八月二三日②
本橋が電話をかけようとすると、梶原は携帯電話を持つ本橋の腕を凝固した血と痣にまみれた手で押さえ、かすかに首を左右に振った。病院に行けない事情があると言いたいのか。瀕死の状態でそんな我儘言っている場合じゃないだろうと思いながら、本橋は頷き、進藤綜合診療所に電話を掛けた。しばらく呼び出し音が鳴り続けた。本橋は梶原の左の前腕が腫れ上がっているのを見ながら、筋違いと分かりながら、なかなか電話に出ない矢部に対して苛立ちを感じた。
「携帯電話くらい持てよ、強情爺さん」
毒づきながら、手を上げてタクシーを停めた。本橋は後部ドアから顔を突っ込み、「もう一人いるからちょっと待っててもらえますか」と運転手に言うと、だらりとした梶原の腕を自分の肩に乗せた。ルームミラー越しにボロ切れのような男が自分の車両に近づいてきているのに気づいた運転手は慌てて後部ドアを閉めようとした。それを本橋は右手で押さえ、無理やり梶原を後部座席に押し込んだ。
「お客さん、車汚されると困るよ」
運転手は嫌悪感を隠さなかった。
「気持ちはわかります。しかし、このままだと彼はこの車の中で死んでしまう。早く車を出してください」
本橋は叫んだ。
「あんた、めちゃくちゃだな」
運転手は悪態をつきながらわざとらしく車を急発進させた。
本橋は、そんな運転手の態度を気にする余裕もなく、電話を取り出しリダイヤルした。呼び出し音だけが空しく鳴り続けた。その脇では、梶原が糸が緩んだ操り人形の様に力なく左右に揺れていた。
間も無くタクシーは進藤綜合診療所の手前の道路に停まった。本橋は「ありがとう」と言い運転手に二千円を渡すと、梶原をタクシーから運び出した。運転手はわざわざ窓を開けて「くたばっちまえ」と叫んで乱暴に発進した。そしてスキール音を鳴らして狭い交差点を派手に右折した直後、ビルの向こうで派手な衝突音が聞こえた。「畜生!」というタクシーの運転手の喚き声が、カラスの鳴き声とともに空しく反響した。




