ヒトリヒメの妊娠
第一章 タケミカツチの憂い
春の陽光が鹿島の森を優しく包む午後、タケミカツチは神宮の奥殿で一人佇んでいた。窓から差し込む光が畳に長い影を落とし、その静寂の中で彼の心は重い憂いに沈んでいた。
「また今日も男の子の声は聞こえない...」
タケミカツチの深いため息が、静まり返った部屋に響いた。
彼には愛する一人娘がいたが、跡継ぎとなる男子に恵まれることはなかった。
その娘にさえ、落胆のあまり実名を付ける気力を失い、ただ「ヒトリヒメ」と呼んでいるのが現状だった。
「このままでは我が血筋も途絶えてしまう...」
庭先で戯れる鳥たちの声も、今の彼には遠く聞こえるばかりだった。
第二章 フツヌシへの相談
数日後、タケミカツチは重い足取りで香取の地へと向かった。
利根川の水面がキラキラと光を反射し、新緑の木々が風に揺れる美しい景色も、今の彼の心を慰めることはできなかった。
香取神宮の境内に足を踏み入れると、フツヌシが温かな笑顔で迎えてくれた。
「タケミカツチ殿、よくいらっしゃいました」
フツヌシの穏やかな声に、タケミカツチの緊張した肩がわずかに緩んだ。二人は静かな茶室に腰を下ろし、しばらくは昔話に花を咲かせた。夕日が障子に美しい影絵を描く頃、タケミカツチはついに重い口を開いた。
「実は...相談があってお邪魔したのです」
タケミカツチの表情が急に曇ると、フツヌシも察したように身を乗り出した。
「フツヌシ様もご存知の通り、私にはヒトリヒメしかおりません」
タケミカツチの声は次第に震えを帯びていく。
「もはや、跡継ぎとなる男子が生まれることも望めないかと...」
彼は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「そこで、お聞き及びかもしれませんが、アマノコヤネ様はまだ独身でいらっしゃるとか」
フツヌシの目が興味深そうに輝いた。
「あの方の見識の深さは誰もが認めるところ。カスガのカミという褒め名まで賜ったと聞いております」
タケミカツチは手を膝に置き、深々と頭を下げた。
「どうか、我が娘とアマノコヤネ様との縁組の橋渡しをしていただけませんでしょうか。これは私の、いえ、私どもの心からの願いなのです」
フツヌシは瞬時に事の重要性を理解した。彼の顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「それは素晴らしいお話です!」
フツヌシは手を打って喜んだ。
「実は、アマノコヤネは私の甥にあたるのです。先日のミクサタカラの授与使の際にも親しく話し、それ以来文のやり取りも続いております」
タケミカツチの表情がパッと明るくなった。
「本当ですか!」
「ええ、彼があなたの入り婿になってくれるなら、それは新たな息子を得たような喜びです。必ずや仲立ちいたしましょう」
フツヌシの力強い言葉に、タケミカツチの目には希望の光が宿った。
第三章 縁組への道筋
翌朝、朝露が草花を濡らす清々しい時刻、フツヌシは既に行動を開始していた。
「まずはヒタカミのミヤコに許可を求めよう」
彼は信頼できる使者を選び、九代アマカミであるオシホミミのもとへ向かわせた。程なくして戻ってきた使者が、オシホミミからの承諾を伝えると、フツヌシの顔に満足の笑みが広がった。
「よし、次はココトムスヒ殿のもとへ」
フツヌシとタケミカツチは連れ立って、はるばるナカクニのカスガへと旅立った。道中、二人は久しぶりの長旅に心を弾ませながら、未来への希望を語り合った。
春日の地に着くと、桜が満開に咲き誇り、まるで二人の来訪を祝福しているかのようだった。ココトムスヒとアマノコヤネの親子は、この申し出を深く考えた後、笑顔で承諾してくれた。
「これほど光栄なことはございません」
アマノコヤネは穏やかに微笑みながら答えた。
「ヒトリヒメ様とのご縁を、心から大切にさせていただきます」
第四章 オシホミミへの報告と祝言
四人は再び東北地方のミヤコへと向かった。山々が新緑に萌える美しい季節、一行の心も軽やかだった。
オシホミミは威厳ある表情で一行を迎えると、事の次第を静かに聞いた。
「よきかな、よきかな」
アマカミの温かな声が御殿に響いた。
「この縁組に心からの祝福を送ろう」
四人は深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。
その後、占いによって決められた吉日、鹿島神宮では盛大な婚礼の儀が執り行われた。桜の花びらが舞い散る中、アマノコヤネとヒトリヒメは夫婦の契りを結んだ。
「これからよろしくお願いいたします」
ヒトリヒメの頬が薄紅色に染まり、アマノコヤネも優しく微笑み返した。
「こちらこそ、末永くよろしくお願いします」
第五章 妊娠の知らせと不安
月日は流れ、初夏の青空が広がるある日、ヒトリヒメの妊娠が判明した。この吉報はすぐにミヤコへと伝えられ、オシホミミは深い慈愛の表情を浮かべた。
