八月一七日⑳
二人が帰ると、カーテンの向こうでドアの鍵を閉める音と、待合室で寝ている男に何やら話しかけてる矢部の声がした。間もなくカーテンの向こうの照明が消され、カーテンが開き、矢部が再び姿を現した。いつの間にか、片手にはサッポロラガーの大瓶とコップを持っていた。そして、椅子に座ると古風に栓抜きで王冠を二回叩いてから開栓し、グラスにビールを注いだ。
「まあ、お前も災難だったな」
矢部はそのままグラスを傾け、ビールを飲み干した。
「今日はありがとう」
本橋は診察ベッドの上で、横を向いたまま軽く首を下げた。
「しかし、お前も大人になったな。ちょっと前までは青臭いガキだったのにな」矢部は椅子に体を預け、懐かしそうに話した。「まあ、一番の大怪我はその横っ腹の傷が膿んで担ぎ込まれたときかな」
「あの時の主治医が嫌いで世話になりたくなかったんで」
「だからって、死にかけることもないだろうし。お前は根が強情だからな」
矢部は、立ち上がると点滴の準備を始めた。
「先生も、先代の院長の名前、ずっと残してるんだから強情じゃないの」
「馬鹿。俺は強情じゃなくて仁義に厚いっていうんだよ。進藤先生がこの診療所作って、俺に残してくれたんだからな」
矢部は、タバコを口にくわえたまま迷いなく点滴針を本橋の腕に刺し、点滴液の流量調節ダイヤルを回した。
「じゃあ、オレは奥で寝てるから、何かあったらナースコールみたいな音出して呼べよ。センセー、とか芸のない呼び方じゃ来てやらないからな」
「了解。ところで、かなり痛いんだけど?」
「殴られたんだから、当たり前だろう」
矢部は、本橋の訴えに素っ気なく答え、飲みかけのビール瓶とコップを手に診察室の脇にある小部屋に入っていった。パチリと音とともに暗闇が広がり、待合室からは酔いつぶれた男のいびきが、矢部がいる小部屋からはビルエバンスのピアノの音色がかすかに聞こえた。




