コモリカミの帰還とタケミカツチの礼
第一章 産声への不安
夕暮れの薄紫に染まった空の下、ヒトリヒメは手を組み合わせて膝の上に置き、じっと俯いていた。庭先では虫の音が涼やかに響き、風が竹林を揺らしてささやくような音を立てている。しかし、彼女の心は静寂とは程遠く、不安の波に揺れ動いていた。
「コモリカミ様」
ヒトリヒメは顔を上げ、その澄んだ瞳に心配の色を浮かべた。
「産む時に、注意するべきことはありましょうか?」
声は小さく震えていた。初めての出産への恐れと期待が入り混じり、胸の奥で複雑にもつれ合っているのが、コモリカミにもよく分かった。
コモリカミは穏やかな微笑みを浮かべ、ヒトリヒメの肩にそっと手を置いた。その手は温かく、母なる大地のような安らぎを与えてくれる。
「出産時の事は、カツテカミが詳しく知っています」
コモリカミの声は、夕暮れの静寂に溶け込むように優しかった。
「わたくしが帰りまして後に、カツテカミに来てもらうように言います。ご安心ください」
その言葉を聞いて、ヒトリヒメの表情がほころんだ。不安で強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。隣に座っていたタケミカツチも、深く息を吐き、安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます。それを聞いて、心が軽くなりました」
ヒトリヒメは両手を胸の前で合わせ、深々と頭を下げた。
父娘ともに、ようやく安心することができたのだった。
第二章 感謝の宴
数日後の夕刻、タケミカツチの屋敷は燭台の暖かな光に包まれていた。庭には桜の花びらが舞い散り、春の香りが微風に乗って座敷まで運ばれてくる。
タケミカツチは心を込めてご馳走を用意し、コモリカミを招いていた。膳には山海の珍味が美しく並べられ、酒器には上質な酒が注がれている。
「コモリカミ様、どうぞ」
タケミカツチは深々と頭を下げ、席を勧めた。その表情には、心からの感謝の気持ちが表れている。
宴が始まると、タケミカツチは酒杯を手に取り、しばらく考え込むような素振りを見せた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「実は、お話ししたいことがあります」
コモリカミは興味深そうに身を乗り出した。
「わたくしは、生まれ付き背も高いです。身長は普通の人の倍あります」
タケミカツチは自分の大きな手を見つめながら続けた。
「また、力も強くて、普通の人が万人で曳くような大きな岩でも、投げ飛ばす事が出来ます。さらに、ウツロヰだって抑えつける事が出来ます」
その声には、これまでの武勇への誇りが込められていた。
「それでアマテルカミ様から2振りのツルギを賜りました」
しかし、ここでタケミカツチの表情が変わった。誇らしげな顔から、どこか寂しげな色が浮かんだ。
「でも考えてみましたら、いくら力が強くても大したことではないです」
酒杯を置き、両手を膝の上に置いて俯く。
「もう老齢に差し掛かった私などは衰え行くばかりです」
そして顔を上げ、コモリカミを真っ直ぐに見つめた。
「それに比べてコモリカミ様は沢山の子宝に恵まれて、一族も繁栄されており、素晴らしいことです」
コモリカミは静かに聞いていたが、その瞳には深い理解の光が宿っていた。
「今、子種を授かる道理を教えてもらう事がかないました」
タケミカツチは立ち上がり、奥から美しい剣を取り出した。刀身は月光のように輝き、柄には精緻な細工が施されている。
「お礼にイシツツの剣を譲り差し上げたいと思います。どうぞお受け取り下さい」
そう言って、タケミカツチは剣と共に深々と頭を下げた。
第三章 心のやりとり
コモリカミは驚きで目を見開いた。アマカミからの賜わり物であるイシツツのツルギを譲ると言うタケミカツチの申し出に、心底驚いている。
「タケミカツチ様、それは...」
コモリカミは慌てたように手を振った。
「わたくしは、アマノコヤネ様を師と仰ぐ人間です。アマノコヤネ様は兄とも思って慕っております」
その言葉には、深い敬愛の情が込められていた。
「ですのでアマノコヤネ様の義理の父上たるタケミカツチ様は、わたくしにとっても義理の父と思っております」
コモリカミの声は震えていた。
「その様な方からお礼なんて受け取るわけにはゆきません」
しかし、タケミカツチは頭を下げたまま、微動だにしなかった。その背中からは、揺るぎない決意が伝わってくる。時間だけが静かに流れ、虫の音だけが響いていた。
