八咫鏡の真理4~ハルナの問い
翌朝、朝霧がまだ晴れきらぬうちから、人々は三々五々と集まってきていた。昨日の教えに心を動かされた者たちが、夜明けと共に歩み寄ってくる。霧に包まれた境内に、足音と衣擦れの音が静かに響く。
「今日も早いな」
「ああ、アマテルカミ様のお話を一言でも多く聞きたくて」
「昨日の教えを、家で何度も反芻したよ」
人々は小声で語り合いながら、自然と円を描くように座を設けていく。白い息が立ち上る冷えた空気の中、期待に満ちた顔が並んでいた。
そこへ、予定よりも早くアマテルカミが現れた。深い藍色の装束をまとい、穏やかな微笑みを浮かべている。人々の熱意を感じ取ったかのように、静かに歩を進める。
「こんな朝早くから集まって頂いて」アマテルカミは人々を見渡しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「皆の勤勉さはありがたいことです」
人々の間から、感嘆の息が漏れる。
「さて、昨日言った通り、ご質問を受けましょう」
そう言って上座に座ると、アマテルカミは静かに人々を見つめた。朝日が霧を透かして、その姿を神々しく照らし出す。
しばしの静寂の後、タチカラヲが立ち上がった。筋骨隆々とした体躯が、朝の光に浮かび上がる。彼は一歩、また一歩とアマテルカミの前に進み出る。その足取りには、問いを抱える者の真摯さが表れていた。
「お尋ねしたいことがございます」タチカラヲは深く一礼してから顔を上げた。
「昨日のお教えの中で、盗人の罪が三回目に知れてツチで罪を打たれる、とおっしゃいました」
「ええ」アマテルカミは静かに頷く。
「どうして三回目になって罪の露見が起きるのでしょうか?一回目、二回目では露見しないのに、なぜ三回目なのか。その理を知りたいのです」
タチカラヲの問いに、周囲の人々も身を乗り出す。確かに、なぜ三回なのか。誰もが心に抱いていた疑問だった。
アマテルカミは「三回目に罪が知られる、の事ですね」と確認し、微笑みを浮かべながら話し始めた。その表情には、複雑な真理を解きほぐそうとする優しさが宿っていた。
「三回目の事ですね。複雑なところもありますので、ゆっくりと、考えてみましょう」
アマテルカミは一呼吸置いてから、視線を遠くに向けた。
「まず、人とはどんなふうにこの世での生活をしているのか。ここから考えてみましょう」
人々は息を詰めて聞き入る。
「地方地方には特色があります。方言もいろいろ、クニによっての違いがあります」アマテルカミは手を広げて、この列島の広がりを示すような仕草をする。「また何が良いことか、何が良くないことか。そういった習わしの善悪判断も地方地方で少しづつ違いがあります。それは風土に違いがある事もあり、国司の人も違うからです」
「確かに」誰かが小さく呟いた。「山の民と海の民では、暮らしも考えも違う」
アマテルカミは頷いて続ける。
「そのクニに生まれて、そのクニの風習に馴染んで、ヒトは生活します。幼い時に別のクニに住み替えをしたら、その子はその移転先のクニの風習に馴染んで行きます」
「それは」と一人の老人が相槌を打つ。「子供の柔らかい心ゆえでございますね」
「その通りです」アマテルカミは優しく微笑む。「これは、こういう事ですね。ヒトとは、言葉を持ってウツホ(気体)のうちに住んでいる。この、言葉を持っている事が、とても重要なのです」
アマテルカミの声が、少し強さを増す。
「そして、常に地面を踏んで歩いています。悪事がアメ(世間)に知れ渡るには、ウツホ(気体)とカセ(風)とハニ(土)に伝達するわけです」
人々は、自然の三つの要素に思いを馳せる。空気、風、大地。その全てに人は包まれて生きている。
「ですが」アマテルカミは指を一本立てた。「三回までの悪事はカセ(風)とハニ(土)のカミが猶予してくれて告げないでいてくれるのです」
