オノコロと天地創造
第一章 御幸の日
天下があまねく穏やかに豊かに治まった頃の事である。
気候も穏やかになり、世間の雰囲気も波風なく静穏な状況になったとき、アマテルカミは孫のニニキネを連れて大きな巌で有名な場所へと御幸をなさった。ニニキネはオシホミミとチチヒメの子で、まだ若く、祖父の教えを熱心に学ぶ青年であった。
道中、柔らかな春の日差しが二人を包み込んでいた。木々の緑は瑞々しく、小鳥たちの囀りが心地よく響いている。ニニキネは時折、祖父の横顔を盗み見た。日常の政務から離れたアマテルカミの表情は、いつになく穏やかで、どこか少年のような輝きを宿していた。
「祖父上、あの巌はどれほど大きいのでございましょうか」
ニニキネが尋ねると、アマテルカミは優しく微笑んだ。
「見てのお楽しみだ。だが、噂に聞く限りでは、小山ほどもある」
「小山ほども……」
ニニキネは目を輝かせた。まだ見ぬ巌の姿を想像し、胸が高鳴る。
やがて、目的地が近づくにつれ、木立の向こうに灰色の巨大な影が見え始めた。随行の者たちも、その威容に思わず足を止める。
第二章 巌の前で
大きな巌の処に到着すると、それは噂どおり、いや噂以上にしっかりした立派な小山のような岩であった。
「なんと……」
ニニキネは思わず息を呑んだ。巌は天を突くように聳え立ち、その表面は長い年月を経て磨かれ、独特の風格を醸し出していた。苔むした部分と、風雨に晒されて白く輝く部分とが織りなす模様は、まるで自然が描いた絵画のようだった。
アマテルカミは巌を見上げ、満足げに頷いた。日常の忙しい政務や教導に一区切りを付けて遊びに来られたわけであったから、この日ののどやかさは格別であった。
「立派なものだ」
アマテルカミは大きな立派な岩を噂どおりの立派なモノだと見て取ると、ニニキネにこっと微笑んだ。その笑みには、若々しい冒険心が満ちていた。
「さて、ニニキネよ」
次の瞬間、アマテルカミは一気に巌の上に駆け登り始めた。
「あっ、祖父上!」
ニニキネは驚きの声を上げた。ご高齢のアマテルカミが巌に駆け登って行かれる姿など、滅多に見られるものではない。見守る人々も興味津々で、息を呑んでその姿を追った。随行の者たちの間に、驚嘆と心配の入り混じったざわめきが広がる。
アマテルカミは軽やかに、まるで若者のように岩肌を登ってゆく。白い髪が風に揺れ、衣が翻る。その姿は神々しくさえあった。
やがて巌の一番高い所に辿り着くと、アマテルカミはゆったりとお座りになった。そして両手を大きく広げ、話し始めた。
「これこそが、オノコロの形だ!」
その声は、巌の麓にいる者たちにも明瞭に届いた。
第三章 問いと答え
アマテルカミの孫に当たるニニキネは、祖父を仰ぎ見てかしこんで言った。ニニキネはアマテルカミの薫育――徳をもって導き育てる教え――を最も受ける人達のうちでも指折りに入る人であった。
「祖父上」
ニニキネは巌の麓から、両手を恭しく合わせて問うた。
「大きな巌に似ているとおっしゃいますオノコロとは、どの様に似通っていますのでしょうか?」
その問いには、純粋な探求心が込められていた。周囲の者たちも、この問答を聞き逃すまいと耳を澄ませている。
アマテルカミは満足げに頷き、孫のニニキネに説き始めた。風が優しく吹き抜け、木々の葉擦れの音が静かな音楽のように響いている。
「よい問いだ、ニニキネよ。『オノコロ』の意味は、歴史的に見ても何段階にも重層関係が起きて来ている。それらの内でも『オノコロ』の意味が最も端的に解りやすいのは、私の両親の七代目アマキミのイサナギ様、イサナミ様の時のことであった」
アマテルカミは一度言葉を切り、遠くの空を見つめた。その瞳には、遥か昔の記憶が映っているようだった。
「祖父上の両親様の時代……」
ニニキネが静かに繰り返すと、アマテルカミは再び語り始めた。
第四章 フタカミの物語
「通称として『フタカミ』と言われるのがイサナギ様・イサナミ様だ」