コモリカミは、覚悟を決め、タケミカツチの心を受け取ることにした。ゆっくりと立ち上がり、震える手でイシツツの剣を受け取る。
「ありがたく頂戴いたします」
その瞬間、タケミカツチは笑顔で顔を上げ、座を改めた。その表情は安堵と喜びに輝いている。姿勢を整えて言った。
「一族に子孫が絶えようとしていましたが、最後の希望であった一人娘に待望の子を授かることが叶いました」
その声は感無量といった様子だった。
「そしてコモリカミ様に『子種を授かる道理』を教えてもらう事ができまして、この一連の出来事の尊さに言うべき言葉もありません」
タケミカツチは天を仰ぎ、深く息を吸った。
「子は宝です」
その一言には、父親としての深い愛情が込められていた。
「イキスも良く知る事も出来てありがたいことです。それにちなんで、新婚の居宅はイキスのミヤと呼びます」
タケミカツチは決意を込めて続けた。
「アマノコヤネ様とヒトリヒメをここに水入らずで暮らしてもらうことにしましょう」
「わたくしはこちらの家でフツヌシと共にヒタチオヒを作り、イキスのミヤに届ける事にします」
第四章 帰郷と新たな始まり
これを聞き、コモリカミは静かに微笑んだ。桜散る夜風が頬を撫で、自分の役割は終わったのだと感じた。
「それでは、わたくしはこれで」
コモリカミは立ち上がり、帰京の挨拶を済ませた。タケミカツチは門まで見送り、その後ろ姿が暗闇に消えるまで見つめていた。
コモリカミは首都のタカノカウへと向かう道を歩きながら、今回の出来事を振り返っていた。星空が美しく輝き、道のりを照らしている。
一方、タケミカツチはカトリのミヤに赴いた。そこにはフツヌシが住んでいる。
「フツヌシ様」
タケミカツチは到着すると、すぐに今回の件を話し始めた。
「ヒタチオヒの詳しい謂れなど、コモリカミ様から教えていただきました」
フツヌシは興味深そうに聞いている。
「我々も、ミヤコのオシホミミ様の許へお礼を申し上げる使いを出しましょう」
「それは良いお考えです」
フツヌシは深く頷いた。
第五章 朝廷からの恩寵
ミヤコのヒタカミのミヤでは、使いの話を聞いたオシホミミも大変喜んでいた。
宮殿の庭園では牡丹の花が美しく咲き誇り、春の陽光が柔らかく差し込んでいる。
「これは素晴らしい知らせだ」
オシホミミは満面の笑みを浮かべ、側近に命じた。
「ケフのホソヌノを織らせよ。タケミカツチに授与する」
縦横に24筋の糸で織った上質な布が、職人たちの手によって丁寧に作られた。
ケフのホソヌノの授与に際して、タケミカツチは特別の場所を仮設した。
それは「タカマのハラのカリミヤ」と呼ばれる神聖な場所だった。
タケミカツチに従う人々や周辺に居住する人々は、その美しい仮設に感嘆の声を上げた。
「そのカリミヤこそ『ヒタチのミヤ』と言うに相応しい」
人々は口々に賞賛した。
タケミカツチに随従する人たちは、カリミヤを建てる際に、タケミカツチのミヤであるカシマミヤも改築してくれた。新しい建物は、春の陽光を受けて美しく輝いている。
第六章 イキスのミヤでの新生活
やがて、アマノコヤネとヒトリヒメはイキスのミヤに住み始めた。そこは緑豊かな土地で、清らかな水が流れ、鳥たちのさえずりが響く平和な場所だった。
ヒトリヒメは、お腹の子を大切に撫でながら、周辺の人々や教えを求め来る人々にイキスのツツシミ(妊娠時の注意事項)を教えた。
「妊娠中は心を穏やかに保つことが大切です」
ヒトリヒメの優しい声が、訪れる女性たちの心を癒していく。
「また、病気の時にはこの薬草をお使いください」
彼女は薬草の知識も豊富で、多くの人々を助けた。
ここにカトリのミヤ(フツヌシ)と、カシマのミヤ(タケミカツチ)、イキスのミヤ(アマノコヤネ・ヒトリヒメ)に「ヒタチのオヒ」がオシホミミから送られた。
それはヰワタ帯と呼ばれ、子種の恙なき成長を保全する神聖な帯だった。
第七章 オシホミミの詔
オシホミミは、この時に温かな詔を出された。宮殿の大広間には重臣たちが集まり、皆が静かに耳を傾けている。
「妊娠中の遊びには豆を拾うのが良い」
オシホミミの声は、慈愛に満ちていた。
「それを行う理由は『その子が何事にも熱心になる事』を祈っての行為となる。熱心さはすべてにおいて身の宝だと思う」
そして続けて言った。
「12人の子宝に恵まれた女性は月の位として賞賛しよう。3つ子を産んだ女性は三光の幸せに浴するものだ。ともに朝廷に報告してほしい。朝廷から褒美を贈呈する」
こう言って、オシホミミは、ケフのホソヌノをヒタチオヒ(常陸帯)として贈って下さった。
一般の民衆も、オシホミミの温かなお気持ちに心を打たれ、自然に国の内も整って来るのだった。
第八章 時の流れと継承