「猶予を…」タチカラヲが繰り返す。
「つまり、悪事はウツホ(気体)に出て、カセ(風)にて常にアメ(世間)に伝達はされるものですが、露見の決定打にはなりません」アマテルカミは両手を広げて、空気の流れを示すような動きをする。「それは、クニが違えば善悪判断の基準も違うような、気体のように緩やかなものであるためです」
「なるほど」人々の間から理解の声が上がる。
「さて、二回目の悪事では」アマテルカミは指を二本立てた。「自分の身体に影響が及んで来ます。背中が丸まって来るように姿勢に変化が出ます」
アマテルカミは実際に背を少し丸めて見せる。人々は、その仕草に込められた意味を感じ取った。
「姿勢の変化は、歩き方が忍び足のような変な足取りになります。それで悪事をした事がハニ(土)のカミに知られてしまうのです」
「大地が知る…」誰かが呟く。
「幸いというか不幸というか」アマテルカミは複雑な表情を浮かべる。「ハニ(土)は動きに乏しい性質である。ハニ(土)のカミはたとえ知ってもアメ(世間)には知らせずに猶予をしてくれます」
そして、アマテルカミは指を三本立てた。人々の視線が、その手に集中する。
「悪事の三回目はどうなるかというと」声に重みが増す。「自分自身の胸に響いて影響が出て来ます。胸にざわめきが起きます」
アマテルカミは自らの胸に手を当てる。その仕草に、人々も思わず自分の胸に手を当てた。
「そうしますと、言葉の声に震えを生じます。目や表情にも胸のざわめきが現れます」
「それで露見する…」タチカラヲが息を呑む。
「そうしましたら、親や一家の主の知るところとなるわけです」アマテルカミは静かに頷く。「問い詰められても、諭されても白状しないで頑張っていても、本心からの真剣な本音で問い質されたら白状しないわけにもいかなくなります」
人々の間に、重い沈黙が流れる。誰もが、心当たりを感じているかのようだった。
「他の人からの訴えにも、露見するものですが」アマテルカミの声が優しくなる。「すべての人はアメミヲヤの分霊であるわけですから、根本の護られたところがあるのです。それで少しのところは猶予がされるのですが」
アマテルカミは深く息を吸い込んだ。
「タマとシヰの合体で出来上がっているタマシヰの、シヰの部分が反応してアメ(世間)に露見してしまいます。そしてその地域の指導者にも告げが及んでしまうのです」
「シヰが反応する…」人々が繰り返す。
「天が作った自然の中にいて、同じくその自然から出来ている人なのだから」アマテルカミは静かに、しかし確かな声で締めくくった。「悪事も露見するものなのです」
タチカラヲは深く頭を下げた。「なるほど、それで三回目と言うわけなのですね。よく分かりました」
その表情には、深い納得と感銘が浮かんでいた。
場に満ちていた緊張が、少し和らぐ。人々は互いに顔を見合わせ、小声で言葉を交わし始めた。
「自然の理に従っているのだな」
「逃れられぬということか」
「だからこそ、最初から悪事を働かぬよう心がけねば」
そんな囁き声の中、ずっと黙って聞いていた一人の男が、ゆっくりと立ち上がった。
ハルナである。
彼の風貌には、過去の戦いの痕跡が刻まれていた。鋭い目つき、引き締まった口元。かつてオロチの乱で六群団の一つを率いた男の風格が、今もなお残っている。しかし同時に、その表情には深い悔悟の色も浮かんでいた。
人々の視線がハルナに集まる。彼がアマテルカミと直接戦った唯一の人物であることを、多くの者が知っていた。今では許されてこの場にいるが、その過去は消えるものではない。
ハルナは一歩前に出た。その足取りには、かつての荒々しさはなく、真摯さだけが宿っていた。
そして、榛名の地の訛りを交えて語り始めた。