アマテルカミの声には、両親への敬愛が滲んでいた。
「イサナギ様とイサナミ様は『フタカミ』が通り名になってしまっている。その理由は、とても仲良しでもあった事もあるが、出身の母体がそれぞれに立派な根拠を持っていた事で『フタカミ』と呼ばれて行く成り行きに自然となって行ったのだろう」
ニニキネは真剣な眼差しで祖父の言葉を聞いていた。時折頷きながら、一言も聞き逃すまいと集中している。
「今では『フタカミ』と聞くと、イサナギ様・イサナミ様の事を真っ先に思い浮かべる。そして、その『フタカミ』の名前が通り名となる主因が、実は『オノコロ』だったのだ」
「オノコロが……」
ニニキネは思わず呟いた。その声には驚きが含まれていた。
アマテルカミは話を続けた。
「世の中の混乱が目にも余るようになって来た頃に、イサナギ様イサナミ様の『フタカミ』はアマキミの位に就任したのだった」
アマテルカミの表情が、わずかに曇った。遠い過去の苦難を思い出しているのだろう。
「どうやったら国民に安定と平和と幸せを取り戻してゆく事が出来得るか? 両親は深く考えられた。そして、このもっとも大切な根底を為すための根拠には『言葉』の改め直しがどうしても必要であると見定めになられたのだ」
「言葉を……改める?」
ニニキネが問い返した。その若い顔に、困惑と興味が入り混じっている。
「そうだ」
アマテルカミは力強く頷いた。
「混乱の最中には、目先の事に左右されやすいものだ。しかし『フタカミ』は遥か未来においても間違いが起こらない為の方策を見定めて、社会の根底作りから取り掛かられたのだ」
第五章 継承の物語
アマテルカミは、さらに深い歴史へと語りを進めた。
「当時はあらゆることが混乱を呈していた。なんと、皇族外の人に皇位の継承がなされようとする、ウキハシ――仲人の中でも最大の役割――が行われたのだった」
随行の者たちの間に、小さなどよめきが起こった。皇位継承の異例の事態は、彼らにとっても驚くべき話だった。
「それは直接の世継ぎ子が、六代アマカミには出来なかったからについての特別な措置だった」
アマテルカミの声には、当時の緊迫した状況が伝わってくるようだった。
「六代アマカミのオモタル様とカシコネ様は『トのヲシテ』――憲法――と『ホコ』――剣、すなわち警察権・裁判権――を、次代に皇位を引き継ぐときに授与されたのだった」
ニニキネは息を呑んだ。二種神器の授与という重大な場面を、祖父の言葉を通して目の当たりにしているようだった。
「イサナギ様イサナミ様は七代アマキミの即位に当たって『トのヲシテ』と『ホコ』とを受け頂いたわけだ。『トのヲシテ』と『ホコ』はいわば二種神器。ホコによって治安の回復を図り、それで人々の信頼を勝ち取っていったのだ」
アマテルカミは、誇らしげに、そして懐かしげに語った。
「初めに治めて行ったのは琵琶湖沿岸のクニからだった。また国家再建の中心に『アワウタ』を教え広めて行くのだった」
「アワウタを……」
ニニキネは目を輝かせた。アワウタは、今も人々に親しまれている大切な歌である。
「そうだ。これが『オノコロ』のクニの再建を果たす根拠となった」
第六章 オノコロの四段階
アマテルカミは、ここで一度深く息を吸い込んだ。これから語る内容は、さらに深遠で、宇宙の始まりにまで遡るものだった。
「『オノコロ』は歴史的に見ると四段階に渡って重なり膨らんだ言葉だ」
ニニキネは姿勢を正した。これは重要な教えになると直感したのだ。
「初めの『オノコロ』とは、実は天地の始まりの時を表現した言葉だった。このことから解き明かして行こう」
風が止んだ。まるで自然界全体が、この神聖な語りに耳を傾けているかのようだった。
第七章 天地創造の物語
「天地に充満する物質が未だ何もない時の事だった」
アマテルカミの声は、静かでありながら力強かった。
