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祈りを繋ぐもの  作者: 和穂ゆう
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イモセのミチ3 ~ 教えの結びとその後

 秋の陽が西に傾き始める頃、神聖な講義の場には温かな光が差し込んでいた。

木々の梢を渡る風が、黄金に染まった葉を舞い散らせ、静寂の中に微かな音楽を奏でている。集まった人々の顔には、これまでの講義で得た深い学びへの満足と、最後の教えを聞き逃すまいという真剣な眼差しが宿っていた。


アマノコヤネは、長い白髭を撫でながら、穏やかな表情で参加者たちを見渡した。

彼の瞳には、長年にわたって培われた智慧の深さと、人々への慈愛の光が輝いている。


「本日で話は最後となると思います」


アマノコヤネの声は、秋風に運ばれるように静かに響いた。その声色には、一つの教えを完成させた達成感と、別れの寂しさが微かに混じっていた。


「今までの話の中で何か質問はありますか?」


講義を聞きに集まって来た人々の間に、しばしの沈黙が流れた。

それぞれが胸の内で、これまでの教えを反芻し、最後に聞いておきたいことはないかと心を探っているのだった。


その時、群衆の中からひとりの男が静かに進み出た。

ツクハ・ウシである。

彼はツクハ・ハヤマの血を受け継ぐ者として、祖先の名に恥じぬよう、真摯に学びに取り組んでいた。しかし今、彼の心には深い迷いが生じていた。


眉間に深い皺を寄せ、手を強く握りしめながら、彼は勇気を振り絞って口を開いた。

「アマノコヤネ様」


ツクハ・ウシの声は僅かに震えていた。彼の心の奥底にある不安が、その声に現れていた。

「目先の欲求を捨て去り離れるためには、家も財産もすべて捨て去らないといけないのでしょうか?そうして、死にゆくのを待つのでしょうか?」


この問いかけに、周囲の人々もざわめいた。多くの者が同じような疑問を抱いていたのである。家族を養い、生活を営みながら、どうすれば真の道を歩むことができるのか。現実と理想の狭間で揺れる人々の心が、ツクハ・ウシの言葉に共鳴していた。

アマノコヤネは、ツクハ・ウシの苦悩を深く理解したような表情を浮かべた。彼の目には慈悲の光が宿り、微かに頷きながら答えた。


「そうではありません」

その答えは短いながらも、力強い確信に満ちていた。

アマノコヤネの表情は穏やかながらも毅然としており、長年の修行と経験に裏打ちされた智慧の深さを感じさせた。


しかし、ツクハ・ウシの心の迷いは完全には晴れなかった。彼は再び口を開いた。今度は、より具体的な不安を口にした。

「たとえば、病気になって働けず食べ物に事欠くようになってしまいましたら、どうしましょう。飢えて、他人からの施しを受けねばなりません」


ツクハ・ウシの声には、生活への切実な不安が込められていた。彼の手は小刻みに震え、額には汗が浮かんでいた。周囲の人々も、この現実的な問いに息を詰めて聞き入っている。


アマノコヤネは、深く息を吸い込み、ゆっくりと答え始めた。彼の表情には、人生の苦難を知り尽くした者だけが持つ深い慈悲と理解が表れていた。


「施しを受けるだけなのはバランスの取れた生活ではありません。それは乞食です」

アマノコヤネの声は厳しかったが、それは愛情に基づく厳しさだった。彼の目は遠くを見つめるように細められ、多くの人々の人生を見届けてきた経験が語らせていた。


「何時いかなる時もその様な恥ずかしい思いをしないで胸を張って生活が出来る様に考え行動する事が立派な人です」

アマノコヤネの言葉に力が込められた。彼の背筋はまっすぐに伸び、その姿は尊厳ある生き方を体現していた。


「施しを主にしての生活では施しを与えてくれる人に対して頭が上がらず顔色を窺い続けることになり、自分が情けないと嘆き続けることになります。何らかの社会的な役割を担っていると良いのですが、生活の糧を乞うばかりでは淋しい限りです」