「あんさっきのオロチ騒ぎん時ですがの」ハルナの声は低く、しかし力強い。「わしの呪術も三度目ん後でうまいこといかんなって、企みもたちまちに崩れちまったんじゃが…」
ハルナは一呼吸置いて、アマテルカミを真っ直ぐに見つめた。
「あれも同じ理からのことじゃったんでしょうかのぅ?」
場の空気が、一瞬にして張り詰めた。オロチの乱。多くの命が失われ、国が揺れた、あの騒乱。その当事者が、今、自らの過去について問うている。
人々は息を詰めて、アマテルカミの反応を待った。
アマテルカミは、にこやかな顔でハルナを見つめた。その眼差しには、非難も軽蔑もなく、ただ深い理解と慈しみがあった。
「そうですね」アマテルカミはゆっくりと頷く。「あのオロチの混乱の時には大そうな騒ぎになりました」
ハルナは唇を噛み締める。
「あなたの率いる軍勢と戦闘した日の事が想い出されます」
アマテルカミは遠くを見るような目をした。
「あの日の風、大地の震え、人々の叫び…」
「申し訳ございませぬ」
ハルナが言葉を挟もうとするが、アマテルカミは静かに手を上げてそれを制した。
「でも、そもそもの処を考えると」アマテルカミの声が優しくなる。
「小さな思い間違いが原因だったに過ぎないのだと考えています」
ハルナが顔を上げる。その目には、驚きと、そして微かな救いを求める光があった。
「それは、秩序を乱すの行為自体が自ら自分自身に災いを招いていただけなのでしょう」アマテルカミは静かに続ける。「言うなれば自業自得なのです」
「自業自得…」ハルナが小さく繰り返す。
「その理由を説明しましょう」
アマテルカミは姿勢を正し、人々全体を見渡した。誰もが、この教えを聞き逃すまいと身を乗り出している。
「一言で言えば」アマテルカミの声に力が込められる。「自分の言い分を正しいように触れ回り、大げさな文言で他人を誘惑して、結果として他人を欺いた事になったのです。その欺きの報いが戻って来たわけです」
ハルナは目を伏せた。図星を突かれたという表情だった。
「大風呂敷を広げ過ぎたばかりに」アマテルカミは手を大きく広げて、それから急に両手を合わせる動作をした。「泡が弾け潰れて消えたようなモノです」
人々の間から、理解の溜息が漏れる。
「わたくしの観察し見るところ」アマテルカミは言葉を区切りながら、丁寧に説明を始めた。「ヒトのこころの成り立ちには色々な働きのモノが寄り集まって形を成しています」
人々は一層、耳を澄ます。これは心の深奥についての教えだ。
「『ミヤビ』はこの中でも中心的な存在といえます」
「ミヤビ…」誰かが呟く。
「『ミヤビ』は知覚・理解の明るさの根幹と言えます。意識そのものと言ってよいでしょう」アマテルカミは自らの額に手を当てる。「『ミヤビ』の派生の働きにナサケ(共感・慈しみ)の枝があります。これが直接に人体に作用します」
アマテルカミは立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。人々の前を行き来しながら、教えを説いていく。
「大宇宙の中心から降されて来たタマが、地球のシヰと合わさって、生命が起きます」アマテルカミは天を指差し、それから地を指す。「また、タマが主体になって心臓が発生します。さらに内臓も生じます」
人々は自分の胸に手を当てる。確かに、そこで心臓が鼓動している。
「シヰは、大きく分けて『ネ』と『ハ』とに働きを為し行きます」アマテルカミは両手を広げる。「シヰの『ネ』は、自らの生命に対して維持の働きです。内に向く生命維持のモノです」
「内に向く…」
「シヰの『ハ』は、外界に働く生命維持の部分です」アマテルカミは外に向かって手を伸ばす。「シヰが主体になって造られたものが腎臓です」
「なるほど」人々が頷く。