「それはそれは、最も昔の原初状態の時の事だ。まだ『アホ』――気体の根源――もなく、また『ウヒ』――混成した原初の物質状態――も存在しない始めの時、アメミヲヤ様が始まりを起こされた」
ニニキネは、祖父の言葉一つ一つを心に刻み込むように聞いていた。周囲の者たちも、息を殺してその語りに聞き入っている。
「アメミヲヤ様はまず『アテ』の『ア』の構造をお創りになった。これこそが大宇宙の初めであり、そこからはウツホ――気息・原初の気体――が際限なく湧きあがり、大宇宙の果てまで満ちていった」
アマテルカミは両手を大きく広げ、宇宙の広がりを表現した。
「やがて、原初の気体は冷たいもの『ウヰ』と暖かいもの『ウヌ』とに分かれていった」
「冷たいものと暖かいもの……」
ニニキネが繰り返すと、アマテルカミは頷いた。
「そうだ。『ウヌ』には根源から湧き出る『ア』が多く混じり、これが天――アマ・アメ――を成した。反対に『ウヰ』には『ア』が少なく混じり、これが『ウヒ』となった」
第八章 地球と太陽と月の誕生
アマテルカミの語りは続く。
「そしてその『ウヒ』が凝り固まって、大きな塊となり、地球が生まれたのだ」
ニニキネは思わず地面を見つめた。この大地が、そのような過程を経て生まれたのかと思うと、感慨深いものがあった。
「さらに別の働きが生じ、これを『カテ』――光り輝くもの――と呼んだ。そのうち最も熱く明るいものが集まり、太陽となったのだ」
アマテルカミは空を見上げた。そこには、今日も変わらず太陽が輝いている。
「太陽は『アカキミチ』を巡る『アカミヤ』に置かれた」
「では、月は?」
ニニキネが問うと、アマテルカミは微笑んだ。
「よい問いだ。別の働きとして『シテ』――白く冷たいもの――が生まれた。その中で最も冷たく固まったものが月となり、月は『シロキミチ』を巡る『シラミヤ』に置かれた」
第九章 アメミヲヤの巡行
アマテルカミの語りは、いよいよ核心に迫ってゆく。
「原初に生じた軽い気体『ウヌ』は『ウツロヰ』となり、アメミヲヤ様の乗る馬となった」
その言葉に、ニニキネは想像を巡らせた。神が馬に乗って宇宙を駆ける姿を。
「重い気体『ウヰ』は『シナト』となり、馬の轡として雷鳴を生じ、稲妻は鞭の役目を果たした」
空を見上げると、今は穏やかな青空が広がっているが、時折響く雷鳴は、まさにその原初の音の名残なのかもしれない。
「アメミヲヤは『おて』の働きで、まだドロドロの地球を馬に乗って巡行された」
アマテルカミの声に、深い畏敬の念が込められていた。
「そのときの音が『ホオコホ』であり、雷鳴と轡の音が合わさって初めの『オノコロ』を響かせたのだ」
「それが……オノコロ」
ニニキネは感動に打ち震えた。オノコロとは、ただの場所の名ではなく、天地創造の音そのものだったのだ。
第十章 大地の形成
「火山活動が絶えず、地表はまだ熱かった」
アマテルカミの語りは続く。
「しかし『ノテ』の作用と『カセ』により地表は固まり、馬の蹄跡や窪みが野や道となった」
ニニキネは周囲の風景を見渡した。今、自分たちが立っているこの大地も、そうして形作られたのかと思うと、足元の土の一粒一粒が神聖に思えた。
「地球の熱が和らぐと、月――シノタマ――から多くの水が滴り落ち、海が形成された」
アマテルカミは遥か彼方を見つめた。
「月の『カノミタマ』は、固まった地球に恵みを与えた」
しばしの沈黙が訪れた。風が再び優しく吹き始め、木々の葉が囁くように揺れている。
終章 一回目のオノコロ
やがて、アマテルカミは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「これが一回目の『オノコロ』だ」
ニニキネは深く頭を垂れた。その瞳には、感動の涙が光っていた。
「祖父上、ありがとうございます。オノコロの意味が、こんなにも深く、尊いものだったとは……」
「まだ二回目、三回目、四回目のオノコロもある」
アマテルカミは優しく微笑んだ。




