着したような状態となる。この『石墨』で文様やら絵柄を描くことで、摩訶不思議な力を発する『霊符』などを作ることができる、ちゅうわけじゃ」
なかなか面白い。
「その石の粉を、そのまま水に溶かしちゃ駄目なの?」
「それだと霊気が逃げやすくなって、札の持ちが悪くなる。墨を加えることで、霊気を閉じ込めるような恰好になるのじゃ。それに、そもそも霊石の粉だけでは色が薄くて描いたモノが見えん」
「おお……なるほど」
一体、誰がこの法則を発見したのだろうか。
「さて――まずは『大風』の霊符をこしらえてみるか」
千世は葛籠から短冊形の紙を取り出した。
そして先ほど作った「石墨」を筆に含ませると、紙の上にミミズが這ったような文様を描いた。
「ま、こんな感じじゃ……」
風が吹く様子を絵描いているように見えないことも、ない。
しかし、なんとも情けないというか、貧相で弱々しい風だった。
「なんじゃ、その目は」
「いやっ、いいんじゃないかな……」
「儂が下手くそなのは分かっとる……これはあくまで見本であってだな」
千世は咳払いをした後、さらに解説した。
「霊気を操るには、このような紋様――『形』が必要となる。霊気は、この世界の理に沿って働く。そして形とはいわば、世界に語りかける言葉のようなもの。世界の理にちょっかいを出すことで、本来ならあり得ぬ象を作り出す。即ち、虚空に火が盛り、静かなる湖面がやにわに波立つなど――」
世界に語りかける言葉――
つまり、一般的な御札のように人間の言葉をいくら札に書いても、千世が見せた術のようなものは実現できないということか。
「そういうことじゃ。儂が反火を起こした時、読経やら祝詞は意味がないと言ったじゃろ? あれはそういうことじゃ。世界に人の言葉は通じない。いうなれば神の言葉が霊気を操るのじゃな」
いよいよ本格的にオカルトじみてきた。
こんな物語のような世界がなぜ、存在しているのか――
沙智は考えたが、結局、元いた世界においても、その疑問に答えられる者などいなかっただろう。ならば、常世だってきっと同じことだ。
「ま、理屈は理屈。如何に考えようと、形が万物に影響を及ぼすことだけは確かじゃ。ちゅうわけで沙智坊――お前さんもほれ、形を描いてみい」
「えっ?」
「えっ、じゃないわい。今日はそれをしに帰ってきたんじゃから。儂が描いたように――というか、儂よりいい感じに描いてみよ」
少し、緊張する。
いい感じと言われても、どう描けばいいのか――
墨絵を描く経験などなかったので勝手が分からない。
しかし、初めてのことで考えすぎても仕方がないので、とりあえず思うままに描いてみようと沙智は覚悟を決めた。
沙智は筆を取る。
筆の先に石墨を含ませ、札紙を見つめる。
風っぽく――
沙智は心に、風を思い浮かべた。
木々を揺らし、土の香りをさらっていく風――
水面を逆立て、岩間を吹き抜け、轟音を奏でる風を――
沙智は描いた。
「おお――」
札紙の上には、しなやかで猛々しい、流線型の文様が踊っていた。
「なんと力強い! お前さん、顔に似合わず勇ましい線を引くのう!」
「そ、そうかな」
「いや、いい……これはいいぞ! やるのう、そんな狸みたいな顔して」
顔は関係あるのだろうか。
ともかく、千世は気に入ったらしい。
絵を描いて喜んでもらうのは、悪くない気分だ。
「ともかく、これで霊符が完成した。では、さっそく試してみるとするか」
千世は札をつかむと、家の外へ出ていった。
沙智も、その後を追う。
ふたりは、あばら屋の裏手にある小屋の脇の一角に移動した。
「ここで、札の試しをやっとる」
千世は、その辺に転がっていた木製の粗末な案山子らしきもの立たせ、
「まずは、儂が描いた札を試すぞ」
と言うと、右手の指の間に札をはさんだ。
そして、その札を大きく上下にはためかせると――
風がびょう、と吹き、案山子がどさり、と後方に倒れた。
「お、おお……」
確かに、風が吹いた。これが札の効力らしい。
「ま、こんなもんじゃな……次は、沙智坊の札を試してみるぞい」
千世は、なんともいえない表情で呟くと、倒れた案山子を再び立たせた。
「ゆくぞッ」
千世が再び、札を扇ぐように上下に動かすと――
「のわあぁッ!」
千世の長髪が逆立ち、暴れ出した。
着物の袖がバタバタと音を立ててはためき、土埃が激しく舞う。
まさに大風――嵐のような突風が吹き荒れた。
「どわあぁッ!」
細身の千世は、想定外の風の勢いに体勢を崩し、先ほどの案山子のように、すてん、と地面へ転がった。
一方の沙智は、舞った埃を防ごうと腕で顔を覆っていたが、やがて風が止んだところで腕を下ろし、前方を見た。
確かに置いたはずの案山子はどこかへ消え、周囲の木々はまだ、ざわざわと枝葉を揺らしている。
これが――霊符の力か。
偶々、強い風が吹いたわけではないようだ。
あまりの出来事に、沙智は呆然としてしまった。
「小屋の壁が壊れた!」