「また、ココロハは、肺を造ります」アマテルカミは深く息を吸い込んで見せた。「静かに横たわれば、自分の呼吸が体の奥の肺へと吸収され、やがて吐き出される様子や、それに合わせるように心臓が働くのが分るでしょう」
人々も一斉に深呼吸をする。確かに、肺と心臓の連動が感じられる。
「そういう事で、人体の形成がなされる訳ですから」アマテルカミは再び座に戻った。「『ミヤビ』は人体のすべてに通うのです。そうして、モノを知る働きをするのです」
「ミヤビが全身に…」
「具体的には」アマテルカミは胸に手を当てる。「ミヤビの派生物であるナサケ(共感・慈しみ)が心臓に直接作用して人体の各部位に影響を及ぼします」
ここまでの説明を、人々は必死に心に刻み込もうとしていた。
「人体とはこんな成り立ちであることを踏まえた上で考えて下さい」
アマテルカミは一呼吸置いてから、具体的な例を挙げ始めた。
「たとえば」その声には、実例を語る時の重みがある。「狡賢い人が賄賂を贈って自分の土地を多くせしめようと悪巧みを考えたとしましょう」
人々は身を乗り出す。これは、現実にありうる話だ。
「親しい指導者が目先の欲に釣られて賄賂を受け取って、土地の境界線を誤魔化して奪わせます」
「ああ…」誰かが溜息をつく。そういう不正を見聞きしたことがある者もいるのだろう。
「そうしますと土地を取られた側が怒り、取られた人に親しい指導者にその不正を訴え、その指導者達の指導に当たる国司などの知るところとなり、詳しい事情の調査が行われます」
アマテルカミは手を広げて、事態の展開を示す。
「誤魔化しの不正が明白となって、正しく元に戻す事が宣言されます」
「当然ですな」年配の男が頷く。
「土地を取り戻したタミは喜びますが」アマテルカミの表情が曇る。「不正を暴かれた人と指導者は逆恨みをします。トラブルがまた起きるわけです」
「恨みが新たな恨みを…」
「そうこうしている内にアマカミにまで問題が知られてしまいます」アマテルカミの声が厳しくなる。「指導者の地位を悪用しての職権乱用罪の露見に至ります」
人々は身を震わせる。陛下にまで知られるとは、重大事だ。
「受け取った賄賂は損害を受けた人々に分配する事で一応許されますが」アマテルカミは指を立てる。「今後の悪事を働かない事の誓いが必要になります」
「それは当然のこと」人々が口々に言う。
「このようないざこざの時も」アマテルカミは静かに、しかし力強く続けた。「世間的な制裁だけに止まらずに、悪事は自分自身の身体を痛めつける事にもなっているのです」
ハルナの顔が、さらに蒼白になる。
「悪事に染まる事になると、意識が既に知り解るのです」アマテルカミは額を指す。「即座に意識から心臓に悪影響が及びます」
人々は自分の胸に手を当てる。
「他人に悪さを働いた時には、自分自身の心臓に痛みを覚えるものです」アマテルカミの声が深く響く。「他人をそしりましたら恨みを買ってしまいます。盗みをすればオシム(タマを守る壁)を損傷してしまいます。やがてその損ないからシム(タマの核)そのものに傷みが生じてしまいます」
ハルナは唇を噛み締めている。その拳は固く握られていた。
「ココロハは常に廻っているので」アマテルカミは手で円を描く。「『悪事をしたという認識』が自分自身の身体に悪影響を起こします。そしてアワレ(全体への共感)の働きにより意識へ知らせ心臓に伝わります」
「廻り廻って…」
「例えば」アマテルカミは優しい声に戻る。「他人同士のいさかいでも見たら心が騒ぎます」
「確かに」人々が頷く。
「人が人を悪しざまに叩いたりしていたら、見ていただけでも心にざわめきが起きます」アマテルカミは胸に手を当てる。「それが、ナサケ(共感・慈しみ)の働きです」
「ナサケ…」人々が繰り返す。
