八月一七日⑱
進藤綜合診療所は、新宿の裏通りにある築五十年は下らない古ビルの一角にあるので、車をつけることができなかった。近くのコインパーキングに駐車し、ヒロが後部ドアを開くと、本橋は目を閉じ、ぐったりとしていた。
「春海さん、エイジが大変だ」
春海は急いで反対側の後部ドアを開くと、本橋の目を開きペンライトを当てた。
「大丈夫みたい」そう言うと「瑛ちゃん、目を覚まして」と、本橋の頬を軽く叩いた。本橋は、薄っすらと目を開き、再び痛みに顔をしかめた。
「ヒロちゃん、そっと瑛ちゃんをそっと車から出して、肩を貸してあげて」
ヒロは頷くと、本橋の両脇に腕を差し込み、車から引きずり出した。そして右肩に本橋の左腕を乗せ、「もう少しだ、頑張れ」と本橋に声をかけた。春海が「すみません。ちょっと通してください」と人払いをしながら、酔客で賑わう裏通りを進んだ。
程なくして診療所の看板の明かりが見えた。原色で彩られた周囲の飲食店の看板に隠れるように白地に黒い字で「進藤綜合診療所」とだけ素っ気無く表示されただけのそれは、意識しなければ見逃してしまう代物だった。春海が、カーテン越しに蛍光灯の灯りが漏れ出ているガラス扉を開き、二人を招き入れた。室内に入るとすぐに四畳位の待合室があり、両側の壁に向かい合うように古ぼけた長椅子が置かれていた。右側の長椅子には、ボロ切れのような作業服を着た年配の男が、点滴を刺されて横たわっていた。男の周囲は据えた日本酒の臭いに包まれていた。
「矢部先生、遅くにすみません。瀬戸です」
春海が待合室の奥に並べられた医療用衝立に向かって声を上げると、中央部分のカーテンが開き、白髪を後ろで結わえた六十代の男が姿を見せた。そして、春海の顔を見ると嬉しそうに口髭に覆われた口角を上げた。
「春海ちゃんか。さっき電話があった件だな。こっちに坊主を連れて来てくれ」
矢部が白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、首を横にしゃくった、三人はそれに従い、待合室を横切って奥の方へ進んだ。衝立とカーテンで仕切られただけの診察室は、灰色のスチール製の事務机と診察用のベッドが所狭しと配置されていた。四人が入る余裕はなく、春海はカーテンを開けたまま待合室から様子を窺っていた。ヒロが本橋をベッドの上にそっと横たわらせた。矢部はラテックス製の手袋をパチンと手にはめると、本橋のシャツのボタンを開いた。
「随分、派手にやられたな」本橋の上半身を見て矢部は呟いた。そして手際よく触診と聴診を済ませた。
「顔をやられていないところを見ると、素人の仕業じゃないな。おい瑛士、一体どこの誰の恨みを買ったんだ?」
矢部は、聴診器を首に回しながら本橋に尋ねた。
「心当たりない」本橋は顔を上げずに答えた。
「拳に傷もないし、喧嘩ってわけではなさそうだな。脇腹が一番痛むだろう?」
「そうかな。内側からの鈍痛がある。後は、肋骨が折れてるような気がする」
「肋骨は下二本にヒビが入っているが、肺には刺さっていないから大丈夫だ。エコーで腹の中を見ておくか。春海ちゃん、準備よろしく」
春海は頷くと、ヒロと入れ替わって診察室の中に入り、手際よく診療用ベッドの横にある超音波装置をセットアップした。その間、矢部は本橋のバイタルチェックを済ませ、春海からジェルチューブを受け取ると本橋の腹部に垂らし、プローブ(スキャナ)でそれを伸ばし広げた。モノクロのモニターを見ながら、矢部が本橋の腹部の上でプローブを滑らせた。春海とヒロも、モニターに映る画像が意味することは分からぬまま真剣な目でモニターを凝視していた。しばらくして矢部はプローブを置き、「春海ちゃん、ジェル拭き取ってやって」と言い、グローブを外した。
「ヤブ先生、エイジは大丈夫なのか?」
待ちきれないように、ヒロが矢部に尋ねた。




