八月一七日⑲
「ヒロ、矢部先生でしょ!」
春海が、本橋の腹部のジェルをペーパーで拭き取りながら、しかめ面で叱った。
「いいんだよ」矢部が笑いながら言った。「名医だってことがばれると、忙しくなっちまうからな。私が皆にそう呼ぶように頼んでる」
「それでも……。先生失礼申し上げてすみません」春海は困った顔をした。
「春海ちゃんは、相変わらず可愛らしいな」
矢部は、椅子の背もたれに体を預けて、春海を眺めながら腕組みをした。
「先生、春海さんを口説くなよ。それより、エイジは大丈夫なのかよ」
「多分な。腎臓をちょっと損傷しているかも知れんが、他は大丈夫だ。腹筋鍛えていてよかったな坊主」
そう言いながら、タバコをくわえてジッポーライターで火をつける矢部の態度に苛立ちを隠せないようにヒロが噛みついた。
「腎臓? 全然大丈夫じゃないよね?」
「うるせえな。俺が大丈夫って言うんだから、かなりの確率で大丈夫なんだよ」
矢部はヒロに向かって煙を吹きかけ、本橋の方に上半身を屈めた。
「まあ、今晩はうちに泊まっていけ。止血剤やらいろいろ混ぜた点滴入れてやるよ。それで明日血尿出なけりゃ退院して経過観察だ」
本橋は、矢部の方に顔を向けて呻いた。
「先生、カテーテルとかは無しでよろしく」
「なんだよ、いつも涼しい顔してるお前が脂汗かくところ楽しみにしてたのに」
矢部が愉快そうに言った。春海とヒロもようやく安心し、二人の会話に微笑みを浮かべた。
「まあ、春海ちゃん達も帰って寝なよ。こいつの面倒は見ておいてやるからさ」
「すみません。よろしくお願いします」春海は深々とお辞儀をすると、本橋に優しげな目を向け「また明日来るからね」と、手を握った。
「先生、エイジをお願いします」
ヒロも真剣な面持ちで会釈をした。そして、本橋に「じゃあな」と声をかけた。




