十 物怪
異形と戦った現場から、さらに沢に沿って下った辺り――
小さな流れが池に注いでいる。
水場が近いため、空気までもが湿っている。
この辺りの土の性質の所為なのか、水はけが悪く、泥に足を取られそうだ。
千世と伊月、碧太郎、桃、凪、そして沙智が、事前に打ち合わせたとおりの位置に待機している。
そこに気枯地はあった。
禍々しい黒紅の、気体とも液体とも知れない淀みが見える。
あれが悪いモノであろうことは一目瞭然だった。
そして――
件の大蜘蛛は、己が縄張りといわんばかりに、そこに陣取っていた。
その周囲には三体の異形が、蜘蛛を守るように立っている。
蜘蛛も異形も、微動だにしない。
「動きませんね……」
岩陰に隠れた伊月が、声を潜めて言う。
「警戒しておるのか――一点突破は難しいな」
同じく、岩の陰に張り付いた千世が、大蜘蛛らの様子をうかがっている。
「メガネよ、奴らに見つからんよう、大回りして後ろに回れ。なにかあったら知らせに戻ってこい」
「分かりました」
伊月は千世の指示に従い、その場から離脱した。
一方、気枯地を見下ろせる小高い丘の上に、凪と沙智が待機している。
ふたりは身を屈め、千世が合図を出すのを息を潜めて待っていた。
やがて、千世が人差し指で、自らの頭を突く手振りを見せた。
「矢を」
弓を持った凪が小声で沙智に指示する。
沙智はそれに従い、矢筒から矢を一本抜き出して、凪が伸ばした手に託した。
凪は、ゆっくりと息を吸う。
膝をついたまま弓に矢をつがえ、弦を引く。
隣の沙智には弓を引き絞る音が聴こえる。
それは異形にも聴こえそうなほど張り詰めた音だったが、水の流れに紛れていることを沙智は願った。
凪の右手の弓懸が、右肩の後ろあたりで止まる。
その姿勢のまま、時が過ぎていく。
風が止み、一息つくくらいの間をおいた後――
矢が空を裂き、異形の胴を貫いた。
「次!」
凪は再び右手を伸ばす。
沙智が矢を渡す。
他の異形がこちらに気づき、向かってくる。
凪は、今度は立ち上がって大蜘蛛を狙うが、ここからではかなりの距離がある。
第二射が放たれたものの、長い脚に阻まれ、致命傷とはいかないようだった。
凪を無力化しようと、異形たちは丘へ向かうが、下で待ち伏せていた桃と碧太郎がそれを阻む。
「行かせないよッ」
桃は腰を落とし、不規則にジグザグを描くような動きで異形へ接近すると、急に飛び上がって喉元を蹴飛ばした。異形はたまらず、その場に倒れる。
碧太郎も俊敏な動作で異形を翻弄している。
凪と沙智は、その隙に斜面を下って、異形を包囲する位置についた。
「あと二匹、やっちゃうわよ!」
弓懸を外した凪は、神社から持ち出した薙刀を構え、碧太郎と対峙している異形の足首を、斜め後ろから斬りつけた。
異形がよろめく。
「やあッ」
凪の斬撃が再び異形を襲う。
刃の軌道が面を捉える。
異形の頭に薙刀の穂が食い込み、その黒灰色の体躯は泥濘の上に崩れ落ちた。
凄い――
凪は瞬く間に異形を二体も葬ってしまった。
相手の動作が緩慢とはいえ、ためらいなく打ち倒せるのは場馴れしているが故なのか。沙智は凪の弓と矢筒を抱えながら、その勇姿に見惚れていた。
「桃は大蜘蛛のほうを!」
凪が声を張る。
「合点!」
再び戦力が分散される。
異形は残り一体。凪と碧太郎で十分対処可能、という判断だろう。
「沙智はそのまま、あたしの後ろに!」
凪が沙智に指示を出し、立ち上がろうとしている異形に刃を向けながら立ちふさがる。こちら側はもう問題なさそうだ。
一方の、大蜘蛛である。
目立った動きはなく、千世との睨み合いが続いているようだ。
異形が立て続けに倒されてなお、特段、大蜘蛛に動きはない。
迂闊に大物に向かっていくよりも、まずは異形を殲滅して頭数を減らすというのが、千世の立てた作戦だった。
凪たちの側から離脱した桃が千世のほうへ駆け寄る。
千世はそれを確認し、異形のほうは片付いたと判断したようだ。
千世が懐から札を取り出す。