千世が大声で叫んだ。
「屋根も、ちょっと壊れた!」
◆
「いやぁ、僥倖、僥倖」
千世は、あばら屋の板の間に腰を下ろし、上体を左右に揺らしながら喜びを表現している。
「まさか、あれほどの力とはのう」
あの後、沙智は何枚か同じような札を描かされ、効果の検証が行われた。
結果、やはり同様に強い風が巻き起こり、その度に裏手の物置小屋は損傷した。
「小屋は元々ボロじゃし、後日、権兵衛でも呼びつけて修繕させたらよかろう」
霊符の効力は、沙智の想像を大きく上回っていた。
そして、そのようなものを自分が作り出せることに、誇らしさ半分と、空恐ろしさも感じていた。
「沙智よ。やはり、お前さんを見込んだ儂の目に狂いはなかったぞ」
「うん――で、でも」
「でも?」
「ああいうモノを作って、売ってしまって、いいのかな……?」
商品として、売れなくはないだろう。
だが、あれほどの大きな力ならば、悪用する者もいるのではないか。
それこそ、昨夜に遭遇した破落戸のような人種の手に渡れば――
沙智は、それが心配だった。
「ま、不届きな輩がアレを手にすることも、ないとは言えん」
「それは、ちょっと――」
「だが、心配は無用じゃ。霊符の力をあすこまで引き出せる者など、そう滅多におらんわい」
そうなのか――
「霊気を操る力とは、その者自身に備わっている霊気の特質にも関わっておる。以前、別の者にやらせてみたところ、これがてんで駄目でな。そよ風も起こらんかったわい」
「それは札の出来が悪かった、とかじゃなく?」
「違うわッ。儂とそやつ、両者が同じ札で試した。その差は歴然であった」
だとしても、まだ懸念は残る。
「でも……悪い人でも凄い才能を秘めてることだってあるかも――」
「それを考え出したら、きりがないじゃろ」
「ううん――」
沙智は、ああいった力が、揉め事や、いさかいの元になる予感がしていた。
事と次第によっては、自分も巻き込まれることになるかもしれない。
「細かいことを気にしていては、商売にならんぞ」
「そうかもしれないけど……」
甘い考えなのかもしれない。
この常世という見知らぬ世界で自活するためには、何事に対しても、ある程度の割り切りは必要だろう。
だが、こちらへ来たばかりの沙智には、生きるためになりふり構わぬ、という覚悟はまだ生まれてはいなかった。
「ううむ――分かった。では、こうしよう」
千世が口を開いた。
「札といっても、大風や反火のような霊符ばかりではない。身を守ったり、運気を上げたり、養生を早める『護符』というモノもある。浮世にもあったじゃろ? 寺やら神社で売っとるヤツ。アレの本当に効くヤツじゃ。そういうモノを作って売るならば、さほど抵抗もなかろう?」
「それなら、まあ――」
「護符に関する調べは、さほど進んではおらんが――ま、どうとでもなる!」
沙智は、自分がまだまだ子供なのだと思い知らされた。
一見、自由で好き勝手な千世も、沙智の未熟な考えを汲んでくれている。
それに気づいて、沙智は少し情けない気持ちになった。
「そう焦ることはない。やれることは、いくらでもあるぞ。霊符とて、己で使うことはできるわけだしな。むしろ、儂のような才のある者にこそ、相応しい代物ではないか」
千世はさらに、人差し指を立てて言った。
「それに、権兵衛が言うとった件、忘れておらんか? この辺りの山に『異形』が出る、ちゅう話じゃ。沙智の描いた霊符があれば、そういったモノも楽に退治できるやもしれん」
異形退治――
本当にやる気なのか。
それはそれで、また心配の種になりそうだが。
「常世には稀に、妖怪変化や『物の怪』の類が現れる――らしい。儂は未だ見たことはないがの。まるで物語のような話じゃが、それらも霊気の悪戯によって生まれるといわれておる」
「物の怪――」
要は、怪物や化け物のようなものか。
「うむ。それらは人に仇なすこともある。退治できる者は重宝されるぞ。物の怪退治は立派な商売になる、ちゅうことじゃな」
「でも、危険なんじゃ――」
「確かにそうだが、でなければ金にもならん」
「ううん」
「案ずるな。あれほどの霊符があれば、異形ごとき物の数ではないわ」
千世は自信があるようだが、沙智は安心できなかった。
しかし、それでは埒が明かないのも分かる。
ただ手をこまねいていても、なにも始まらない。
ここらが覚悟の決め時か――
「ま、当然、無謀なやり方をするつもりはない。また権兵衛に詳しく話を聞いてみて、必要とあらば協力を仰げばよい。伝手はあるだろうし、あやつ自身も大人しそうだが腕は悪くないと儂は睨んでおる」
「うん――」
「霊符に使えそうな形は他にもいくつかある。ここで試して、それから権兵衛の所へ行ってみんか」
沙智はどうにか納得した。
いずれ常世で暮らすなら、身の振り方を決めなければならない。
やれることから、やってみよう。
その足がかりがあるだけ良い方向に進んだのだと、沙智は信じることにした。