「人が転んで痛がっているのを見たら」アマテルカミは手を差し伸べる仕草をする。「自然に助けようと救いの手が伸びます。これはアワレ(全体への共感)の働きです。ナサケと同じでミヤビからの派生のもうひとつの働きの枝です」
人々の顔に、理解の光が浮かぶ。
「アワレ(全体への共感)からの手助けの行為が行われると」アマテルカミは微笑む。「ミヤビを通じて痛んでいた胸が治っていく影響が及びます。その手助けの行為により自然に自らの身が治まるわけです」
「善行が自らを癒す…」
「自分自身から出た良くない事でも同じように巡ります」アマテルカミの表情が再び厳しくなる。「たとえば驕りの心が起きた時、欲望の気持ちが特別に強く沸き立ちます」
ハルナが身を震わせる。まさに自分がそうだったと、その表情が語っていた。
「それでシヰの強過ぎが起きてバランスを崩した結果、そのバランスを戻そうとする働きが外部から起こります」アマテルカミは両手でバランスを取るような仕草をする。「その修正の力により自分自身の身体が耐えられずに亡くなってしまうこともあります」
人々の間に、恐れの息吹が走る。
「強過ぎる欲望の心を濯ぎ清めて通常のレベルまで戻すことが出来れば」アマテルカミの声が優しくなる。「身体も日常生活に支障ないようになります」
「戻すことができれば…」ハルナが呟く。
「イサムの心が激しく偏った人は」アマテルカミは続ける。「他人の功績までねじ曲げて自分の手柄に盗み言うようになります」
「ああ…」人々が溜息をつく。
「それは自分自身のココロハが素早く知るところとなります」アマテルカミは胸を指す。「ココロハはこの事態を意識に知らせます。意識は自ずからに五クラ(生命・心・精神を支える五つの働き)に告げます」
「五クラに…」
「五クラには様々な揺らぎが発生します」アマテルカミは手を震わせて見せる。「それは目や表情にも悪影響が現れます。言葉にも悪影響が現れます」
人々は互いの顔を見合わせる。確かに、悪事を働いた者の目は落ち着きがない。
「身体の姿勢も背中が曲がってしまい、歩き方も忍び足になります」
アマテルカミは背を丸める。
「忍び足は地面に伝わり天下万民に知れ渡ります」
「やはり大地が知る…」
「罪悪の意識が枯れてしまった状況です」アマテルカミの声が重くなる。
「罪悪の意識が枯れてしまうと秩序を平気で乱す者に成り下がってしまいます。心にも身体にも悪さをしないようにするべきです」
ハルナは深く頭を垂れていた。その肩が小刻みに震えている。
アマテルカミは遠い目をした。
その視線は、遥か彼方の記憶を辿っているようだった。
「昔、私の遭遇した事例でも本当に困った事がありました」
人々は息を詰める。アマテルカミが個人的な経験を語ることは稀だった。
「心の奥底に間違いを持ってしまっている人です」
アマテルカミの声に、深い悲しみが滲む。
「我欲が非常に強く、ちょっとやそっと言い聞かせたぐらいでは心の過ちを悔悟出来ない人です」
「そのような方が…」
「そんな事から国家の主要な役職からの除外を決断した事もありました」
アマテルカミは目を閉じる。
「長年、本当に長い長い年月での間違い探しをして貰わなくてはいけない人もいるわけです」
その言葉の裏に、誰についての話なのか。多くの者が察していた。
アマテルカミの弟、ソサノヲ。サスラウの刑を受けた、あの人物のことだ。
アマテルカミは遠い目をしたまま、しばらく沈黙した。
その横顔には、兄としての苦悩と、統治者としての重責が刻まれていた。
やがて、アマテルカミは視線を人々に戻した。その目には、再び力が宿っている。
「結論を言いましょう」
アマテルカミはしっかりとした口調で、人々一人一人を見渡しながら言った。
「自他に思いやる意識を持つ事こそが無くてはならない大切なモノです」
その言葉は、場に集う全ての者の心に響いた。
