ヨモツヒラサカの誓い
第一章 アマテルカミの誕生と旅立ち
かつらき山の頂に朝霧が立ち込める中、一人の老翁が祈りを捧げていた。
トヨケカミである。
彼の心には、娘イサナミとその夫イサナギに待望の皇子が生まれることへの
切なる願いが込められていた。
八千回という途方もない数の禊ぎを重ねる日々。
山の清流に身を沈めるたび、トヨケカミの心は祈りで満たされていた。
「どうか、この国を導く立派な皇子をお授けください」と。
ついにその日が訪れた。
使者が息を切らして山を駆け上がってくる。
「皇子がお生まれになりました!」
その知らせを聞いた瞬間、トヨケカミの胸に大きな安堵の波が押し寄せた。
長い祈りの日々が報われたのだ。
祈りが叶った今、新たな責任がトヨケカミの肩にのしかかった。
この皇子——アマテルカミを立派な君主に育て上げなければならない。
彼は東北の地に「アマツミヤ」を建設し、
屋根に大きな鳥を戴いた荘厳な御輿を造らせた。
十六年の歳月が流れ、アマテルカミは凛々しい青年へと成長していた。
富士山の南麓、ハラミノミヤの庭園では、
両親のイサナギ・イサナミが不安と期待の入り混じった心境で、
愛する息子の旅立ちを見守っていた。
「本当に、お父様が直々にお迎えに?」イサナミの声には驚きが込められていた。
やがて現れた御輿の列は、まさに王者の威厳に満ちていた。
先頭の御輿にはトヨケカミ自らが乗っている。
「アマツミヤでの学びについて説明いたします」
トヨケカミの声は穏やかだが、その中に教育者としての確固たる信念が感じられた。「あの地は黄金の産出する豊かな土地。学問に集中するには最適の環境です」
別れの時が来た。
イサナギは息子の肩に手を置き、優しくも力強い声で言った。
「自信を持って学びなさい」
イサナミは涙をこらえながらも、母としての愛情を込めて応援した。
「頑張って。いってらっしゃい」
アマテルカミは両親を見つめ、きっぱりと答えた。
「はい。国と国民のため、しっかりと学ばせていただきます」
御輿の列がゆっくりと動き出す。振り返るアマテルカミと、手を振る両親。
親子の絆が、遠ざかる距離を越えて心に刻まれた瞬間だった。
第二章 アワウタの普及と国土再建
ヒタカミの地でアマテルカミが学問に励む一方、
イサナギ・イサナミは国土の再建という大事業に取り組んでいた。
オキツホノミヤでの即位式を終えた七代目アマカミの二人は、
まず言葉の統一という課題に着手した。
「人々の心を一つにするには、まず言葉を一つにしなければならない」
イサナギの決意は固かった。
琵琶湖のほとりに響く美しい調べ。
それは「あわうた」四十八音の合唱だった。
男性たちはイサナギに導かれて前半の二十四音を歌い、
女性たちはイサナミに合わせて後半を歌う。
「アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ ヘネメオコホノ モトロソヨ」
「ワヲンヤマ エヤイヤエ オワオナ ヤワヨ タレソツネ ナラムウヰ」
歌声が風に乗って広がるにつれ、人々の心も一つになっていく。
言葉の混乱から生まれていた諍いや誤解が、美しい調和へと変わっていった。
「この地を『アワクニ』と呼ぼう」人々は感謝を込めて言った。
ナカクニ(琵琶湖地方)は平和を取り戻していたが、
遠国にはまだ助けを求める声が響いていた。
第三章 九州への旅路と建国の精神
春の陽光が九州の大地を照らす中、
イサナギ・イサナミは新たな使命を胸に、この地に降り立った。
ここで彼らが最初に行ったのは、「たちはな」の植樹だった。
橘の木は初代アマカミ・クニトコタチの時代から国の象徴とされてきた。
その白い花が風に舞い、甘い香りが辺りに漂う。
人々は木を囲み、建国の精神について語るイサナギの言葉に耳を傾けた。
「国とは、アマキミの叡智を柱として、
臣民がその指針に従い自主努力を行って形成されるものです。
しかし豊かさに慣れた今、人々は自力で困難を克服することを忘れてしまった」
イサナミも優しく付け加えた。
「この橘の木のように、しっかりと根を張り、
自らの力で美しい花を咲かせてほしいのです」