やがて年月も幾重にも重なり、季節は巡っていった。桜が咲き、青葉が茂り、紅葉が山を染め、雪が大地を覆う。そんな中で、フツヌシも世をいなむ時期となった。
フツヌシは、人生の最期を迎える前に、アマノコヤネを呼んだ。夕日が部屋を橙色に染める中で、二人は向かい合って座った。
「我が甥のアマノコヤネよ、わたしの全てを君に託したい」
フツヌシの声は穏やかだったが、その中には深い決意があった。
「『カトリのミチ』の全ての奥義を、君に授ける」
アマノコヤネは深く頭を下げ、その教えを謹んで受けた。
フツヌシの死後、タケミカツチも晩年になった時に同様のことを行った。
「アマノコヤネ様、あなたに『カシマのミチ』の全てを授ける」
タケミカツチの声は、長年の風雪に耐えた大樹のように重厚だった。
さらにアマノコヤネの実父であるカスガトノ(ココトムスヒ)も同様だった。
「息子よ、『タマカエシのミチ』の奥義もすべてお前に授ける」
この結果、大半の深いミチの深奥がアマノコヤネの許に集中して集まることとなった。
閑話休題 ヒトリヒメという名の由来
昔々のお話でございます。
さて、ヒトリヒメという名前には、ちょいと困った理由がございました。
タケミカツチという方は、それはそれは武に優れた立派なお方でしたが、武のこと以外となりますと、からっきし抜けているところがございまして。
妻が身籠もったと聞くや否や、この人は勝手に決め込んでしまったのです。
「うむうむ、きっと立派な男子が生まれるに違いない!」
そう言って、男の子の名前ばかり一生懸命考えておりました。「太郎だの、次郎だの」と、毎日毎日ぶつぶつ呟いては、ひとりで嬉しそうにしておりました。
ところがどっこい、いざ生まれてみますと、なんと可愛らしい女の子ではありませんか。
「あれれ...女の子?」
タケミカツチは目をぱちくりさせて、しばらくぽかんとしておりました。そして、がっくりと肩を落として座り込んでしまったのです。
「うーむ、これは困った。女の子の名前など、考えてもみなかった...」
それからというもの、このお方は完全に意気消沈してしまい、名前を付ける気力もなくなってしまいました。
「父上、お名前はいかがいたしましょう」と妻が何度お願いしても、「うーん、うーん」と唸るばかり。
「また次に子が生まれた時に、間違わないよう、その時に実名を付けることにしよう」
そんなことを言って、結局いつまでたっても、「ヒメカミ、ヒメカミ」と呼ぶばかりでございました。
困り果てた周りの人々は、「まあ、お気の毒に。たった一人の姫君だから、『ヒトリヒメ』とお呼びしよう」ということで、いつしかヒトリヒメと呼ばれるようになったのでした。
そしてそして、この度アマノコヤネという、とても真面目で苦労性の若者がお婿さんにやってまいりました。
アマノコヤネは礼儀正しく、何事もきちんとしたい性分でしたから、妻にきちんとしたお名前で呼びかけたいのです。ところが、実名がないものですから、どう呼んでよいやら分からず、毎日頭を悩ませておりました。
「えーっと、なんとお呼びすれば...」
「ヒメキミ、ヒメキミ」と呼ぶのが精一杯で、内心「これでよいのだろうか」と、いつもはらはらしておりました。
そのうちに、ヒトリヒメが身籠もったという知らせが入り、家中大騒ぎとなりました。
「あなた、お名前のことでお悩みのようですけれど」
ヒトリヒメは、ふんわりとした笑顔でアマノコヤネを見つめました。
「別に構いませんのよ。あなたが心を込めて呼んでくださるなら、どのような呼び方でも嬉しゅうございます」
その優しい声と、包み込むような微笑みに、アマノコヤネの緊張がほぐれました。
「でも、やはり実名がないというのは...」
アマノコヤネが困ったような顔をすると、ヒトリヒメはくすりと笑って、
「まあ、そんなに思い詰めないでくださいまし。父が武一筋で、他のことには少しおっちょこちょいなのは、昔からのこと。それも愛嬌ではありませんか」
そう言って、お腹を優しく撫でながら続けました。
「この子が生まれましたら、きっと父もきちんとお名前を考えてくださるでしょう。それまで、のんびり待ちましょうね」
こうして、ヒトリヒメは名前もはっきりしないままに、ヒタチオヒ(常陸帯)を締めることになったのでございます。
アマノコヤネは、そんな妻の寛大さに心を打たれながらも、
「実名の大事さや、子を授かることの重大さを、今になって深く深く痛感するなあ」
と、心の中でしみじみと思うのでございました。
春の風が桜の花びらを舞い散らせ、新しい命の誕生を静かに祝福しているかのようでした。
めでたし、めでたし。