この言葉を聞いて、ツクハ・ウシの表情に僅かな安堵の色が浮かんだ。しかし、まだ完全には納得していないようだった。彼は再び質問した。


「金銀財宝の魔力から心を自由にする事は、どうやったら良いのでしょうか?」

この問いには、物欲との闘いに苦しむ多くの人々の切実な願いが込められていた。ツクハ・ウシの目には、真摯に答えを求める光が宿っていた。


アマノコヤネは、この問いを聞いて、優しく微笑んだ。彼の表情には、この質問を待っていたような満足感が現れた。風が彼の白い髯を揺らし、まるで神々しい存在のような威厳を醸し出している。


「財力や金銀財宝のその魔力から心を自由にする事は、単に『捨てず・集めず』という気持ちになれば良いわけです。自分あるいは自家の生業についてしっかりと努める事に尽きます」

アマノコヤネの声は、深い確信に満ちていた。彼の手は静かに宙を舞い、まるで見えない真理を手繰り寄せるような動作を見せた。


「財力に勝って、財宝を集め倉に山と積んでも活きた力にはなりません。山野の鉱山に眠っている金銀と同じです。あるいは、他人の羨みを招くだけにかえって良からぬモノだとも申しましょう」

この言葉に、聴衆の中にいた裕福な商人たちが、はっとした表情を見せた。彼らの心に、これまで感じたことのない種類の不安が芽生え始めていた。


アマノコヤネは、さらに続けた。

「結局、金銀財宝や財力はどのようにして活かすかが大切です。今までお話してきた通り、人々の幸せが最重要の事柄ですので、そこにその力を活用すべきでしょう。次代を担うべき心の素直な人物がいるならその人に財力を託し活用させればよいわけです。そうすれば心は晴やかになり、目先の欲求に惑わされる事も無いというものです」


彼の言葉は、まるで澄み切った山の清水のように、人々の心に染み入った。聴衆の表情には、新たな希望の光が宿り始めていた。


しかし、アマノコヤネの表情は急に厳しくなった。彼の目に警告の光が宿り、声にも力が込められた。

「金銀財宝をいくら沢山集めたとしても、倉に貯めるだけではごみを増やしているだけです。こんなに沢山集めたぞと、世の中に公言すればするほど、羨む者たちが増えてくるのです。そして、羨み、妬み、嫉みになり、やがては恨みになって戻り降り掛かって来て苦しむことになるのです」


この言葉を聞いて、聴衆の間に緊張が走った。富を誇示することの恐ろしさを、彼らは肌で感じ取ったのである。

「タマノヲ(タマ(魂の源泉)とシヰ(心の本質)を繋ぐ働き)は乱され、子孫は衰亡してゆき、死後に迷っても取りすがる一族の霊を祀る社も無いような事になります」


アマノコヤネの声は、まるで遠い未来からの警告のように響いた。彼の目は深い慈悲と同時に、厳しい現実を見据えた智慧の光を宿していた。

「タマカエシをしてくれないと、迷ってしまって、アモト(宇宙の中心)に戻れないのです。子孫がタマカエシをしてくれることで、タマノヲを解くことが出来るのです。そうでないと長い間苦しむことになります」


この深遠な教えを聞いた時、群衆の中で一人の男が顔を青ざめさせた。

シホカマカミである。

彼の心に、深い不安が芽生えていた。というのも、シホカマカミは子供に恵まれていなかったからだった。


シホカマカミは、妻と共に長年子供を待ち望んでいたが、その願いは未だ叶っていなかった。彼は既に高齢に差し掛かっており、今の話を聞いて、死後の魂の行方について深い不安を感じずにはいられなかった。


シホカマカミは震える手を握りしめ、勇気を振り絞って前に出た。彼の顔には、長年の苦悩と焦りが刻まれていた。

「わたくしども夫婦には、未だ子供が産まれません。どの様にしたら宜しいでしょうか?」


シホカマカミの声は、心からの切実な願いに満ちていた。彼の目には涙が浮かび、長年抱き続けてきた悲しみと不安が滲み出ていた。今更他の女性を妾になんて...という複雑な想いも、その表情から読み取ることができた。