この場の環境については桃の報告を受けていた。始めに丘から射撃できたのも、あらかじめ付近の地形を把握していたからだった。
また、ここは石や岩が多く、池のような水場もある。それらの情報から、千世の武器である霊符を活かす方法を吟味する余地もあった。
蜘蛛は、水の怪ともいわれる――
水にまつわる術は、直接的には通用しないだろう。
火の術も環境的に効果は薄そうだ。
燃やせれば楽なのだが、周りが水だらけだし、逆にどこかへ引火して、山火事になってしまっては目も当てられない。
千世は身を寄せていた岩陰から飛び出し、霊符を持つ手を突き上げた。
あれは、異形を沈めた隆岩の術だ――
視線の先に岩柱がせり上がる。
すぐにその柱の陰へと移動し、再び札を突き上げる。
岩の遮蔽物を盾にしながら、千世は少しずつ大蜘蛛へ近づいていく。
一気に接近することはせず、警戒しながら間合いを詰めている。慎重な動きだ。
おそらく、異形が放つ糸のような攻撃を、あの大蜘蛛も繰り出してくると予想しているのだろう。
大蜘蛛はやっと異変に気づいたらしく、千世のほうを向いた。
そして、巨大な体を反らすと、やはり腹部の先から勢いよく糸を吐き出した。
「おっと!」
まるで鋼のような輝きを帯びた糸は、千世が隠れている岩を掠めた。
もし、あの大蜘蛛の糸に絡め取られたなら、腕どころか胴体までぐるぐる巻きにされてしまいそうだ。
大蜘蛛は、まだ千世に狙いを定めている様子だ。このままではとても岩陰からは出られないだろう。
「よそ見してんじゃないよッ」
突然、大蜘蛛の背後から、獣が飛びかかった。
桃だ――
大蜘蛛と千世が向き合っている間に、隙をついて襲いかかったのだ。
化け猫の姿となった桃は蜘蛛の上に飛び乗り、鋭い爪で背中を打ち付けた。
しかし、手応えがないのか、桃はすぐに跳躍して蜘蛛から距離を取る。
「駄目だ――爪が負けちまうよッ」
さすがに異形を倒したようにはいかないらしい。
「猫ッ、そやつを池のそばに引きつけろ!」
千世が叫ぶ。
「あいよッ」
桃は目にも留まらぬ速さで蜘蛛の脇を駆け抜け、池の周囲を旋回する。
大蜘蛛がそれに釣られてゆっくりと動き出す。
「よしよし――糸には気をつけろよ」
千世は、相手の位置を確認しながら、次に仕掛ける頃合いを計っている。
大蜘蛛が池の淵に至り、桃を狙って体を反らしたその瞬間――
「鉄砲水じゃい!」
千世が再び札をかざすと、池の水面が膨張し、怪魚が跳ねたかのように、大量の水が空中にほどばしった。
物凄い水圧が大蜘蛛を襲い、さしもの巨体もぐらついている。
「霊山の水じゃ――さぞや美味かろうて」
千世は池を目指して前進した。
池の前に至ると、さらに別の札を懐から抜き出し、水中へと投げ入れる。
その途端、蜘蛛にまとわりつく水がバキバキと音を立てて凍りついた。
「これぞ、秘技『氷襲』の術」
水が凍った影響か、周囲の気温が急激に下がり、白い霧に包まれた。
大蜘蛛の脚や胴体は凍結し、その動きを封じられる。
「如何な名水も、冷やしすぎては腹を下すぞい――」
千世が起こす摩訶不思議な現象に、桃は改めて驚いている。
「なんだい、ありゃあ……あいつのほうが、よッぽどの化け物じゃないか」
桃は、凍った大蜘蛛にもう一発、お見舞いしようと狙いすます。
しかし、よく見ると蜘蛛の脚がまだわずかに動いていた。
どうにか抜け出そうともがいているのだ。
「まずいッ、早くやっちまわないと、また動き出すよ!」
桃が叫ぶと、千世は頷き、さらに大蜘蛛へと接近した。
「さて、一か八かの博打といくかッ」
千世が、またもや懐を探る。
手の内には、七宝の文様が描かれた札がある。
「願わくは、この七宝の御験に御山の加護が宿らんことを――」
札紙に縦一列に描かれた七宝紋が、光り輝く。
千世は光る霊符を、凍りつき、もがいている大蜘蛛の頭に貼り付けた。
すると、にわかに大蜘蛛の体が震え始め、その脚や体の節々が眩しく発光する。