人々の心に建国の精神が蘇る中、「ヲトタチハナのアワキミヤ」で皇子が誕生した。モチキネと名付けられたこの子は、後に重要な役割を担うことになる。
第四章 四国での平穏な日々
四国の緑豊かな山々に囲まれた地で、
イサナギ・イサナミは比較的平穏な日々を送っていた。
この地域では「あわうた」の普及が既に進んでおり、社会の混乱も少なかった。
イサナギの叔父サクナギの子、イヨツヒコが「あわうた」の普及に尽力していた。
やがて彼の功績が認められ、「アワツヒコ」という褒め名を授かる日が来た。
四国での成功を見届けた二人は、次なる地、ソサクニ(紀伊半島)へと向かった。
第五章 ソサクニでの新たな始まり
紀伊半島の美しい自然の中で、イサナギ・イサナミは宮殿に橘の木を植えた。
初代アマカミの建国精神を人々に伝えるためだった。
この国は「トコヨクニ」と呼ばれ、
「ト」のヲシテの精神を中心とした理想の国を意味していた。
イサナギ・イサナミが再建したこの国は、
「トコヨサト」とも呼ばれるようになった。
最初の皇女ヒルコヒメがこの「トコヨサト」のミヤを訪ねてきた。
生まれた時の「あめのふし」(厄年)の言い伝えのため、
一時は他の人に育てられていたが、
美しく立派な姫君に成長して両親の元に戻ってきたのである。
ヒルコヒメは父母と共に「アワウタ」の教えを人々に広める手助けをした。
第六章 ハナキネの誕生と悲劇の始まり
五月の中頃、橘の花が最も美しく咲く季節に、第二子が誕生した。
宮殿に植えられた橘の芳しい香りに包まれて生まれたため、
ハナキネと名付けられた。後のソサノヲである。
しかし、この子の誕生は悲劇の序章でもあった。
母イサナミは産後の体調が悪く、
ハナキネの養育に十分に関わることができなかった。
母の愛情を求めて泣きわめき、わがままに振る舞うハナキネの姿に、
周囲の人々は困り果てた。
イサナミは自分の愛情不足が原因だと責任を感じ、
クマノ・ミヤ(心身の病から守ることを祈願した社)の建設を始めた。
人々の心と体の不調を自分が受け止めようとする、
母としての深い愛情の表れであり、人々からは感謝された。
しかし、それがますますハナキネを孤独にさせていく。
第七章 イサナミの死と慟哭
運命の日は突然やってきてしまった。
ハナキネがクマノミヤの近くで悪戯をして木に火を放った時、
火が燃え広がり大きくなりすぎた。
イサナミや人々は必死に消火活動を行ったが、
その過程で事故に遭い、帰らぬ人となってしまった。
イサナギの悲しみは計り知れなかった。
愛する妻を失った悲嘆に加え、
遠地にいて最期を看取れなかった後悔が彼の心を支配した。
葬儀はアリマ(現在の花の窟神社)で執り行われた。
熊野の海を見下ろす清々しい山の中腹、
洞窟にイサナミの遺体は納められた。
風葬という古い慣習に従った葬儀だった。
イサナギの妹ココリヒメが葬儀を取り仕切った。
「ハナの季節に、亡きイサナミ様を偲ぶお祭りをいたしましょう」
彼女の提案で、毎年の追悼祭が決められた。
第八章 黄泉の国での再会と別れ
遠地から急ぎ戻ったイサナギは、どうしても妻に一目会いたいと願った。
「傷んでしまったご遺体では、イサナミ様もお見せしたくないでしょう」
ココリヒメは優しく諫めたが、イサナギの意志は固かった。
「自分がいないことを寂しがっているだろう。
急いで帰ってきたのだ。会わずにどうする」
松明を手に洞窟に入ったイサナギが見たのは、
風葬により変わり果てた妻の姿だった。
「こんな姿になってしまって...信じられない...」彼は後ずさりし、
絶望に苛まれながら洞窟から足を引きずるように出てきた。
その夜、イサナギは悪夢にうなされた。
夢の中で後を追うつもりで再び洞窟を訪れた彼の前に、イサナミが現れた。
「来ないでとココリヒメに願いを伝えていたのに。
風葬が終わるまで待たずに、私の崩れていく姿を見て恥をかかせて。
さらに私の後を追おう(自死)なんて、周りを省みない愚かなこと。
フタキミと呼ばれたアマキミの姿としてあまりに嘆かわしい」
イサナミは八人のシコメ(醜女)にイサナギを追い立てさせた。