「安産のための相談使を送ろう」
アマカミは三十六人もの子宝に恵まれたコモリカミ(ミホヒコ)を選んだ。
コモリカミが鹿島神宮を訪れたとき、意外な申し出を受けた。
「『みたね産むみはた』について教えていただけませんでしょうか」
ヒトリヒメの真剣な眼差しに、コモリカミは困惑の表情を見せた。
「しかし、それはアマノコヤネ様から教わったもの。私が出しゃばるわけには...」
「又聞きより直接アマノコヤネ様から教わる方が正確かと」
アマノコヤネに相談すると、彼は謙遜するように首を振った。
「私は座学のみで、実地経験はありません。やはりコモリカミ様にお願いするのが一番でしょう」
こうしてコモリカミによる講義が始まった。
第六章 つわりの苦しみ
静かな午後、ヒトリヒメはコモリカミに心の内を打ち明けた。
「お腹の子のことを思うと、いつも不安で...」
彼女の声は震えていた。
「小さな灯し火が風で消えてしまうような、そんな大きな不安が常にあるのです」
ヒトリヒメの手は無意識にお腹をさすっていた。
「ある日は胸が苦しくて、酢を飲みたくなります。顔は火照るのに、手足は氷のように冷えるのです」
彼女の目には涙が浮かんでいる。
「ご飯も喉を通らず、胸は痛み、目はかすんで...歩くのもままなりません」
「でも時々、気分の良い時は豆を数えたりもできるのです」
コモリカミは慈愛に満ちた表情で、ヒトリヒメのお腹にそっと手を当てた。
「これは悪阻というもの。心配はいりません」
彼は優しく微笑んだ。
「呼吸の数を数えてみましたが、少し少なめですね。おそらく女の子でしょう」
ヒトリヒメの顔がパッと明るくなった。
「夫も女の子だと申しておりました!」
アマノコヤネの言葉を思い出し、彼女は嬉しそうに語った。
「『元気な子供を授かったようだ』と申しまして...」
第七章 コモリカミの深い教え
ヒトリヒメは更に質問を重ねた。
「なぜ一般の民には子が多いのに、位の高い方々には少ないのでしょう?」
コモリカミは深いため息をついた。
「セオリツヒメ様のことを思い出してください」
彼の表情が哀愁を帯びた。
「新婚早々、トヨケカミの崩御と重なり、アマテルカミは遠いチタルクニへ...ミヤコにお一人残されました」
コモリカミは窓の外の庭を見つめた。
「一般の民は肉体労働で疲れますが、心に大きな重圧はありません。しかし指導者は国民のために心をすり減らします」
彼の声に重みがあった。
「そして、もう一つ...他人からの妬みです」
ヒトリヒメの表情が曇った。
「立派な着物、豊かな食事...外見だけで判断され、羨まれ、恨まれる。それが目に見えない弓矢となって...」
「さらに宮中では多くの后妃がおり、いびり合いも起こりがちです」
コモリカミは桜の木を指差した。
「あの桜をご覧ください。妬みや恨みが渦巻くと枯れてしまうのです」
彼の言葉に、ヒトリヒメは身震いした。
「妬みは恐ろしいもの。愚かな気持ちから発せられても、強烈な武器となります。反乱勢力の金属の棒のように...」
コモリカミの表情が厳しくなった。
「一万三千の反乱勢力の息が集まると、堅い鱗のオロチを生じ、子種を砕いてしまうのです」
ヒトリヒメは恐怖で震えた。
「でも、妬む者自身も一日三回、心を焼く炎に苛まれます」
コモリカミは優しく微笑んだ。
「宮中の后妃たちは、それぞれ異なる華です。優劣はありません。アマカミの心が青なら青い華を、黄色なら黄色い華を愛でるのです」
「華も散り、色も移ろいます。自分にも花盛りの時期があったのです。誰を恨む必要もありません」
彼の声が温かくなった。
「女性は一心に思い詰めがち。それで妬みの心を募らせ、やがて鱗のオロチとなって他人の子種を砕く...そのための防御が『ヨツキフミ』の慎みです」
「華と華が打ち合えば、共に散ってしまいます。『慎み』とは、日常常に気をつけることなのです」
第八章 安らぎの日々
コモリカミの深い教えに、ヒトリヒメの心は次第に平安を取り戻していった。
「まだまだお聞きしたいことが...」
彼女の瞳に好奇心の光が戻っていた。
「それはそうでしょう。初めての妊娠、出産は大きな出来事ですから」
コモリカミは慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「では、暫くここに滞在させていただきましょう」
こうして、鹿島神宮の静かな境内で、ヒトリヒメは安らかな妊娠期間を過ごすことになった。庭には四季折々の花が咲き、鳥たちの鳴き声が彼女の心を和ませた。
夫のアマノコヤネは優しく妻を支え、コモリカミは豊富な経験で彼女を導いた。そして何より、お腹の中の新しい命が、日々確実に成長していることが、ヒトリヒメにとって最大の喜びとなったのである。
夕日が神宮の森を黄金色に染める頃、ヒトリヒメは静かにお腹をさすりながら、来たるべき出産の日を心穏やかに待ち続けていた。