「物欲、権勢欲、承認欲などに取り込められてしまっては」
アマテルカミは拳を握る。
「結局自分自身の身を滅ぼしてしまいます」
ハルナの拳も、固く握られていた。
「他人を褒め認めてこそ自分の存在も他人の理解の対象になるのです」
アマテルカミは手を広げる。
「自他に思いやるの心が皆無だと結局は自分自身の存在が周囲に認証される様にはなりません」
「認められない…」人々が呟く。
「そんな事では楽しい嬉しい等の気持ちも」
アマテルカミは悲しそうに首を振った。
「砂粒を噛むような味気ないものとなってしまいます」
ハルナは深く深く頭を下げた。その背中は震えていた。
アマテルカミがソサノヲのことを暗に語っていたこと。ハルナはそれに気づいていた。未だにその事に苦しんでいるアマテルカミの心の痛み。それが、ハルナには痛いほど伝わってきた。
そして同時に、自分の過去の行為も全く同じことだったと気が付いたのだ。
ハルナの脳裏に、あの日々が蘇る。他人の弱みに付け込んで、少しの言動で悪く悪しざまに陥れて、目先の利得を図っていた日々。民の不満を煽り、指導者の些細な過ちを大げさに喧伝し、自らの勢力を拡大していった。
「わしは…」ハルナが絞り出すように呟く。
「わしはなんちゅう愚かな…」
やがては大きな反動が起きて、わが身に罪悪の報いとして不幸が降り注いで来た。呪術が効かなくなり、配下が次々と離反し、最後にはアマテルカミと剣を交えることになった。あの敗北。あの屈辱。
しかし今、ハルナは理解した。それは屈辱などではなかった。
当然の帰結だったのだ。
他人を悪しざまに隠れて言う、そういった行為の癖が積み重なって大きな災いの元だった事が解ったのでした。三回目の悪事で露見する、まさにその理の通りに。
ハルナの頬を、一筋の涙が伝った。
「わしゃ、わかっとらんかった…」小さく呟く。
「わしが蒔いた種が、わしに返ってきただけじゃった…」
その時、周囲の人々もまた、アマテルカミの苦悩や後悔に気づいていた。
弟のソサノヲを想う兄の心。愛する弟を罰さねばならなかった苦しみ。今もなお、その痛みを抱え続けている姿。
「アマテルカミ様も…」
「お一人で、どれほど…」
「なんと深い悲しみを…」
人々の心に、アワレ(全体への共感)の働きが満ちていった。アマテルカミの想いに、深く深く共感していた。
一人の女性が静かに泣き始めた。それが連鎖するように、あちこちから嗚咽が漏れる。しかしそれは、悲しみだけの涙ではなかった。理解の涙、共感の涙、そして自らを省みる涙だった。
場に、少し寂しく、しかし温かな静粛の時間が流れた。
日の光が強くなり、霧が完全に晴れていく。木々の葉が風に揺れる音だけが、静かに響いている。
ハルナは頭を垂れたまま、震える声で言った。
「アマテルカミ様…わしも、同じことを…民を惑わせて、人を陥れて…」
「ハルナよ」アマテルカミの声が優しく響く。
ハルナは顔を上げた。涙で濡れた顔が、朝日に照らされる。
「過ちを知ることが、第一歩です」
アマテルカミは静かに微笑んだ。「あなたは今、それを知った」
「じゃが、わしは…」
「知ることができれば、変わることができる」
アマテルカミの言葉が、ハルナの心に染み入る。
「それを信じなさい」
ハルナは唇を噛み締めて、大きく頷いた。
やがて、アマテルカミは立ち上がった。その表情には、先ほどまでの重さはなく、明るい笑みが浮かんでいた。
「私も少し話疲れました」明るく振る舞いながら言う。
「一旦お休みしましょう」
しかし、その笑顔の奥に、まだ消えない寂しさが見え隠れしていた。
「アマテルカミ様」
誰かが声をかけようとしたが、アマテルカミは静かに手を上げてそれを制した。
「大丈夫です。少し休めば」
そう言って、少し寂しそうに奥へと退室していく。その後ろ姿を、人々は黙って見送った。
