八月一七日⑧
午後七時三〇分。本橋は杉並東警察署にいた。受付で「杉並労基の本橋と言います。桐生刑事をお願いします」と告げると、受付係の女性警官は「少しお待ちください」と言い、受話器をとった。「桐生刑事宛に杉並労基の本橋さんがお見えになられていますが」と小声で告げると、受話器から聞こえてくる声に「はい。はい」と相槌を打ち、最後に「わかりました」と答えて、受話器を置いた。そして本橋の方を向いた。
「桐生刑事が参ります。そちらでお待ちください」
本橋は照明が殆ど消された薄暗いロビーのソファーの端に座った。カウンターの向こうでは、交通課や地域課の職員が電話をしたり、キーボードを叩いたりしていた。程なくして白いワイシャツの袖を肘まで捲り上げワインレッドのネクタイをルーズに締めた桐生が、本橋の左手の廊下からやってきた。
「お待たせしました。労基の本橋さんですよね」
「突然押しかけてすみません」
「ちょうど傷害犯を送致したところだったんで、大丈夫です」桐生は、本橋の隣に座った。「それで、ご用件は?」
「先日、一緒に見分した例の墜落の件です」
「ああ、あの労災事故のことですね。電話でお話してから、特に進展はしていませんよ」
桐生は、うんざりした表情で答えた。
「実は、こっちの調べで少し不可解なことがありまして」
「不可解とは?」
桐生は関心を持った様子もなく、尋ねた。
「被害者は、七月二三日から黒本組の寮にいたんです。しかし、七月三〇日まで働きもせず毎日大酒を飲んでいた。娘のために金を稼ごうとしていたはずなのに」
「ホームレスが酒に溺れるなんて、よくある話でしょう」
「そうかも知れません。しかし、彼は七月三一日から亡くなるまでの間は、一切酒を口にしていないんです」
「別におかしいとは思いませんね。久しぶりの仕事が体に応えて酒を飲む元気も残っていなかったんじゃないですか」
「それともう一つ」本橋は、食い下がった。「黒本組の番頭をしている白岩という人物が、ある日ふらりと被害者が住んでいた新宿にやってきて、娘の居所が分かった、少しは娘のために稼いで、今までの不義理を償ってやれと言って彼を黒本組に連れて行ったんです」