アマノコヤネは、シホカマカミの苦しみを深く理解した表情を浮かべた。彼の目には、この男の長年の苦悩に対する深い同情と慈愛が宿っていた。

「子種を降す事に関して、アモト(宇宙の中心)を創始した元であるアメノミヲヤは絶大な力を及ぼしてくれる事でしょう」


アマノコヤネの声は、希望に満ちた温かさを帯びていた。シホカマカミの表情に、僅かながら希望の光が差し始めた。

「アメノミヲヤに対してのお祭りをシホカマカミ様に取り仕切って頂くと大きな期待が持てるのではないでしょうか?」


この提案を聞いて、シホカマカミの目が輝いた。長い間閉ざされていた希望の扉が、ゆっくりと開かれ始めたような感覚が彼を包んだ。


「アマカミの即位を祈念し上奏する大嘗祭はたまにしか催ようされる機会がありません。しかし自ら催すアメミヲヤの祭祀ですから、いかなる凝り固まったタマノヲであっても解きほぐしをする事が出来て源のアモトへと帰る事が出来るでしょう。そしてより良き境遇に生まれ変わる事が出来るというものです」


アマノコヤネの言葉は、まるで天からの啓示のようにシホカマカミの心に響いた。しかし、同時に現実的な困難についても言及された。


「いざアメノミヲヤの祭祀を行うとなると大変な準備が必要となります。ですので一般的には、子孫の幸せを思って夫婦仲良く一家仲良く生業に努める事こそが『イセのミチ』の要諦と言えましょう」


この言葉に、シホカマカミは深く頷いた。彼の表情には、新たな決意の光が宿っていた。


夕日が一層深く西の空を染める頃、アマノコヤネは最後の締めくくりの言葉を述べ始めた。彼の声には、長い講義を終える満足感と、深い感慨が込められていた。

「この『イセのミチ』を学びました所は、イセのクニです。アマテルカミ様が晩年に長くお暮しになられたクニです。それで『神風の吹くイセのクニ』と言われるのです」


彼の言葉と共に、まるで神風が吹いたかのように、優しい風が講義の場を包んだ。人々の心は、深い平安と新たな希望に満たされていた。

「目先の欲求をどうやってそそぎ清らかな心を保つか?それこそが『ススカ』の教えであり、生まれ変わりの時の正しい流れを確保する大切な考え方なのでした」


アマノコヤネの最後の言葉は、静寂の中に深く響いた。夕暮れの空に最初の星が瞬き始め、新たな時代の始まりを告げているかのようだった。



時の流れ - 後の物語


随分の長い年月が経ってからの事である。

季節は巡り、多くの人々がこの世を去り、また新たな命が生まれた。


9代アマカミのオシホミミのご崩御の後、未亡人になられたタクハタチチヒメは、深い悲しみの中にいた。


秋風が吹き抜ける中、タクハタチチヒメは亡き夫への想いを胸に、イセのアマテルカミにお仕えすることを決意した。彼女の心には、夫への愛と、神への献身が深く刻まれていた。


タクハタチチヒメは、その後長い年月を神に仕え、人々の幸せのために尽くした。彼女の生涯は、まさに「イセのミチ」を体現したものであった。


タクハタチチヒメが亡くなる時、人々は彼女をススカのカミとして片山神社に祭った。彼女は後に鈴鹿権現とも呼ばれるようになった。その神社の位置は、イセ(アマテルカミ)とアワチ(淡路)(イサナギ)との中間としての意味を持ち、先に亡くなった夫のオシホミミの御陵が箱根であったことから東西向き合う形の場所として、深い意味を込めて選ばれたのであった。


風は今も、その神社の杜を渡り、永遠の愛と信仰の物語を語り続けている。

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