残された人々は、しばらく無言のまま座っていた。
「他人を良くしようとする心…」一人の老人が呟く。
「それが好循環を生む」別の者が続ける。
「逆に、他人の不幸を喜ぶ心は…」
「小さな事でも、後の大きな災いとなって戻って来る」
「トのヲシテ」という言葉を、人々は噛みしめていた。
他人を良くしようとする「トのヲシテ」。これは良い方向に好循環をする。
それがまた逆に、他人の不幸を喜ぶ逆向きの方向性は、小さな事でも後の大きな災いとなって戻り返って来る。
その理論が、今日、明らかにされたのでした。
人々は自分の胸に手を当てて、静かに考え始めた。
「わしは、あの時…」
「私も、隣人に対して…」
「もっと、思いやりを持たねば」
ハルナは一人、その場に正座したまま動かなかった。両手を膝の上に置き、目を閉じて、深く深く自分の心と向き合っていた。
「アマテルカミ様は、わしを許してくださった」ハルナは心の中で呟く。
「じゃが、わしは自分を許せるんじゃろうか」
かつて戦った日のことを思い出す。
アマテルカミの剣は、ハルナの命を奪うこともできた。しかし、そうはしなかった。打ち負かした後、優しく手を差し伸べてくれた。
「悔いて、学び、変わりなさい」
あの時の言葉が、今も耳に残っている。
「わしは、変われるんじゃろうか…」
ハルナの問いに、答えはまだ出ない。しかし、変わろうとする意志だけは、確かに芽生えていた。
隣に座っていた老人が、そっとハルナの肩に手を置いた。
「ハルナ殿」
「…はい」
「あなたが今日ここで問うたこと。それが既に変化の始まりですぞ」
ハルナは目を開けて、老人を見た。
「過ちを認め、理を問う。それができる者は、必ず変われる」
老人は優しく微笑んだ。
「アマテルカミ様もそう仰っておられた」
「…ありがとうござります」
ハルナの目に、再び涙が浮かぶ。しかし今度は、希望の涙だった。
時が流れ、人々はそれぞれに休息を取った。水を飲む者、木陰で横になる者、小声で語り合う者。
「今日の教えは深いな」
「ああ、心と身体の繋がり、自然との繋がり…」
「すべてが巡っているのだな」
「ハルナ殿の問いも良かった」
「そうだな。あのような問いができるとは、本当に変わられたのだろう」
「アマテルカミ様も、それを見抜いておられたからこそ、あのように丁寧に答えられたのだろう」
しかし誰も、この場を離れようとはしなかった。アマテルカミの教えの続きを聞きたい、その一心で待っていた。
ハルナも、木陰で一人座っていた。両手を組み、目を閉じて、今日聞いた教えを反芻している。
「ウツホ、カセ、ハニ…」小さく呟く。「一回目は気体に、二回目は土に、三回目は自分の胸に…」
「ミヤビ、ナサケ、アワレ…」さらに続ける。「心の働きが、身体に影響を及ぼす…」
一つ一つの言葉が、ハルナの中で新しい理解を生んでいく。
「わしの呪術が効かんなったんも…」ハルナは目を開けた。
「わしの心が乱れとったからじゃ。驕りと欲望で、バランスが崩れとった」
そこまで考えて、ハルナは深く息を吐いた。
「じゃが今は…今からは、違う道を歩めるかもしれん」
その時、奥から気配が近づいてくる。
人々はさっと姿勢を正した。ハルナも立ち上がり、正座して待つ。
アマテルカミが戻ってきた。先ほどの寂しげな表情は消え、いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。少し休息を取ったことで、心の整理がついたようだった。
「お待たせしました」
アマテルカミは座に着くと、人々を見渡した。
その目には、再び教えを説こうという意欲が満ちていた。
「さて、再開しましょう」
笑顔で言うと、人々も安堵の表情を浮かべた。
「先ほどは重い話になってしまいましたね」アマテルカミは優しく微笑む。