剣を振るいながら逃げるイサナギ。
ブドウを投げると、シコメたちはそれを食べて一時ひるんだが、再び追ってきた。
竹の櫛を投げても効果はない。
桃の木のある場所まで逃げ延びた時、イサナギは桃の実を投げつけた。
シコメたちは桃を嫌い、退散していった。
気がつくとそこは「ヨモツヒラサカ」(生死の境目)だった。
いつの間にか現れたイサナミと、イサナギは最後の会話を交わした。
「いつまで私に言い訳をしようとしているのです。
もう今生のお別れなのですよ。
その様な情けない姿を見せ続けるなら、
千人の民にその性根が移り、毎日この境界に人が迷い込んできますよ」
イサナギは深く反省し、宣言した。
「そのように言われて、本当に情けないと思います。
己を見直し、千五百人に毎日ミチを教え導きます。
あなたの心配する事態は防げるでしょう。
この境界は、生死の境を分かち、我に返すための結界だったのですね。
あなたは亡くなってまで私を救ってくれた。チカエシのカミです」
「...」イサナミはイサナギを黙ってじっと見つめていた。
イサナギは独白のように語った。
「私はあなたの死に際に傍にいることができなかった。
それを悔いて亡骸だとしても…一目あなたに会いたかった」
「そして、実際の姿を見て取り乱し、
その場に居合わせたココリヒメや他の人々に情けない姿を見せてしまった」
「あなたは、そんな私が自死しようとすることを防ぎ、
生の境目まで追い返してくれた」
「やはり、あなたは私の最高の妻だった。
あなたの最後の叱咤を胸に私は前を向いて生き続けよう」
イサナミがようやく口を開いた。
優しい笑みを浮かべた一番見たかった顔だった。
「仕方のない人...でも、最後に気がついてくれた。
やっぱり私の最高の夫です。
子供たちのことをお願いします。
あなたならきっと大丈夫。私はずっと見守っていますよ」
イサナギは涙をこらえる様にこぶしをぎゅっと握り、妻に背を向けた。
「さようなら...」
生死の境に響く別れの言葉は、永遠に二人の心に刻まれた。
第九章 禊ぎと神々の創生
クマノのモトツミヤ(熊野本宮大社)に戻ったイサナギは、
オトナシカワ(清流)で禊ぎを行った。
心の闇を払うため、マカツヒのカミ(心を明るく照らす神)を考案し、
さらにカンナオヒ(禍や罪を正す神)、
オオナオヒ(心の乱れを清める神)も祭った。
妻との約束を守るため、イサナギは九州のアワキ(江田神社)へ向かった。
道中、各地にマカツヒのカミを祭り、
ナカカワ(那珂川)にはソコツツヲ、ナカツツヲ、ウワツツヲを生み出した。
アツカワ(宗像大社)ではワタツミの三神を、
シガウミ(志賀海神社)ではシマツヒコ、オキツヒコ、シガノカミを生み出し、
それぞれの地の人々に祭らせた。
第十章 トヨケカミの教え
先代のアマカミ六代目トヨケカミは、
禊ぎに励むイサナギに「ミチヒキのウタ」を授けた。
「天下を治めるべきイサナギよ、お聞きください。
妻との別れが惜しまれるのは良く分かります。
しかし、アマカミたる公の立場の人は、
亡くなった人を追っていくのは恥となります。
追ってこられて困るイサナミにとっては、
あなたの自死を止めるためにも、
シコメにヨモツヒラサカまで追い返すしかなかったのでしょう。
良いこと悪いことは表裏一体。
昔、芦を引き抜いて新田を造成したように、
良かれと思っても相手には悪く取られることもあります。
しかし、あなたがヨモツサカでの体験を経て、
真の指導者としての器量を身につけたのです。
各地での禊ぎと神々の創設により、
国民の精神も整ってきました。これこそ真実の『トのヲシエ』の姿です」
イサナギは、娘を失った悲しみにもかかわらず
毅然とした姿で励ましてくださるトヨケカミに深く感謝し、
亡き妻との約束を守り、民を導くことを心に誓うのだった。
夕日が熊野の山々を染める中、イサナギの新たな歩みが始まった。
愛する妻の死を乗り越え、真の指導者として生まれ変わった彼の前には、
まだ長い道のりが待っていた。
しかし、その心には確かな光が宿っていた。
イサナミが最後に見せてくれた優しい笑顔とともに。