まるで体内で爆発が起こる前触れのようだった。
「離れろッ」
千世の言葉で全員が池から離れ、岩陰や木の裏に隠れる。
大蜘蛛を捕らえていた氷はいつの間にか剥がれ、宙空の霧も吹き飛ぶ。
強い風が巻き起こる。
耳鳴りのような音が周囲に響く。
光源はさらにその明るさを増していく。
なにが起こっているのか――
あまりの眩しさと強風に煽られ、皆、手で目を覆った。
しばらくして――
風も、音も、青白い光も、全てが止んだ。
そして、池のほとりを見ると――大蜘蛛の姿は消えていた。
「おお……功あったか?」
千世は蜘蛛がいた場所へ近づいていく。
「ふむ――消えるのか」
千世の声を聞いた沙智が、もう大丈夫かと思って岩陰から顔を出すと――
「あッ」
そこに倒れていたはずの異形も、煙のように消えていた。
「い、異形が消えてます!」
「なにッ」
素っ頓狂な声を上げた千世が、こちらを振り向く。
「そこに死骸――死んだのかは分からないけど、身体は確かにあったはず……」
「むう、ここまでとはな」
千世は顎に手をやりながら、うろうろと歩き回って辺りを観察している。
これが――千世の切り札か。
神社の裏手にあった石の円盤に彫られていた文様――
「七宝」というその形は、千世と伊月の見通しでは、霊気の流れを整える効果があるのだという。
七宝紋には調和の意味があるのだとか、桃を治癒させたのがその証だとか、とにかくふたりの議論は白熱していたことは沙智も覚えている。
他にも、縁起がいいとか仏の加護があるとかも言っていた気がする。
そんな事情で沙智は、この戦いに赴く前に、七宝の霊符を描かされたのだ。
千世は、その霊符が切り札になると考えていたようだ。
それがまさか、物の怪たちを跡形もなく消してしまうほどの代物とは――
「な、なんだい、今のは……」
人間の姿に戻った桃が、口を開けて立ちすくんでいる。
「一体、どうやってあの大蜘蛛を――」
凪と碧太郎が、沙智のそばへやってきた。
「沙智、怪我はない?」
「は、はい――大丈夫」
沙智はまだ胸の動悸が治まらない。
「どうやら、上手くいったみたいね」
凪は、あの出来事を見ても、そこまで驚いていないようだった。
巧みに武器を駆使して異形を打ち伏せた腕前といい、この人は、結構な修羅場を潜ってきたのだろうか――と沙智は想像した。
「皆、無事じゃな。ようやった。やはり儂の作戦は完璧であった」
千世は腰に両の拳を当てて、ふんぞり返っている。
それを聞いた桃は、
「本当にそうかい? あたいは耳がいいから、一か八かとか言っていたのが聴こえたけどねぇ。運がよかっただけじゃないのかい」
などと憎まれ口を叩いた。
「細かいことをいうでない。結果的に勝てたのだから、それが正しい行いであるのは間違いない。神仏の加護は、正しき者に訪れる。つまり、儂は正しい!」
千世はそう言って、着物の乱れを直した。
「では、神社へ戻るとしよう。残党はおらんだろうが、気は抜くなよ」
千代の音頭で皆が帰ろうとすると、遠くから呼ぶ声がした。
「千世さぁん!」
伊月が林の奥から姿を現し、駆け寄ってくる。
「あ、メガネか。忘れとったわい」
「千世さん、見つけましたよ、あっちです」
伊月は、己が走ってきた方向を指差した。
皆がそちらを見ると、林の中から野太い声が上がる。
「おおい、こっちだぁ」
あれは――権兵衛の声だ。
一同は、権兵衛のもとまで走る。
林の中には権兵衛と、縄で縛られた見知らぬ男の姿があった。
千世は腰に手を当てて、その男をじろりと見つめる。
「ふむ――こやつが例の?」
「ああ。この辺に隠れていたから捕まえた」
権兵衛は、男の後ろ手に結ばれた縄をつかみながら言った。
これは一体、誰なのだろうか。沙智には見覚えのない男だった。
「ああッ! こいつは、あの時の――」
桃が目を見開いて叫ぶ。
「こいつだ! これが、あたいに怪しい仕事を持ちかけてきた男だよッ」
縛られた男は、口をあんぐりと開け、驚きの表情のままで固まっていた。