「しかし、これらはすべて、皆が幸せに生きるために必要な教えなのです」
「はい」人々が一斉に答える。
「心と身体の関係、自然との繋がり、そして何より、自他への思いやりの大切さ」
アマテルカミは指を折って数える。
「これらを理解すれば、人は自ずと正しい道を歩めるのです」
ハルナが顔を上げた。その目には、新たな決意の光が宿っていた。
アマテルカミは、その視線に気づいて優しく頷いた。
「ハルナよ」
「はいっ」ハルナが背筋を伸ばす。
「あなたの問いへの答えは、得られましたか?」
ハルナは深く頷いた。
「はい、アマテルカミ様。わしの呪術が三度目ん後で効かんなったんは、まさにあの理によるもんでございました」
「そうです」アマテルカミは穏やかに微笑む。
「悪事は三回まで。それを超えれば、必ず露見する。あなたの企みも、その理に従って崩れたのです」
「わしは…」ハルナの声が震える。
「わしゃ愚かでございました」
「しかし」アマテルカミは手を上げた。
「あなたは今、ここにいる。それが何よりも大切なことです」
ハルナの目に、再び涙が浮かぶ。
「過ちを犯した者も、悔いて学べば、新たな道を歩める」
アマテルカミは立ち上がり、ハルナに近づいた。
「あなたには、その力がある」
アマテルカミはハルナの肩に手を置いた。
「これから、その力を正しい方向に使いなさい」
「はい…はい!」ハルナは涙を拭いながら、力強く頷いた。
「わしゃ、これから先は…民のため、人のために尽くします。もう二度と、人を陥れるようなことはいたしません」
「その心を忘れずに」アマテルカミの手に力が込められる。
「あなたの地、榛名の民を守り、導きなさい」
「必ずや!」ハルナの声が響く。
人々は、その光景を静かに見守っていた。誰もが、目頭を熱くしていた。
過ちを犯した者も、許され、導かれる。それがアマテルカミの慈悲だった。
アマテルカミはハルナの肩から手を離し、座に戻った。そして人々全体を見渡す。
「皆さん」アマテルカミは静かに語りかける。
「ハルナの例を見てください。どんなに大きな過ちを犯しても、その過ちを認め、悔い、学ぼうとする心があれば、人は変われるのです」
「はい」人々が頷く。
「逆に言えば」アマテルカミの声が少し厳しくなる。
「自らの過ちを認めず、驕り続ける者は、いつまでも苦しみから逃れられません」
人々は身を引き締める。
「ですから」アマテルカミは再び優しい表情に戻った。
「常に自分の心を省みること。他者への思いやりを忘れぬこと。これを心がけてください」
「心得ました」人々が口々に答える。
「さて」アマテルカミは手を叩いた。「他に質問はありますか?」
アマテルカミの教えは、こうして続いていった。
朝の光が木々の間から差し込み、場を明るく照らしている。
鳥の声が響き、風が優しく吹き抜けていく。
人々は、一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでアマテルカミを見つめていた。
ハルナもまた、新たな心で教えに耳を傾けていた。
過去の自分を捨て、新しい自分として生きる。その決意を胸に。
「わしも、人のために尽くせる人間になるんじゃ」心の中で誓う。
「アマテルカミ様が示してくださった道を、わしも歩んでいくんじゃ」
アマテルカミの声が、朝の空気に溶け込んでいく。
その教えは、この場にいる全ての者の心に深く刻まれ、やがては多くの人々へと伝わっていくのだった。
そして、この日ハルナが得た気づきもまた、彼が治める榛名の地へと持ち帰られ、多くの民に希望を与えることになるのである。
人は変われる。過ちを認め、学び、悔いることで、新しい道を歩める。
その真理が、この日、榛名のハルナを通じて証明されたのだった。




